第一話『終わりなき終わりの始まり』 3
ドアノブにゆっくりと手をかけ、捻る。軋む音を立てながら、扉が開いた。今まで忘れていた自分の役割を急に思い出したかのように、それはあっさりとしたものだった。
ランタンを元に戻し、私はビルの中に歩を進める。ここは、元々オフィスとして使われていた場所だ。現実の音を捉えられない私の耳は、代わりにこのビルにいた人々のささやき声を聞き取っていた。
それは、恐らくもう二度と戻らない物だ。
つい気分が落ち込みかけるが、気を奮い立たせ、私は歩き始める。
戻らない物を、少しでも取り戻すのが私の役目なのだから。
「おい、そこの眼鏡の大学生!」
恥ずかしさからどんな強固な氷も溶かさんばかりの熱を顔に帯びた少女を応接間まで運んだところで、例の老人がまた声を上げた。
部屋を見渡してみると、どうやらこの場所にいる大学生らしき人物は自分だけのようだ。
「じ、自分ですか」
「そうだ」
老人はその毅然とした瞳を爛々と輝かせ、こちらを睨みつけている。
「大学生なんだから、身体も丈夫だろう? 玄関まで行って様子を見て来い」
「こ、この状況でですか!?」
「今すぐにだ!」
無言の期待を込めた周りからの視線に晒されると、体じゅうに氷より冷たいものが突き刺さるかのように思えた。私は覚悟を決めた。
「待ってくれ、一人では危険だ……私も行こう」
そう名乗りを上げてくれたのは、所長だった。
「私は、この研究所の構造にも明るいし、そうだ、確かこの棚の中に……」
彼は部屋の隅の棚に歩み寄って、何やら物色し始める。私もふと思い立って、私物の鞄からとある道具を取り出した。
ツルハシを片側だけ尖らせたような形状の、小さなハンマー……大学で専攻した学部の関係で持ち歩いている、ピック型と呼ばれるものだ。
「本来は砕氷用じゃないんだけど……まあ、いいか」
「ああ、あったあった。骨董品だが、まだ使えるか……」
それと同時に所長が取り出して来たのは、煤にまみれたガラスの容器のようなものだった。
それに儀式の為の油を注いで、燭台から火を移す。
「ランタンだ。廊下は暗いから、持っていると良い」
アンティークな品を受け取って、ハンマーをズボンのベルトに提げて、私たちは慎重に部屋から一歩を踏み出した。
冷え冷えとした空気が満ちた廊下を二人、滑らないように警戒しながら歩いて行く。
壁に手をつきながらなら安全か、とも思ったが、その壁も例によって凍っているのであった。
「……静か、だな」
「……はい」
ぽつりと呟く言葉は、空気に吸い込まれるように反響して消えてゆく。
恐ろしくなって吐いた息が、氷の結晶のような輝きへと変わる。それは人間にとってとても残酷で、しかし幻想的な光景だった。私は思わず、手に持つランタンの取っ手に力を込める。
「……そうだ、自己紹介がまだだったな。私の名前は、《神無月ゾウジ》。知っての通り、ここの所長をしているよ」
「あ、はい。自分は、《水無月セツナ》です。宜しく、お願いします」
「はは、そんなに畏まらなくても、大丈夫……おっと」
笑顔を見せるゾウジの身体が、僅かに傾いた。
「ゾウジさん! 大丈夫ですか」
「いや、問題ない。それより、あちらに」
彼がふらつきながら指差した先には、大きな茶色のドアがあった。玄関だということは、私にも分かった。
「大事には、なっていなさそうだな。ただ、やはり……」
「……凍っています。開きません」
そうか……と呟いて、ゾウジは顔を伏せてしまう。
私は、握ったドアノブをじっと見つめる。回しても、押しても引いてもビクともしない。それは凍っているというよりもはや、私と世界が別の世界に隔てられているかのようだった。
絶望的な状況だった。
「……まだ、やれることがあるはずだ」
私はそう呟き、ベルトに提げていたハンマーを手に取る。そして、中身を傷つけないように、細心の注意を払いながら氷を砕き始める。
浅くではあるが、確かに氷が砕けて落ちた。何物をも貫き通さんという意思を込めて、一振り一振りドアノブを覆う氷を砕いて行く。
「水無月君……壊すつもりなのか、氷を」
こちらを向いて語りかけてくるゾウジの声は、明らかに震えていた。寒さのため以上の恐怖が籠もった声。超自然に打ち克たんとする事への、背徳感によるものかもしれない。
「はい」
短く答えて、私はハンマーを振るい続ける。それは大仰な事ではない、ただ行く手を阻む物を排除しようとしているだけだ。しかし、それは私の中にあるとあるちっぽけな信念に基づいた行動でもあった。
そばに佇んでじっとこちらの手を見つめるゾウジに、今度は私から声をかける。
「私は、将来、考古学者になろうと、思っていて」
「考古学者? ということは、大学は歴史学科か」
「はい、考古学専門で」
この夢を話したとき、親には随分反対されたものだ。得体の知れない、生活の安定も図れないであろう職業に息子を就かせたくはなかったのだろう。
それでも、その反対を押し切ってこの街から都会に出て行った。
「荷物を見るに実地発掘が専門のようだが……歴史に興味が?」
「それも、あるんですが。何より……ええと、変な言い方になりますけれど、何かが土の中に隠れて見向きもされずにただそこにある、そんな状況が嫌いなんです」
「嫌い? それは、どういうことだね」
話しながら、氷を砕く手は休めない。割とスムーズに掘削が行えていると感じた。大学でやった発掘の練習が、いい経験になったのだろう。
