閑話『ラストダンス』 2
「流れる煙はぁーっ、招くよっ──」
「……」
「ふにん、くりん! ふにん、くらん、ふにくらーん!?」
「……」
手元のギターからふと視線を上げてトワの方を見ると、彼女にしては珍しくメモを取る手が止まっていた。いつもの無表情で、じっとこちらを見ている。歌っている所を一心に見つめられた経験などない私は少しの羞恥を覚え、それをかき消すために声を大きく張り上げる。
「行こう! 行こう! 火のゲッホ……ゴホン……山……」
「セツナ」
柄にもなく大声を出したせいでせき込んでしまった私を、トワが止めた。その声色には、普段彼女に見られない感情が籠っていた。焦りのような──
「その……下に聴こえてしまいます。それ以上は」
「あ、……ああ、すみません。つい、夢中になっちゃって」
トワは小さく息をついた。一つの物事に熱中し始めると、色々なことに気が回らなくなってしまう。自分の悪い癖だ。
彼女の存在は下の人々には秘密にしなければならないのだから……しかし、そこまで考えてふと私は気が付いた。そもそも、そう考えていた理由は何だったか?
初めて彼女を目にしたあの日。私はその瞳に、文字通り引き込まれるような錯覚を覚えた。それは美しくもあり、恐ろしくもあり、一言で説明は出来なかったが、一つ言えることは、『この街に似ていた』ということ……生きとし生けるもの全てを包み、二度と離さない永遠の氷。街の氷と彼女には何らかの関係があると、私は本能的な部分で確信したのだった。
だからこそ、私は一人でこの少女の相手をしてきた。この瞳に魅入られたら、その人物は永遠を許容してしまう……それを防ぐための独断だった。
「セツナの歌は……個性的ですね。ええ、言語化が難しいですが……」
しかし、今私の目の前にいる少女はどうだろう。少なくとも、教会の鐘つき堂から夕陽を見たあの日、使い込まれた万年筆について熱く語っていたあの日、私が見たのは生を永遠に閉じ込める氷ではなく、紛れもなくただの『霜月トワ』だった。だからこそ今まさに、私はこの少女を隠匿するという使命を忘れかけていたのだった。
彼女は間違いなく変化している。ならば私は、霜月トワという人物をもう一度しっかりと見つめなおさなければならない。
そう結論付けた私は意識を現実に引き戻し、彼女の眼を見つめる。
「決しておかしな意味ではないのですが……どうかしましたか、セツナ」
「……すみません、すこし考え事をしていて」
生憎トワが何を言っていたのか意識していなかったが……私はあくまで今までの会話の延長のように、さりげなく切り出す。
「出来れば、トワの歌も聴いてみたいですね」
私は賭けに出た。凍った少女の人間性を測るために、彼女に歌について尋ねる。
芸術はどのような人間の人生にも、大なり小なり目に見えない影響を残しているものだ。歌もそう、物心つく前に与えられた子守唄から、仲間内で流行りのポップスまで、絵画や本を覚えていないという人はいても、一切の音楽を覚えていないという人は少ない。
過去についての記憶を一切失っているように見える(割には、おかしなことについて異常なくらい博識である)彼女にも、歌の記憶はあるのだろうか? トワの性格から言って、過去を調べようとしていることが悟られれば彼女は機嫌を損ねる可能性がある、故の賭け。浮かべた微笑の裏で、一つ唾を呑み込んだ。
しかし、返事は案外あっさりとしたものだった。
「私でよければ、歌います」
「……覚えている歌が?」
「一般常識の範囲ですので」
少女は顔色一つ変えていない。その落ち着きように、私は逆にパニックに陥りかけてしまった。しかしこれはこれで好都合なのだと気を持ちなおし、身振りで彼女に歌うよう促す。
凍った空気を切り裂くかのような鋭い呼吸音が一つ、彼女の口から洩れた。
「On a dark desert highway──」
色々と、思うところはあった。寂しげなメロディを力強く歌い出す、特徴的な始まり。アメリカのロックバンド、イーグルスの傑作、ホテル・カリフォルニア──
