第九話『華氏-459度』 1
知ってしまってから後悔しても遅いから、初めから燃やすか凍らせておいた方が良い。
「戻りましたよ、トワ」
埃と木材が混じった匂いが、私を安心させてくれた。
椅子に座って自分の記録を眺めていた少女が、私の姿を認めるとそれを置いてこちらに駆けてくる。
「待っていました、セツナ」
「すみません。トワが覚悟を決めたのなら、私も一度すべきことを済ませておくべきだ、と思って」
私は病院で『彼女』に会ってきたことから始め、今まで自分が体験してきたことを改めてトワに話した。傲慢な友人、青春の記憶、不思議な医者……
自分の体験を、自分の思うままに他人に話すというのは、純粋な語り手と聞き手による、最も原始的なコミュニケーションだ。記憶野から口へと出て来るまでに、経験は再解釈され、新たな側面を見せてくれる……それが楽しくて、私はつい喋りすぎてしまった。
「それで、そいつはアイドルの衣装を自作して──」
「セツナ」
いつも通りの無表情で、トワは私の目の前に掌を突き付けてきた。
「その話も興味深いですが、まずは私の依頼を果たしてください。ずっと待っていたんですから」
「あ……すみません、楽しくなっちゃって」
「分かっています。……終わった後で、ゆっくり聞かせてもらいますから」
そう言って、彼女は微笑んだ。
「それも良いですが、私はトワの話も聞きたいですね」
「……うふふ。そうですね、きっと」
二人で笑い合う。慣れない様子でぎこちなく笑うトワの顔は、希望を体現しているようにすら見えた。
もはや彼女にとって、過去は氷に閉ざされた遠い存在ではないのだ。
「分かりました、始めましょう。手立てはありますか?」
「はい。これが……」
そう言って、小さな円盤のような物体を差し出してくる。
金色の円盤には、それと同じ色の鎖が出鱈目に絡みついていた。まるで歴史ある建物に生えた蔓のように。
「これは……ロケットペンダント、ですか?」
「起きた時から、ずっと持っていました。今のあなたになら、セツナになら……これを、託せます」
この中に、トワの正体に迫る何かがある。
彼女はそっと、ペンダントを私の手に乗せた。何も言わずに、暗い色の瞳でじっと見つめてくる。その奥に、強い意志を込めて。
私は頷いて、ひんやりと冷たいそれを握りしめた。
「あなたの過去がなんであろうと……私にとってあなたは、霜月トワです。そのことを、忘れないで」
ランタンとハンマーを取り出す。
今までに運んできたどんなものよりも、小さい。万が一にも中身を傷つけることの無いように、慎重に槌を振るう。ランタンの熱さからではない汗が、私の額から流れた。
今明らかになろうとしているのは霜月トワという少女の記憶、しかしそれだけではなく、この中にはきっと、街の秘密につながる手がかりもあるのだと、私は直感していた。
もうすぐ、この終わらない世界が、終わるかもしれない。
そうしたら、トワと二人でどこかに行くのも良い。もちろん、彼女の意思次第だが……そんなことを思っていると、氷が今までとは違う音を立てた。
「……来た」
氷が溶け、ペンダントを覆っていた鎖がだらりと垂れる。
前のめりの姿勢で見つめるトワと共に、手袋を外した私はゆっくりとそれを……開いた。
「これは……」
「……っ」
少女が、息を呑む音が聞こえた。
ペンダントの中に納められていたのは、一枚の写真だった。少女と、それを挟むようにして立つ男女……恐らく、家族写真。
真っ先に目を引いたのは、彼らの子供であろう少女の姿だった。『Happy Birthday』のプレートを手にこちらに向かって満面の笑みを浮かべる、白いワンピースの少女。清らかに流れる黒い髪、そして深い青の入った瞳。
その姿に、私は見覚えがあった。
「トワ……?」
写真の少女と、トワの姿は、瓜二つだ。
向かい側にいる少女の表情が、読めなくなった。
次に私が目を付けたのは、蓋の裏側に書かれた文字。被写体の名前と、写真の撮影日時を書き記したと考えられるそこには、『Toki Kannnaduki』の言葉、そして今から三十年以上前の日付がある。
「神無月、って」
慌てて写真の両親に目を移す。父親の顔にも、見覚えがあることに気が付いた。体格や年齢は、似るべくもないが……この研究所の所長、神無月ゾウジの面影を持つ男性。
三十年前の写真に、三十年前のゾウジと……現在と寸分違わぬ様子の、トワによく似た少女。
明らかに時間の流れが噛み合わない二人が、そこで一緒に笑っていたのだった。
“霜月トワ”は、何も言わなかった。




