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フィクションとノンフィクションの境界なんて、案外呆気ないものだと思わないかい?
例えば、『自分はフィクションの中にいるのだ』と自覚している人物がいたとして……その人物と他の登場人物はどうやって区別されるんだろう? ちょっと変わった人、扱いだったり?
まあ間違いないのは、私達が一つ上の宇宙、自分の居場所より高次元の世界のことを考えるのは難しい、ってことだ。
だって、メタフィクションは扱い辛いものだからね。
淹れたての紅茶に、一つ口をつける。
ポットから注いだばかりの、湯気が立つ紅茶……喉を通り過ぎた瞬間にぞっとするほど冷たい液体に変わって、五臓六腑に冷気を浸透させる。しかしその不気味な冷たさが、今は何とも心地よく感じた。
「キミという人物にご足労願っている以上、半端なもてなしは出来ない」
ティーテーブルの向かい側に座った女性が、ポットの中身を確認しながら呟く。温泉の源泉から出るそれのようにひっきりなしに漂い続け、彼女の顔を隠していたポットの煙が、彼女がティースプーンでひと混ぜすると嘘のように消えてしまった。私は返事をせず、すっかり冷めてしまった紅茶を再び口に運ぶ。
心地よい涼しさを感じる部屋だった。真夏の暑い日、エアコンの効いた和室で一人寝転がっているような──
「幻想的な風景には紅茶が似合う。今回の舞台に合うように、うんと冷やしたものを用意しておいたよ」
紅色が舌を滑り落ちて行く度に、マイルドな香りと甘みが体中に広がる。
いい気分だ。本当に、いい気分だ。
辺りを見てみれば、無機質に番号が割り振られた扉、時代遅れの蛍光灯、不似合いな観葉植物の緑色──どこかの廊下にいるらしい。だが、そんなことはもうどうでも良いと思えた。
その景色は、全て氷漬けになっているのだから。
これが万物の行きつく先だと思えた。もはや無駄な頓着や感慨を抱くこともない。
「さて……どのように話そうか? そうだなまず、自分自身のことから話しておこう。二人称が“彼女”ばかりじゃ単調になるからね……“ドク”、と呼んでくれ。キミが過去に出会ったとある女性の記憶から、深層心理で育てていた衒学者の疑似人格……ということになっているよ。まあ覚えてもらわなくても、キミたちの物語には全くもって関係のないことだが」
露わになった女性──ドクの素顔。あたりを包む薄氷に乱反射する光のせいか、上手く記憶に留めることが出来なかった。光を呑み込む黒い左眼と、宇宙を覗くかのような青色の右目で、子供が浮かべるような好奇心に溢れた表情でいたことだけ、認識できた。
「本来ワタシはキミなんかと出会ってはいけないのだけれど。先ほども言った通り、ワタシが今から何を言おうと全くもってキミに影響を及ぼすことはないことは保証されている。いわばこれは”つなぎ”でしかないんだ。……現実世界で、とある悲劇に遭ったキミのために用意された、お節介で風流のない答え合わせさ」
こちらが返事をしないのにもお構いなしに、ドクは話し続ける。錘が十度ほど傾いた柱時計が、十一時五十八分を指し続けていた。
紅茶を口に運ぶ。香りを楽しむ。体が芯から冷たくなるのを感じる。
「一刻の間に、キミの心象風景は様変わりしてしまったようだ。無理もない、キミがいる空間は生物にとって酷く都合のいいものだからね。ある映画の受け売りだけれど、生物は種を保存するために大きく分けて二つの手段をとる。それが……”繁殖”もしくは”不老”だ」
どこか衒学的な語りは、はるか遠くから響いてくる。私のいる場所には何もない。私と、紅茶。それ以外は不要。
「不死はともかく、”不老”でいるというのは、実はそう難しいことじゃあない。寿命というのは、生物が自らに課した制約にして、繁殖の代償に過ぎないのだからね。二つの選択肢はコインの裏と表、どちらか一方のみが成立するようになっている。それ故、変化のない安定した状況において、生物はたやすくそれを受け入れるだろう、と推測されている。例えば、周りの全てが氷に覆われている永久不変の監獄の中、とかね」
紅茶を飲む。私だけがいる。
「不老の性質は自己完結……周囲と交わることも、何らかの情報を交換することもない。当然だ、他者というのはイレギュラーだからね。病原菌、闘争、異なる思想……性的接触を必要としなければ全く無用の存在だ。邪魔以外の何物でもないと言ってもいい」
