第二話『氷山の一角の生命』 3
その日の夜。私たちは二人で、薄い毛布にくるまって横になっていた。
トワのために、物置から毛布を一つ拝借した。シュユさんは怒るだろうが、この犯行が明るみに出ることはないだろう。
一つしかない窓から差し込む月の光以外に、今が夜であることを示すものはない。ランプは変わらずに部屋全体を照らしている。
そんな中、トワはそのランプの明かりだけで、例の記録ノートに向かっていた。うつ伏せという筆記に向かない姿勢でありながら、相も変わらず凄まじい速さで何かを書き込んでいる。
「……何を書いているんですか?」
「日本語です」
それは当然分かっている。
「同居人として、セツナさんの人格について纏めています」
「わ、私のですか!?」
「ご覧になりますか?」
「いえ、結構です……」
私について纏めている、と言われて私は何故だかとても驚き、それから毒気を抜かれたようになってしまった。
この幼い少女に対して、少し警戒しすぎたのかもしれないな、と思った。それでもどこか、話しづらいところがあるのは変わらないが。
私が他愛もないことを考えていると、トワの手が突然止まって、その顔だけをこちらに向けてきた。青みがかった瞳に見つめられて、私は高校生の時以来感じたことのなかった感情に襲われてしまう。
少し、後ろめたかった。
「セツナさん。私にはひとつ、気になっていたことがあるのですが」
「な、なんでしょう?」
後ろめたさに、思わず声が上ずってしまう。
「セツナさんは、《発掘人》というお仕事をされていると伺いました」
「……どこでそれを?」
「屋根裏の床の隙間から皆さんを覗いていました」
恐ろしいことをしているものだ。ということは、私の言動もこの少女に監視されていた可能性があるのか。
私は、今度から《箱舟》での行いには気を付けようと決意した。
「凍り付いた物は、生物非生物関わらずその活動を停止してしまう。セツナさんはその氷を砕いて物品を回収し、《箱舟》の人々が持つ食料品と交換している。間違ってはいませんよね?」
「――ええ。その通りです」
私の返答までに一瞬の逡巡が混じったのは、少女の言葉の『活動を停止』という部分に対してだ。
確かに、全く動かず、変化することもない物は、その活動を停止していると見えるかもしれない。しかし、私は私たちを戒め続けているあの氷がもたらしているものは、そして奪っているものは、もっと根本的な事柄だと思うのだ。
とはいえ、今それを語ったところでこの少女が納得できるような説明が出来るとも思えなかったので、黙っていた。
「氷の中にあれば、物は朽ちず、人は死ぬことがなくなるのですよね」
「そう……ですね」
恐らく、そうなのだろう。凍った人の死について確証は持てていなかったが、氷漬けの状態の人間には、そう、言うなれば自らの手で変化を放棄したかのような印象を与えられる。
まるで、氷とはその意思表示に過ぎないのだとでも言うかのように。
少女は一定のペースで言葉を紡ぎ続ける。
「ならば、氷を砕くべきではないのではないでしょうか」
「……え?」
私には、トワの言っている言葉の意味が理解できなかった。
「人間は死を恐れます。すべての人間が、”永遠”に生きられるのならば、それは望ましいことではないのですか? 勿論、物に関してもそうです」
「そう、そんな事は……」
氷漬けの人間は、即ち”永遠”の命を手に入れている、ということか?
それは……間違っているのではないだろうか。いくら”永遠”に死ぬことがなくなるとは言え、氷の中の生涯を生と呼べるのだろうか?
私は少女からの問いにも、自分からの問いにも答えることが出来なかった。私はまだ、この超常現象に対しての理解が余りにも不足していた。
「……すみません、私には答えられそうにありません」
暫くの後、私は消え入りそうな声を返した。
「今は、まだ――」
私の声が闇の中に溶けて、どれだけ待っても恐れていた少女の声はしなかった。
訝しんでそちらを見てみると、なんとトワは手帳を持った両腕の間に顔をうずめるようにして突っ伏していた。
「寝てる……」
拍子抜けしてしまって、私は天井を仰ぎながら暫くの間物思いにふけった。
凍ることの意味。氷を砕くことの意味。
氷を切り出して作ったような少女との出会い。それは、世界が変わって以来ずっと抱いていた心を揺らがせることになった。
それと同時に、私はこの状況にどこか転機のようなものを感じてもいたのだ。
結局思考は纏まらないままに、私はいつの間にか眠りに落ちていった。