「まだ勉強をしているだけですが、考古学者としての仕事をいくつか学んで、それが悠久ともいえる時間と共にある仕事だと分かりました」
自分に言い聞かせるかのように、私は言葉を紡ぐ。
「世の中にあるものは全て、いずれ朽ち果てる。それはいくら発掘しても変わりませんが、それでも自分は物が辿ってきた時間を見るのが好きです。長い時間を経た物は、知りようもないほどの昔を知らしめてくれます」
「本来不可逆な時間を、遡ろうということかね」
「そう、ですね。大袈裟な例えになりましたけど……そのために考古学者になろうとしているんです」
ひと際大きな音が響いたかと思うと、ドアノブを覆っていた氷が静かに地面に落ちた。
「だから、永遠に変わらないなんてものは許せない」
驚いたようにそのドアノブを見つめるゾウジが、一つ大きなため息をつく。
「──驚いたな。これも、若さと信念がなせる業かね」
私は、どこか暗い部分を感じるその声を振り払うかのようにドアノブに手をかけ、回そうとする。
しかし返ってきた手ごたえは、無機質で硬い感触だけだった。
「そんな……!」
「──大方、向こう側のドアノブも凍っているのだろう。そのままでは回せないな」
「そ、それなら……このランタンの火で、こちらからドアノブを温めれば」
「その前に、水無月君」
勇んでランタンの蓋を取り外そうとした私に、声がかけられる。
「誰しも、失いたくないものがある。朽ち果てることなく、永遠に変わらずにいて欲しい、そういう渇望は、古来から人間の欲求の一つだ」
「……はい、そうだと思います」
「私には、この氷が何者かを傷つけるための物には思えない。大切な何かを、時間という力から守るための揺りかごのような……暖かさすら感じるのだよ」
私は何も言えずに、揺れる火と硬いドアノブを見つめていた。
「それを永遠の世界から連れ出してしまうというのは、余りに残酷なことなのかも知れない。誰かが失いたくないものを失うことになるのかも知れない」
その言葉は、幼子に何かを教え諭すような、温かみと信念が感じられるものだった。
「それでも君には、この先もその信念を貫く覚悟があるかね?」
まるで、自分のことを語っているかのように……その声は、悲痛なものを帯びていた。
私はランタンを地面に置き、所長の方を振り返る。
「それでも……永遠であっていいものは、一つだけだと思います」
「……それは、何だろう」
「“思い”です」
暫しの沈黙の後、
「敵わないな、君には。様々の論文を書いてきた私よりも、余程賢い」
呟くように言ったゾウジの言葉を聞いて、私は作業を開始した。
この凍った世界で、心だけは凍り付かせないようにするかのように一心に。自分の役目を忘れてしまったドアノブに、魂を入れるかのように、それを暖める。
やがて、ドアノブが回った。
ゾウジに研究所の人々を呼んでもらい、固唾を飲んでゆっくりと扉を開く。
そこに、広がっていた景色は──
ここから先は、語るまでもないだろう。
街はどこまでも氷に覆われていて、無事な場所はあの研究所の応接間だけ。それで、あの研究所は《箱舟》と呼ばれるようになった。洪水の中、生命を守るために作られた箱舟、ノアの箱舟の物語にあやかっているのだろうか。
元々外部との接触の少なかったこの街から、この状況で脱出するのは至難の業だった。周囲を山に囲まれ、数少ない道も交通手段は徒歩のみだからだ。氷が解ける見込みもない絶望的な状況の中で、それでも人々は生だけは諦めなかった。
結局、ゾウジの指揮の下で研究所の最低限のライフラインだけは復旧したが、それでも食料などには限界が見えてくる。水だけは無限に近い量が確保できるが、食べ物には安定した供給がない。
「このリンゴは、まだ食べられるな……まあ、腐ることなんてないんだけど」
そこで、私が街からそれらの必需品を調達してくる係を買って出た。
凍てついたこの街には、凍り付く以前まであったものはその形のままそこに残っている。食べ物も、生物も、そして……人々も。
食べ物は、氷を払って火入れをすれば問題なく食べられる。しかし、生きているものは……一度、氷漬けの蛙に火入れまでを行ったことがある。工程に問題は無かった。しかし、駄目だった。
生物が過ごしていたはずの失われた時間は、時間が動き始めた途端に襲い掛かってくるらしい。それも、残酷な形で。
そういう訳で、新しい人間が増えるわけでもなく、自分たちがこの街に閉じ込められてから二十三日が経った。
変化のない日常の中で、私は唯一の変化と呼べる月と太陽を使って、意地にでもなったかのように時間を計り続けている。それは永遠に支配されたこの世界に対する、少しばかりの抵抗だった。
もう一つ、私が請け負っている仕事がある。それは……
「会社のデスクの上、窓際の、部長の席から三番目……これか」
私が見つけ出したものは、一つの写真立てだった。
いかにも働き盛りといった男性が中央におり、その両隣に彼の妻と娘であろう人物が笑顔で座って居る。平和で愛しい、日常の一ページだ。
この人物の妻と娘は、“あの時”家にいたそうだ。私は父親から、この写真立てを持ってくるように頼まれた。
人々の思い出の品を、氷の中から発掘して持ち主に届ける仕事。それが私の副業とも呼べる仕事だ。心ばかりの報酬と引き換えにはしていたが、実質この仕事はボランティアであった。
人々の思いが籠もった物品を届けることは、私達がこの止まった世界で生きている実感を確かなものにしてくれた。
それで、誰が呼び始めたかは知らないが、私はとある名で呼ばれている。
《発掘人》、と。