私だけがいる。
「互いの尾を噛み合う、ウロボロスの円環。自分の精神と肉体だけで全ての認識を構成する……究極的にはそんな世界が待っているのかもしれない。いや、或いは肉体は不要か? 所詮それは精神が外部にアクセスするためのデバイスでしかない、という見方をするのなら。つまり、一匹の蛇が自らの尾を噛んでいるわけだ」
私だけが──
「だがそうなった場合、キミはどうやって自己を認識するのだろうね?」
飲む手が、一瞬だけ止まった。
こちらを覗き込む一対の目が、それを見て一瞬だけ細められる。
「もちろん鏡で見るなんてわけにはいかない。だって鏡はキミじゃあない、存在するはずのないものだ。そして人間は──或いは生物とは全て──ほかの対象と比較することで認識を成立させるものだ。マスカットは緑色で、葡萄は紫色。布団は日本の寝具で、ベッドは西洋の寝具。人間は特に言葉を持っているからこそ、それを明確に分かつことが出来る。正に、”分かる”。よく言ったものだね。“紫”と“青”を区別する語彙を持たない文化にとって、虹は六色だと聞いたことがあるだろう?」
「……」
「さて、不老不死の人間……自己完結した人間には、“生”きている人間から干渉することは出来ない。そして当然、その逆も然りだ。誰も触れられず、見えず聴こえず、また向こうから何をしてくることもない……さて、人間はこういう状態のことを何と呼ぶんだったかな? そこに認識できる自我は存在するだろうか?」
「それ、は……」
「今、キミの精神はとても不安定な状態だ。やがて“不死”を受け入れて自己完結の波に呑まれてしまった時、キミの肉体は晴れてその役割から解放される。……正直言って、それでも留まっていること自体がイレギュラーなんだがね。普通の人間は即座に生物の本能に従って、衒学者の語らいにわざわざ耳を傾けたりしないものだよ」
「……なにを、すれば……?」
「単純にして明快な疑問。嫌いじゃない、ああ嫌いじゃないよ。さっきも言った通り、結局ワタシが何を言ったって影響はないんだろうが。しかし誰だって自分の得意分野を最大限に発揮できる場を渇望しているし、地の文がない文学なんて退屈極まりない。だから……」
ドクは抑えきれない笑みを右手で抑えて、左手でティーポットを握る。ゆっくりとそれを傾け、ポットから流れ出した輝きはすぐさま机の上を覆いつくした。
「単純にして明快な、答えをあげよう。伏線も納得もない、第四の壁の向こう側から究極のご都合主義を」
視界いっぱいに金色が広がる。その眩しさに、私は三度瞬きをした。ぎゅっと目を瞑ってから開くと……辺りの光景は、全く違うものになっていた。
無機質に番号が割り振られた扉、時代遅れの蛍光灯、不似合いな観葉植物の緑色──しかし、氷漬けになっていない。なっているはずがない。だってここは《箱舟》の中、私たちに最後に残った居場所なのだから。
対面の女性の声が、頭に直接響いてくる。
「死を受容し、生き返るんだ。目を開け、全てを見て、万物を味わい、感じ、声を出せ。外部から、内部から、あらゆる情報を受け入れることで、完結した自己は再解釈される。キミを担保してくれるものは何かな?」
「私には、居るべき場所、がある」
「先人から遺された言葉、長い間秘められた思い、特別な人間から託された情愛、その全てがキミを蘇らせる。死を迎えるまで、“死”を拒絶し続けろ、それはキミにしか出来ない」
「話さなければならない人が、いる」
「もうじきキミの肉体に変化が起こる。その大きすぎる変質を受容しなければならない。なあに、心配はいらない。実際のところ君だって、ここに来た瞬間から答えを決めていたし、立役者の少女は、もう自らの手でその抗体を見出し、劇的な“変化”を遂げているし……」
「あ、ああ……知っ、ている。その人のことを……分かる、私は……!」
忘れてはいけない人のことを、忘れてしまっていたことに気が付いた。
雪山に満ちた湖の瞳。滝のようにうねる黒い髪。雲雀の運んでくる歌声。凍った少女、私のそばにいた少女。絞り出すようにして、その名を声に出す。
「トワ……!」
動き出していた柱時計が、十二時の鐘を打った。私の右手からティーカップが滑り落ち、軽い音を立てて二つに割れた。心臓が全身に血を巡らせ始め、私の意識は何かに引っ張られるように急激に遠くなる。
『生きたいと願うのなら、死を取り戻さなければね』
最後に響いたのは、こんな声だった。




