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デストルドーに取り憑かれて

昔、ブログに投稿した話の再掲です。

 ある寒い冬の日、友人の声楽発表会にお邪魔した。

 趣味で歌を習っていると聞いていたけれど、リアルな歌声を聴くのは初めてだ。

 私は音楽全般に無学で、外国語にも疎く、何を歌っているのか分からない。友人に感動を伝える適切な言葉を思いつかない。それが残念だ。


 無知な私でも、どこかで小耳に挟んだことのある歌曲だった。

 私の母と妹はクラシック音楽が好きで、良質のものを聞き、学び、見聞を広めるために長年さまざまなエネルギーを割いてきた。

 きっと私も、実家にいた頃に聞いたことがある歌だったのだろう。歌詞の意味が分からなくとも、友人の声は瑞々しく澄んでいて美しかった。




 ヒトは何のために生まれてきたのか。生きているのか。

 時代と国を超えて、何度も問われ続ける哲学的な問いかけ。その答えはヒトの数だけあるだろう。


 私は、ヒトは美しい記憶を持ち帰るために生まれてくるのだと思う。

 けれど、輪廻の果てにすべてを手放し、すべてが塵に還るとしたら。記憶を持ち帰ることなど不可能かもしれない。


 ならば、私が美しい記憶そのものになればいい。誰かの記憶に残るように、精いっぱい生きればいい。

 しかし、その記憶もいつか塵になる。塵とはゴミである。


 美しいもの。醜いもの。

 美しい行動。醜い行動。

 美しい記憶。醜い記憶。


 賢いこと、愚かなこと。

 強いこと、弱いこと。


 自分のすべてを引き換えにしても守りたい愛しい者。記憶。

 自分のすべてを引き換えにしても殺したい憎い者。記憶。


 すべて等しくゴミである。

 例えるなら、燃えるゴミと燃えないゴミ。その程度の違いでしかない。




 私は物心がついた時から、デストルドーに取り憑かれている。

 デストルドーとは、「死へ向かう情動」を意味する。狂気の沙汰かと思われるかもしれないが、遅かれ早かれヒトは必ず死ぬのだから、誰もが持ち合わせている本能とも言える。

 別に、自殺を企図しているのではない。昔も今も、自分の手で自分自身を傷つけたことは一度もない。この先もないだろう。私は人一倍チキンである。苦痛は避けたいし、流血などもってのほか。

 だが、自然ななりゆきで命を手放すことができるなら。


 自分の命に価値が欲しい。生きている理由が欲しい。

 そんなエゴイスティックな動機で、私は献血ルームに通い、骨髄バンクに登録している。崇高な気持ちは微塵もない。


 死後の肉体は、どこかの医大に献体するか、できることなら鳥葬したい。チベット辺りではいまでもやっていると聞く。

 自然の法則、食物連鎖にのっとり、やがて土に還る。それは生き物の定め。美しい死だと思う。生きながら食い物にされるのはゴメンだが、死後ならば喜んで食い物になろう。

 私もまた、さまざまなものを食って、これまで生き長らえてきたのだから。


 私はずっとそう思ってきた。命の価値とは、生の価値であり、死の価値である。

 どう生きるか、が生の価値。どう死ぬか、が死の価値。




 もし、死期を自由に設定できるとしたら、今がその時だと思う。

 就職氷河期の果てに、ようやく社会人になって間もないころ。家族は、私に生命保険をかけた。定職に就いているのは私だけだったので、私の身に何かがあったとき、残った家族が路頭に迷わないように。

 才能豊かな妹が音楽を学ぶためのレッスン費用、学費。そのために移り住んだ家のローン返済。

 10代の頃、デストルドーな心情を漏らしたときに、このように言われたことを覚えている。


「ヒト1人育てるのに、どれほどの経費と労力がかかるのか考えなさい。無駄な子育てをやらせないで」


 一理ある。発作的なデストルドーは鳴りを潜めた。

 私が成人するまでにかかった経費と労力は、利子付きで充分なほど返した。金銭以外にも、言えること、言えないこと、さまざまな貢献をしてきたと自負している。

 父は人の下で働くことを嫌い、採算度外視の事業をしているから、私はいつの間にか一家の大黒柱となっていた。




 あるとき、私は自分の境遇に疑問を抱き、家族の元を離れた。これからは自分の為に生きようと思った。だが、家族を嫌いになったわけではない。今も複雑な心境を抱えているが、昔と変わらず家族を大切に思っている。もちろん自分のことも。


 私の生命保険金は、母が受取人になっている。若い頃の母は、よく酷いヒステリーを私にぶつけた。あたたかな記憶よりも、痛みを伴う記憶の方が圧倒的に多い。それでも私は母の生い立ちに同情的で、幸せになってほしいと願っていた。

 母が治る見込みのない難病におかされてから2年が経過した。同じ時期に発症した方は、すでに故人となっている。


 母の発病後、私は距離を置いていた実家にときどき帰るようになった。家族と過ごしながら、父の老いと母の余命を感じるにつれ、いろいろ考えるようになった。

 母の死後、私は保険金の受取人を父や妹にしたくないと考えている。私は生きながらあなたたちの糧になってきた。死んだときの糧は、母に捧げよう。私の命の代金なのだから、私が使い道を決めたい。


 もし、私が先立つことが叶うならば。母が望む最期と葬儀を実現することができる。

 こぢんまりと身内だけでいい。読経の代わりに母が愛した音楽を流し、白黒の垂れ幕の代わりにレースのカーテンを下ろし、モネの庭のように朝採れの生花で棺を埋め尽くしたいのだと言う。

 母が望む美しい死出の旅路。それは夢のように綺麗な光景だろう。だが、一般的ではないセレモニーを行うには大金が必要になる。

 私の命の代金は、母に使ってほしい。それが私の願いだ。


 命の価値とは、生の価値だ。そして、死の価値でもある。

 どう生きるか、が生の価値。どう死ぬか、が死の価値。


 私の命、生と死の価値。死期を自由に設定できるとしたら、もっとも価値ある時は「今」だ。

 自分の手で自分自身を傷つけたりしない。だが、自然ななりゆきで命を手放すことができるならば本望だ。今が一番いいと切実に思う。

 望む未来へ向かって、意志と想いのエネルギーを注ぎこんだら、私の願いは叶うだろうか。

 この物語の結末を見届けるのは、誰だろう。


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