第六話『タイム・イズ・マーシー』 6
「氷だなんだと意味の分からないことに巻き込まれ、私の与り知らぬ所で勝手に氷漬けになって、もう二度と話すこともできないだと?」
消え入りそうな、しかし一言一言には無視しがたい力が込められた声で。今まで弱さを見せることのなかった老人の心が露わにされていく。
彼女の手紙の言葉を以って、「あなたが悲しまないことが彼女の望みだ」などと宣うことは私には出来ない。彼が涙している理由は、その言葉にこそあるからだ。
「お前は、いつもそうだ……せめて、せめて最後の言葉くらい言わせろッ!」
「最後の……言葉」
その言葉に、何故か部屋の片隅で佇むゾウジが小さく肩を震わせた。
老人は手袋を着けた手で万年筆を押し抱き、流れる涙はそのままに呟く。
「もう二度と会えないのなら、こんなものを、思い出させるな……」
シュユが恐れていたのは、万年筆ではないのだ。彼が触れられなかったのは、そこに籠められた、愛する妻との思い出。
別の世界に隔てられた思い人を忘れることで、彼は今まで心の平静を保ってきたのだろう。
しばらくの間泣き続けて、シュユはおもむろにこちらに顔を向けた。
「……余計なことをしてくれるな」
その言葉に、私は思わず体を固めて生唾を飲み込む。だが老人は怒声を飛ばすことはせず、代わりにその言葉から一拍置いて、一つ大きなため息をついた。
一度伏せられて、再び上げられた顔からは、今まで瞳に宿っていた諦念が失われているように見えた。
「今更言われなくても、分かっているさ。お前より何十年長く生きていると思っている」
「……それなら、良かった」
私は安堵のため息をついた。今回の依頼も、無事に終わらせられそうだ、と。
「私の妻の問題だ、後は私で解決する。だが……世話になった。礼を言う」
彼は笑った。この老人の屈託のない笑顔は、初めて見たかもしれないと思った。
万年筆を箱にしまい直すと、「食料の分配に入るから、もう行って良い」と言う。
「ああ、そうだ。今回の依頼の代金だが……」
「ああ……頼んだのは私だから、私が代わりに……」
「いや、お前に貸しは作らん。そうだな……この万年筆をやる。十分使えるはずだ」
彼が無造作に押し付けてきたのは、布に包まれた万年筆だった。例の149ほどではないにせよ、これもブランド品の筈だ。私は肝を冷やして問いかける。
「え、ええ、良いんですか!? 高級品でしょう、これ」
「構わん。……持っていても、どうせ二度と使わんだろうからな」
どこか哀愁を帯びた、しかし覚悟を感じさせる声で、老人は呟いた。




