第十話『絶対零度の天国』 3
少女はサーバーにもたれかかっていた姿勢を正し、一つ大きな伸びをした。もうすぐ自分の記憶が初期化される頃合いだ、と思いながら。
既に成長した状態で生まれ出た“霜月トワ”には、生活を行う上で“基本”だと考えられた情報が予めインプットされていた。自分の名前や人間の生命維持の方法を始め、秋の大四辺形の名称と見分け方、嗜好品に近い筆記具のブランド知識、人体中の赤血球の数、そしてテロメアと寿命の関連性……両親が選び出した“一般的”な生物学の知識で以て、彼女は自分の記憶がどのように保存されてきたか悟っていた。
今までアナログ媒体を用いて記録の保全と修復を繰り返さなければならなかった理由は、脳のチップから受け取った記憶を保存するためのサーバーが機能を停止してしまったためだ。解釈不安定な文字によって書かれた、感情的な文章の羅列。それも、もうすぐ不要になる。来たるべき世界にあるのは、存在し続ける命だけなのだから……そう考えて、少女は椅子から立ち上がって、数歩歩いた。入り口からは膨大な書類と分厚い本の影になって見えない部分に、その下敷きになった状態の人間が一人倒れている。
恐らく作業中に事故に遭ったのであろう、六十歳前後の老婆。頭部からは赤い血が流れだしており、致命傷なのはトワの眼でなくても明らかだった。少女はまた、微笑む。一人の命が、こうして救われている事実に。
そう、これこそ理想の姿なのだ。『死んでしまっては何の意味もない』……命は大事にしなければならない、それが彼女の知る絶対的価値であった。この老婆が誰かは知らないが、命は等しく尊いのだ……
「そう思いますよね、セツナ?」
部屋の中央に向かって、そう言った。
佇む少年から、返事は返ってこなかった。
少女はゆっくりと、少年の方へと近づく。周りをぐるぐると回る。じっと見つめてみる。
ひとしきりやった後溜息をついた少女は、その興味を部屋の隅に転がったガラス製品に向けた。近づいて持ち上げてみると、その中には辺りを照らすことももはや叶わぬほど小さな火が瞬いていた。
「結局、あなたは最後まで変わらないのですね」
少女は、記憶の中で慕った少年の方をもう一度振り返った。
「どうせなら、笑っていてほしかったです」
驚愕の面持ちで、サーバーに向かって手を伸ばす、少年。
その、氷像を。
「だけどこれから、言語を介したコミュニケーションは不要になります」
一緒ですから、と少女は微笑む。
それから、全てが無に帰し、自分がこの街に生きている生命の一つになる瞬間に備えようと、サーバーの近くに戻ろうとして……足に何かがぶつかる感触で、立ち止まった。
「これは……」
足元で硬質な音を立てたそれは、カメラだった。今日までの彼女の記憶だ。
今朝確認したから、内容は全て知っていた。高所からの夕焼けに始まり、屋根裏、屋敷、セツナ、住宅街……コンピュータ制御された記憶は、その全てを完璧に思い出せる……とそこで、トワは自分の頭の隅に引っかかるものを感じた。
(そういえば、どうして私はこの記録媒体にこだわっていたのでしょうか?)
それはちょっとした、好奇心だった。自分の感情を当たるのに最も適した媒体は、すぐ近くに転がっている、手帳に……伸ばしかけた手が、ふと止まる。
自分はこのカメラや手帳や万年筆を、ここに持ってこなかったはずだ。ならば何故、これがここにある? 回答は同時に出てきた。セツナだ。しかし何のために? 回答は出て来なかった。
気を取り直して手帳を広い、一ページ目から捲り始める……その手が微かに震えていることに、彼女は気が付いていない。
一ページ、二ページ、……十七……五十八……百二十……どこの記述も、完璧に覚えていた。事実、事実、感情、理論、事実、理論、事実、感情、感情、歌詞、理論、感情……一字一句、知らないことは無かった。
「……分か、らない……」
それなのに、セツナの行動の答えは載っていなかった。否、彼女にはそこから情報を引き出して理解することが出来なかった。
「どうして……!」
その瞬間、彼女が感じた感情は。言語にするのなら、恐怖、そのものだった。
これから永遠に、永遠に共にいるはずだった相手のことが、急に遠くに感じられる恐怖。今日一日の記憶と、手帳の記述しか知らない彼女にとって、それは未知の体験だった。少女は恐怖する。その手から、火の灯ったランタンが滑り落ちた。
それは割れずに地面にぶつかって硬質な音を響かせた後、部屋の奥に向かって転がり……鎮座する黒い巨壁に当たった。
その瞬間、サーバーの一点にほんの少しの……本当に少しの明滅が走る。
その一瞬で変化したものは、もう一つ。呆然とした表情で少年を見つめるトワの瞳に、幻のような……否、幻そのものとも思える“何か”が浮かび上がった。
そして少女は、目を見開く。
汝この門を潜る者、一切の記憶を捨てよ。




