第十話『絶対零度の天国』 1
一人で立ち止まるには歩き続けなければならないが、全員で一斉に立ち止まればその限りではない。
街の氷は厚みを増し、身を刺すような寒さが私の周りを取り巻いていた。
一瞬でも足を止めたら、そのまま呑み込まれてしまいそうな“静止”だった。吹雪いているわけでも、氷が身体に纏わりついているわけでもないのに、指先を動かすだけでも気の遠くなるような気力を使う。
それでも私は、一心に走り続けていた。
「トワ……トワ……!」
大声で彼女の名前を呼びながら、灰色の空に突き立った煉瓦の建物を目指す。
声は地面の氷に吸い込まれ、反響が返ってくることもないが、私は叫び続けた。それは自分の気力を奮い立たせるためでもあった。
「はあっ……はっ……」
長い間有酸素運動に慣れていなかったせいで、時計台の目の前までたどり着いた時には完全に息切れしてしまっていた。
涎の垂れる口元を手袋で強引に拭ってから、私は一つ息を整え、“あの時”の瞬間を刻み続ける時計台の中に足を踏み入れる。
コンクリートで構成された武骨な内装を、西日が広く照らしていた。もうすぐ夜がやってくる……焦燥感に責め立てられつつ、ランタンで足元を照らしながら歩いていた私は、地面の氷にブーツの形の汚れが付いているのを発見した。
足跡は部屋の隅、どこまでも続いていそうな地下への階段を示していた。
「……」
意を決して、闇の中に飛び込む。
音も空気の動きも無い空間で、ひたすら同じ方向に進んでゆく。辺りは完全な暗闇……この世界に自分一人だけ取り残されたかのような感覚が、私の足を竦ませた。押しつぶされそうな思考は、別の事柄に逃避を求める。
『霜月トワとは何なのか』……写真に写っていた少女や、神無月ゾウジとの関係性は、どうなっているのか。ここに来るまでの間に、私は色々と仮説を立てていた。
まずは単純に、非常によく似た子供だという線……あの写真が撮られた後、トキに何らかの不幸が起こり、それから最近になってトワが産まれた、ということを考えた。
しかし、これは現実味が薄いように思える。あの夫婦が額面通りに年齢を重ねたならば、新たな子を授かるには高齢が過ぎる上、やはりトキとトワの外見は偶然の一致では済まされない程よく似ていた。そう、まるでクローンのように……というのが、二つ目の説だ。
生物のクローンは、実証可能な段階まで来ているという。誂え向きに、ゾウジは生物学の権威だ。亡くなった我が子のクローンを作った……私は生物学の分野には全く詳しくないが、先ほどよりはまだあり得るように思えた。
「しかし……」
足は止めずに考え続ける。よしんばクローンだとしても、彼女にまつわる様々な事象に説明をつけることが出来ない。最も大きな二つは、何故記憶が一日でリセットされるのか、そして何故この災害の中、ランタンも無しに無事でいたのか、ということだ。この世界で、彼女だけ凍らない……
「いや、凍る“必要がない”のか?」
ふと、そんな考えが浮かんだ。それと同時に、“あの日”ゾウジが言っていたことを思い出す。
『私には、この氷が何者かを傷つけるための物には思えない。大切な何かを、時間という力から守るための揺りかごのような……暖かさすら感じるのだよ」
この氷が庇護の象徴だとして、その中に彼女だけが入れない、というのはおかしな話に思える。トワが持つ何らかの性質が氷を必要としていなかった、と仮定すると、氷の主はそれを知り得、同時にあの氷の発生に関与している人間……
ゾウジは確実にトワのことを知っているが、氷について無知なのは本当のことだと直感していた。もしも彼が黒幕だとしたら、かなりの演技達者だ。長年世話になった人物を、そんな風に疑いたくはない。そうすると、この街を氷漬けにした人間の条件はただ一人を指し示すように思えた。そして、それが意味することも。
「まさか……」
じゃり、と今までとは違う感触が靴から伝わってきて、私は思考の渦から引き戻された。実際には三十秒に満たない時間を何十分も過ごした末に、私は地階にたどり着いていた。
そこは研究所のような部屋だった。紙束が乱雑に積み重ねられ、あちこちに英字の分厚い本が散らばり、かと思えば巨大な黒い直方体──恐らくサーバーか何かだ──が置かれていたりした。私の眼は、すぐその景色のうちの一点に吸い込まれる。
黒い直方体に寄り添うようにして、氷の眼をした少女がこちらを見ていた。
「……来てくれると思っていました、セツナ」
慈愛に満ちた声で、笑った。




