人魚姫
僕の意識は、人魚姫の世界の宙に浮かんでいた。
この童話は、王子に恋した人魚姫が人間に変身し、失恋して泡と成って消える話だ。
昔、青く広がる海の底に人魚の王様が住む城が有り、そこには可愛い人魚の娘たちが一緒に住んでいました。
その娘たちの末の人魚は、人魚姫と皆から呼ばれて特に可愛がられています。
人魚姫は、人間の世界に興味を持ち、一度人間世界に行って見たいと、いつも思っていました。
人魚姫が海の中を魚たちと遊びながら泳いでいると、1匹の青い魚が慌てて飛ぶように泳いで来ました。
「人魚姫、来たよ。
王子が乗ってる船が、もう直ぐ近くを通るよ。
早く来ないと、どこかに行っちゃうよ」
「分かったわ、直ぐに行きましょう」
人魚姫が青い魚の後を追って泳いで行きます。
しばらく泳ぎ続けると、海面を掻き分けるように、大きな帆船がやって来ました。
人魚姫は浮かび上がると、海から顔を出しました。
白い帆を張り、強い海風を受けて、王子が乗った帆船が、人魚姫の前を通り過ぎて行きます。
帆船の側面の柵には、美しい金髪を海風に靡かせながら、若い王子が遙か彼方に有る水平線を遠い目で眺めていました。
「ああ、人間に生まれていれば、あの王子様とも結婚出来たかも知れないのにな」
「それなら海の魔女に、頼めばイイんじゃない?
なんか人間に変身させる秘薬を、作れるって云う話だよ」
「本当に? それなら海の魔女の所に、聞きに行って見ましょうか」
ある日、王子を乗せた帆船が突然の大嵐に遭遇し、暴れる暴風雨に晒され、大波に激しく揉まれながら流されて行きます。
その帆船が岩礁に乗り上げ、船底に開いた穴から海水が、帆船を海底へ沈めようと次々と侵入して来ました。
王子は沈み込む帆船から、荒れる海へと飛び込んで難を逃れますが、大波が王子を海の中へ沈めようと襲い掛って来ます。
大波に翻弄され続けた王子の体力が、やがて限界を迎え、王子のカラダは海底へと揺らめきながら沈んで行きました。
王子が長い眠りから目が覚めると、目の前に可愛い人魚姫の姿が有りました。
周りを見渡すと、王子が今居る場所は海の底でした。
自分の下半身を見て王子が驚きます。
なんと王子は人魚に変身していたのです。
「王子様、大丈夫ですか?
どこかおかしな所は有りませんか?」
人魚姫が心配そうに王子を見つめています。
「ボクは確か、海に沈んで死んだはずじゃ」
「私が助けました。
でも人間では生きて行けないので、人魚に成って貰うしか方法がなくて、勝手にゴメンなさい」
「いいえ、ボクを助けて呉れてアリガトウ」
それから人魚姫と王子は、いつも一緒に泳ぎ周って楽しく海の中で遊んでいました。
泳ぎ疲れて、海底の岩場に座って二人でおしゃべりを楽しみます。
「ボクが居た世界にはね、色々な草花が咲き乱れて、それはとても美しい光景なんだ」
「海にだって美しい生き物は沢山いるわよ」
「そうなんだけど、地上の世界には季節と云う物が有って、暑く成ったり、寒く成ったりして、季節ごとに景色が美しく移ろいでゆくんだよ。
ああ、あの美しさは言葉では、表現出来ないな。
君も一度見れば、ボクが言った事が直ぐに分かるんだけどね」
やはり人魚姫には、時々人間の世界へ行って見たいと云う願望が湧いて来ました。
特に王子から地上の世界の話を聞くと、とても我慢が出来なく成って来ます。
その頃、海の上では行方不明の王子を探す帆船が波間を漂っていました。
この帆船には王様の命令で、弟の王子が乗っていました。
「別に兄を探さなくても良いだろう。
後継ぎには、ちゃんとワタシがいるんだから、何も問題ないじゃないか」
次の日も帆船は海の上を漂っており、食事用の魚を獲る網を投げ入れると、驚いた事に可愛い人魚が引っ掛かりました。
弟王子はこの人魚を一目見て大層気に入り、自分のお城へと連れて帰りました。
自分の部屋に大きな水槽を用意し、海水を入れて人魚をその水槽へと放ちます。
「君は話せるのかい?」
「ええ、話せるわよ。
私は人魚姫と云う名よ。
人間の世界を見たくて、ワザとアナタの網に捕まったのよ」
「そうなのかい?
