第一話『終わりなき終わりの始まり』 2
カン、カン、カン——
氷を砕く作業は時間がかかる。
凍った物は外部からの刺激には弱く、直ぐに崩れてしまうので、細心の注意を払わなければならないのだ。
ようやく、ドアノブを覆っていた氷がバラバラと音を立てて地面に落ちる。これで、第二段階に入ることが出来た。
私は使っていたハンマーを片付け、ランタンの蓋を取り外す。剥き出しになって揺らめく炎を、ゆっくりとドアノブに近付ける。
こうする事で、ハンマーでは対処出来ないドアノブ全体の氷を溶かす事ができるのだ。
この作業を、私は《火入れ》と呼んでいる。ハンマーを扱っている時よりも、こちらの方が慎重になってしまう。
何故ならこうすることには、ただ氷を溶かす、以上の意味があるような気がするからだ。春を告げる植物の炎、その霊的な力にすら私は頼らねばならないのかもしれない。
静寂の中、あの日の回想は続く。
「凍って……いる?」
言葉を出すことも出来ない自分の隣で、所長が呟いた。
私は現状を理解できず、その後に部屋に残った静寂を切り裂いたのは、応接間の方から聞こえたカーテンを開ける音だった。
「……え、何これ」
戸惑いを含んだ少女の声に、開かれた窓を見てみると、そこには。
暗い夜空に浮かんだ月が投げる光に、ビルや道路が、水晶のように輝いていた。視界に映る全てが、薄い氷の膜に包まれていた。そして世界が、動きを止めていたのだ。
それを認識して私たちは皆、暫くの間何も言えずに固まってしまった。まるで窓の外の氷が、我々の身体の末端まで凍てつかせてしまったかのような——
「ど、どういう事だよ、これ!」
一声叫んだ子供が、私たち二人を突き飛ばして廊下に飛び出し、その瞬間その身を大きく傾けた。
「危ない!」
間一髪のところで私は彼の体を受け止めたが、そのまま二人で、廊下をカーリングのように横滑りすることになった。
擦りむいたズボンから床に触れた膝が、痛みを伴う冷たさを感じる。
感覚の全てが、現状の異常を伝えていた。凍るはずの無いものが、一瞬にして凍ってしまっていた。
音を無くし、動きを無くし、熱を無くした世界に、自分たちは突然放り込まれたのだった。
「周りは全て凍っているのに、この部屋は何故無事なんだ!?」
やっと余裕が生まれてきたのか、何人かが周りを冷静に観察し始め、一人の老人が力強く声を上げた。
確かに、これほど急速に(その瞬間は誰も見ていないので、どれほどの物かは不明だが)広がった氷がこの部屋にだけ存在しないのも不自然だった。
「もしかして……この燭台があるから、とか?」
それに答えたのは、高校生くらいの少女の、若々しい声だった。
その言葉に、部屋の全員が炎が静かに揺らめき続けている燭台に顔を向ける。この異常な事態に、その光はどこか神秘的な気配すら漂わせながらそこにあった。
「取り敢えず、この部屋が凍ることはないみたいです……氷は廊下で止まっていますし」
やっと子供を起こして応接間に戻った私も、その会話に参加する。
「でも、ずっとここに居たくもないよ。外に出られないの?」
「窓から外に出られるんじゃないか?」
老人の言葉に、少女は窓を開こうと力を込める。しかし窓は動かなかった。
「……ダメ、鍵が凍ってる。玄関、何処にあったっけ?」
「廊下を出て右の突き当たりだが……大丈夫かね? 廊下は危険だ──」
所長の忠告の途中から既に駆け出していた少女は、廊下に足をつけた瞬間に見事に身体を半回転させた。
言わんこっちゃない——
老人の小さな声は、氷に包まれた静寂の中ではよく響いた。