第六話『タイム・イズ・マーシー』 5
『私の愛する夫、長月シュユへ
あなたはまだ、あの万年筆を使っているのですね。折角お得意様がプレゼントしてくださったのだから、新しい物を使えば良いのにと思う一方、それが嬉しくも思われます。
思い返せばあれを買ったのは、あなたが起業して間もない頃でした。当時は食べる物や着る物にも困って、あなたは筆記用具一つをとっても切り詰めて暮らしていましたね。
暫くして、仕事が何とか回り始めました。けれども相も変わらず、あなたは私が見ていて不安になるほどの倹約の暮らしを送っていましたね。私には様々な物を買ってやると仰っていましたが、添い遂げると決めた人を差し置いてそんなことは出来ないと、変なことで喧嘩をしたのも、まるで昨日のことのように、しかし懐かしく思い出されます。
そんなある日、あなたが万年筆を欲しがっていることを耳にしました。妻の私に言ってくださらないとはと怒りもしましたが、今ならあなたの考えていたこともよく分かります。
結局、私はあなたに黙って、私の自由に出来るお金を全て使って万年筆をあなたに贈りました。その時のあなたの驚いた顔といったら! 金を稼ぐのは男の役割だ、なんて言うものですから、私たちはまた妙な言い争いをしましたね。
だけど次の日から、あなたはあの万年筆をいかなる時も使ってくださいました。
次の日の朝、あなたが言ったことを覚えています。いつの日か、こんな万年筆程度は十単位で買い付けられるくらいの資産家になってみせる、と。それからあなたはそれまで以上に仕事に励むようになりました。
結婚三十年の記念日という今日この日に、私はふとあの日のことを思い出して慣れない手紙などをしたためました。
今の私には、あなたはあの日の誓いのために自分を殺しすぎているように思えます。
私たちも、もう長くはありません。それでもあなたと寄り添えた長い月日はかけがえのないものだと、胸を張って言えます。
いつの日か、私たちのどちらかが先に死んでしまったとしても。あの万年筆がある限り、あなたと私は永遠に共に在れるのだと信じております。ですから、もしも私がこの世から居なくなってしまったとしても、涙を堪える必要なんてないのですよ。ひょっとしたら、少し差し出がましいことに思われるかもしれませんが。
それではこの言葉をもちまして、この手紙の結びといたしましょう。
あなたの妻、長月チトセより』
最後の引き出しに安置されていた手紙の全てを読み終えたとき、私の目の前で佇む老人は何も言わなかった。ただこちらを突き刺すような眼光で見つめ、静かに唇を震わせているのみだった。
「……以上が、今回の依頼の品です。シュユさん」
私は机の上に、二つの万年筆とクリアファイル、そして妻からの手紙を全て並べる。老人はじっとそれを見つめた後、初めて口を開いた。
「何故……何故私を置いて逝った、チトセ」
痛切な響きを持った声が、部屋に木霊した。