もしかして人間に成りたいのかい?」
「そうよ! 人間に成りたいのよ」
次の日、弟王子はお城に務める魔女を、人魚姫が居る部屋へと連れて来ました。
魔女は気味が悪そうにしている人魚姫を眺め回し、不気味な笑い声を上げて言いました。
「ふむふむ、成程のう。
まあ、何とか成るじゃろう」
魔女は地下室に閉じ籠もると、三日三晩部屋からは出て来ませんでした。
その間、魔女の地下室からは変な声や、得体の知れない物音が聞こえ、鼻を刺激する異臭が漂っていたのです。
弟王子と魔女が、人魚姫が居る部屋へとやって来ました。
魔女が差し出す秘薬は、人魚を人間へと変える魔法の秘薬です。
ですが臭いがキツイので、人魚姫は飲むのを拒否します。
すると魔女は呪文を唱え、人魚姫を眠らせると、無理矢理に口の中に魔法の秘薬を流し込みます。
「おお、人魚姫の姿が人間の姿へと変わってゆくぞ」
やがて弟王子の前に、可愛らしい娘が誕生し、名を姫魚にしました。
弟王子は姫魚の要望に従って、野原や森を馬で駆け巡ります。
姫魚は色々な草花が美しく咲き誇る、その美しさに見とれてしまいました。
花だけでは有りません。
森には美しい声で鳴く鳥が飛び交い、地上に居る生き物も躍動する姿がとても美しく生命に満ち溢れていると感じられました。
「ここは変化に富んでとても美しいわ。
海には似たような魚がいっぱい居るだけですものね。
色合いが海と地上では全然違う、別物ですもの。
ずっとこの世界で暮らしていたいわ」
やがて弟王子と姫魚は、結婚する約束を交わしました。
国中がその話題で持ち切りに成り、噂は海の中にまで伝わって来ました。
一方、人魚に成った王子は、人魚姫が姿を消してから、諦めもせずに世界中の海を泳いで、捜し回っていました。
そんな王子の元に、人魚姫が人間に成って、弟王子と結婚すると云う話が、飛び込んで来ました。
「これは一体どう云う事なんだ?」
王子は海の魔女の家に向いました。
海の魔女を見つけると、問い質します。
「海の魔女、どう云う事かボクに教えて呉れ」
「そんなに知りたいか?
知れば元には戻れぬぞ。
それでもお前は知りたいか?」
「ああ、ボクに隠さず全てを教えて呉れ」
「人魚姫が『人魚を人間に変身させる秘薬』を求めて、儂の所に訪ねて来たのが始まりじゃ。
儂は『人間を人魚に変身させる秘薬』しか作れなんだ。
それを知って人魚姫が『お前を海に沈めろ』と儂を脅したのだ。
王の娘に逆らえば、儂は海で生きて行けなく成る。
だから仕方なく、お前の乗る帆船を魔法で作り出した嵐で襲い、座礁させてお前を海の底へと沈めたのだ。
そして儂の秘薬で、お前を人魚へと変えた。
それが儂が知る全てだ」
王子は衝撃の事実を知り、愕然としました。
「まさか人魚姫が、ボクをこんな目に遭わせていたなんて」
海の魔女が王子に魔法の短剣を渡しました。
「この短剣に自分の血を付ければ、お前は三日間だけ元の姿へと戻れる。
だが、その三日間のうちに、人魚姫をその短剣で殺さないと、お前自身が代わりに死ぬ事と成る。
どうするかは自分で決めるが良い」
次の日、海岸に王子の元の姿が有りました。
手に持つ短剣には、既に王子の血がついています。
明日には弟王子と姫魚の結婚式が、お城で開かれる予定で、二人はとても幸せそうでした。
そこに兄王子が魔法の短剣を持って、人魚姫の前に現れました。
「ボクが乗った船を無理矢理に海へと沈めて、勝手にボクのカラダを人魚へと変えてしまう。
今度は勝手に居なくなって人間に成り、ボクの弟と結婚するだって!
それじゃ、あまりにも自分勝手過ぎるだろ。
あんまりじゃないか」
+ - × ÷ = ¥
兄王子が怒りの短剣を振り上げた時、僕は人魚姫へと変身していた。
変身したての僕は、咄嗟にどうする事も出来ずに、ただ呆然と佇んでいた。
だが魔法の短剣は、僕の胸には刺さらず、少し手前で止まっていた。
そこを弟王子の剣が、兄王子を背中から切り付けていた。
「お前は、もう邪魔者なんだよ。
死ね!」
兄王子はその場に崩れ落ち、そのまま息絶えてしまった。
結局、兄王子は僕、人魚姫を殺そうとはしなかった。
やはり兄王子もこの現実に、絶望してしまったのか?
例え人魚姫を殺しても、この狂った運命の歯車は元には戻らず、何も変わらないと諦めてしまったのか?
僕には兄王子が短剣を止めた理由が分からないが、この話がこれで終わりでは僕が納得出来ない。
兄王子の悲劇の物語なら、それを変えよう。
僕は短剣を手に取ると、自分の胸に深く突き刺した。
「姫魚! なんで自分を刺したんだ?」
弟王子が戸惑う中、僕は兄王子の手を取って、握り締めた。
せめてロミオとジュリエットのような、純愛物語として語られるようにと願って、僕の意識が閉じた。
童話には最後に『天に昇って幸せに成る』と云う話のパターンが結構有り、僕はいつもこの安直な展開が不満だった。
まあこのような童話は、たぶん宗教関係者が創っているから仕方がないが、僕には『死んでから幸せに成る』なんて話は信じられなかった。
どうせ創るのなら、この世で幸せに成る話にして欲しい。
それなら僕でも納得できるのに、やはり現実世界で幸せに成るのは、そう簡単な話では済まないのだろうか。
死んでから会った神様は、無限地獄へ落とすのが楽しそうだったけどね。