第六話『タイム・イズ・マーシー』 1
“いつか、この記憶にも別れを告げなければならないのだろう”
夜の気配が満ち溢れた部屋で、彼女は静かに本を読んでいた。
呼気を吐き出す度に、眼前の炎が陽炎のように揺らめく。彼女は、──少なくとも以前よりは──その光景を、落ち着きを持って見守ることが出来ていた。
今読んでいるのは、彼女が今まで経験してきたことを余すことなく書き付けた手帳だ。延べ三冊にも及ぶその手帳の中身を、何度も読み返す。そしてそれが終わると、一つ大きな息を吐き出した。
“自分という個が、変化しつつある”
それが、彼女が出した結論だった。手帳の記述方法や重点が置かれている内容が、時を追うごとに変化しているのが分かったのだ。
人間の人格を形成するものが記憶であるとしたら、[霜月トワ]という存在は、絶えず生まれ変わっているようなものだ。昨日の自分と今日の自分が不連続な存在であるということを自認していたし、それに対してどうにかしようと思ったこともなかった。初めから失われていた記憶についても同様だ。
推定される年齢はやっと二桁になった程度であろう自分が、保護者の存在なしに生活できていたとは考えられない。その存在と共に過ごした時間を忘れているというのは、その記憶の最後に……自分にとって耐えられない“何か”があったのだ。その心理的ショックから、後天的な記憶障害を発症するほどの。ならば、“それ”を敢えて追い求めることに合理性はないだろう……手帳を書き始めたばかりの頃の彼女は、確かにそう考えていた。
しかしどうやら、目の前で寝ている青年と共に過ごした時間の中で、自分のその考えを変えるような出来事があったようだ。手帳の記述を見る限りでは、それは喪ってしまった人と、その記憶を追い求める人々との出会い。
超常的な現象の中で、この先に希望が待っているのかも定かではない、そんな状況で……彼らが求めたものは、“記憶”だった。
そうすることが、或いは正しいことなのかもしれない。それが、彼女が今までの足跡を客観的に分析して下した結論だ。つまり、自らの記憶を探ることが、何か──それが何かも分からないのだが──を解決する手段になり得るのではないか、と考えるようになった、ということだ。
本から目を離し、ランタンに残っている油の量を確認する。今までこの時間の見張りはセツナが行っていた。今夜に限って少女がそれをしているのは、もちろん彼女自身の要望があってのものだ。
ランタンを目の前に掲げ、ガラス容器の取手を少しだけ振る。向こう側に映る氷に閉ざされた街の景色が、オレンジ色の炎の裏で奇妙に歪んだ。
その視界の中心、窓から見える景色の中心には、あの時計塔がそびえていた。
時計塔。何の変哲もない建物であるにもかかわらず、彼女の心はそれが視界に映るたびに奇妙な感覚に襲われていた。
今まで下してきたような合理的な理由があるわけではない。その感覚は彼女にとって、何もかもが謎でしかなかった。初めてそれを認識した瞬間から……その感覚は手帳の中で言語化されることもなかったが、彼女がそれを忘れることもなかった。
直感。そう名付けるしかない現象に、彼女はもう一つの予感を抱いていた。
あの場所に、私の記憶に関わる何かがある。
分厚いコートのポケットから、彼女は小さな円盤状の何かを取り出した。かつては金色の輝きを放っていたのだろうそれは、今では繋ぎとめられたチェーンごと凍り付いている。よく見てみれば、二枚貝のように二つの円盤が重なっていて、氷を溶かせば開くことが出来るようになるだろうことが分かる。大きさや形から、彼女はそれを懐中時計の類だと推測している。
彼女は、目を覚ました時からそれを持っていた。自分が倒れていた場所に、置かれていたという。そして、同居人である水無月セツナに、そのことを伝えてはいない。
その理由は、特段伝える価値がある情報ではないからだ。自分の近くにあっただけの、ありふれた日用品に過ぎない。そう思っていたのだ。以前は。
しかし、この懐中時計を見るたびに、彼女は奇妙な感覚に襲われていたのだ。その正体も、今の彼女には推測することが出来た。つまり、時計塔にまつわるものと同じ。それが自分の過去に関わっているという直感だ。
そして、この懐中時計を秘密にしている理由にも推測はついていた。
今の自分では、その過去を受け止めることが出来ない。そういう予感だ。
私は、人の道に反することをしてしまったのかもしれない。決して触れてはならない、禁忌に触れてしまったのかもしれない。
本来、科学とはそういうものだ。客体としての自然、畏敬の対象となる“闇”の克服。それを目標にしたからこそ産業革命は成され、我々は快適な暮らしを約束されている。しかし、そんな軽薄な理論で、私は自分を赦すことは出来そうにない。
命は、人の命は、不可逆ではなかったか。
ああ、私は確かに取り返しのつかないことをしてしまったのだ。この街の様相は、ひとえに私への大いなる罰かもしれない。
私は弱かった。弱い人間だったのだ。“永遠”を憎み、“永遠”に苛まれ、そして、“永遠”に魂を売った。
どうか私を許してほしい。私はいずれ死ぬだろう。凍った街から拒絶された私は、自然の掟に従ってか、或いは自ら命を絶つかもしれない。いずれにせよ、彼女と同じ場所に行くことは叶うまい。
だから、この手紙を遺しておこうと思う。願わくば、これを読んだ人が、この哀れで愚かなファウストのことを忘れずにいてくれますように。
目を閉じれば、今でも目の前に浮かんでくる。彼女の声、彼女の笑みが。
「“永遠”が欲しいとは思わないかい?」
この凍った街にあって、私は最後に、もはや届かぬ思いを彼女らに届けよう。
永遠の愛を誓いし我が妻クオンと、我々の娘トキに捧ぐ