十歳になったばかりとも思われる少女が歌う“一般常識”が、洋楽のロック。しかも、70年代。何もかもがちぐはぐだった。もしもここが裁判所だったら、私は今すぐ立ち上がって声高に証言の矛盾を指摘していただろう。
「Up ahead in a distance, I saw a shimmering light──」
しかし、その時の私は言葉を持ち合わせていなかった。否、全く奪い去られていた。
「Then she lit up a candle, and she showed me the way──」
歌う少女が、ただただ美しかったから。
「Welcome to the Hotel California──」
触れればたちまち砕けてしまいそうな瑠璃色の歌声が、退廃的な空気を漂わせるホテルの詩を紡ぐ。欠けた腕が黄金比を創り出したミロのヴィーナスのように、何もかもが不釣り合いなのに、全てが完璧な調和を保っていた。
「Plenty of room at the Hotel California──」
キャンドルを灯し、主人公を回廊へと誘う受付の少女。ひょっとしてトワこそその人物ではないのか、などと頓珍漢なことを思いさえした。引き込まれたら二度と戻れない、宵闇を湛えた歌声を持つ少女──
私が覚えているのは、そこまでだ。それからはただじっと、彼女の歌声に聴き入っていた。
ただ、じっと。
『チェックアウトは出来るが、二度と出られない』と語る守衛の言葉から長い時間が経って、やっと私は再びまともな思考を取り戻した。目の前には、どこか心配そうにこちらを見つめる一対の瞳。
「……お気に召しませんでしたか?」
「……いえ、そんなことは」
どうやら私の態度が誤解を与えてしまったらしい。彼女の歌声は掛け値なしに素晴らしいものだった、殆どの抑揚と、それに籠る感情を排除していたことを鑑みても。
「本当に……素晴らしくて」
「……」
未だにもつれてしまう私の舌は、素直に感情を伝えてくれなかった。彼女は一つ息をついて、私から目を逸らす。
「……いくら歌を知っていても、意味の無いことなのでしょう」
「過去のない人間に、歌は歌えない」
彼女は、そう呟いた。私は彼女の方を見、彼女も私に視線だけを合わせる。
「私は──」
「それは……それは、違いますよ、トワ」
私は思わず、彼女の言葉を遮っていた。十分に酔いは冷めていると思った。
「貴方の歌は……本当に素晴らしかったんです。本当に」
「……」
「貴方は、過去のない人間なんかじゃない」
貴方は──と、そこからが上手く繋がらなかった。凍った街に一人佇む冷たい少女、異常な程甘い物に目を輝かせる少女、万物を冷静に観察し、筆を走らせ写真を撮る少女、永遠を求めながら、消失した過去に負い目を感じる少女、……彼女が何なのか、それは私が答えを出して良い問題なのだろうか?
「──霜月トワです」
天井に吊るしたランタンの炎が揺れ、向かい合った二人の影を様々に変えて行く。
彼女は表情を変えなかった。そのまま、考え込むかのように俯いてしまう。私の答えはその場凌ぎのように見えたかもしれない。
「そろそろ、寝ましょうか」
ギターを片付けて、私は寝床の準備を始める。少女は静かに一回だけ頷いてから、ペンを走らせ始める。
私は、ホテル・カリフォルニアの歌詞の一節を思い出していた。受付の少女がシャンパンに酔って呟く、戯言とも真言とも付かない言葉だ。
『私たちはみんな囚人だ、自分自身に囚われた──』
未来を変えるには現在を変えなければならず、現在を変えるには過去を変えなければならない。過去は全ての人々を自身への解釈で雁字搦めにし、私達は時々それをどうしようもなく息苦しく感じることがある。
けれど、今を生きている自分が、一人きりでない以上……
「お休みなさい、トワ」
「……おやすみなさい、セツナ」
寄り添って生きることだけは、少なくとも出来るのだろう。
思い出すために踊る人もいる。




