第一話『終わりなき終わりの始まり』 1
“誰だって、死ぬのは恐ろしい”
“誰だって、喪うのは悲しい”
“この街に、終わりはない”
皮の長靴を履いた足で地面を踏みしめる度に、アスファルトが割れて静寂の中に乾いた音を響かせる。
ひんやりとした空気が、肌に纏わりつく事すらない。何故なら、その空気も凍りついているから——そうとまで思わせる程の、静寂と寒さが満ちていた。
手に提げたランタンの光が、ぼんやりと周囲を照らしている。目の前に、薄い白に包まれた灰色の建物がそびえているのが見えた。
かつては大勢の人々が生活していたのであろうこのビルも、今は内と外とを隔てるかのような氷にその巨躯を覆われ、死んだように静まりかえっている。
この異様な光景は、しかしこの街にとっては普通の光景なのだ。
辺り一面の氷の世界。
私は鞄からハンマーを取り出すと、ランタンの火を近づけながら、ドアのノブに付着した氷を壊し始める。
カン、カン、カン——
この氷の中から何かを掘り出そうとする行為は、自分の奥深くにある旧い記憶を思い出そうとする行為に良く似ている。砕けた氷がぶつかり合う音に混じって、懐かしい人々の声が聞こえるような気さえしてくるのだ。
そういう訳で、この作業をする時は、いつも自分は悠久の果てとも思われる遠い過去、あの日のことに思いを巡らせる事になる。
この街が氷の棺の中で、永遠の眠りについたあの日のことを。
日次街。かつてこの街はそう呼ばれていた。
盆地の中に位置する、周囲からのアクセスが少ない僻地。しかしそのような場所だからこそ、住民たちのコミュニティは割と密になっている。そんな平和な街だった。
そんな街の賑やかな時間が、一瞬にして止まった。それが、《春祝祭》の日。
冬が開け、街に春を告げる植物である《ヒツキアブラナ》が咲いたのが見つかると行われる祝典、それが《春祝祭》。その植物から絞った油に火を灯して、春の訪れに感謝するものだ。
その年は、街の郊外にある研究所でひそやかに行われた。私は祭りに参加する方ではなかったが、その時は偶然大学の休暇で久し振りに帰省していて、尚且つ暇を持て余していたので、一人気まぐれに自転車を走らせた。大きな満月の夜だった。
研究所には十人ほどの参加者がいた。元々人口の少ない街で、強制参加でもないイベントなので、毎年こんな物だったと記憶している。
そこまで大きくもない部屋の中央に、油がなみなみと注がれた燭台が鎮座していた。
「すまないが、火をつけるのはもう少し、待ってもらえないか」
自ら、この場所で今年の祭りを行うよう嘆願したという研究所の所長は、祭りが始まる直前まで何やら慌てた様子だった。
「何か問題でもあったの?」
「私の時間を無駄にするな!」
「早く始めろよー!」
人々の苦情に押され、その男性は渋々、研究所の応接間の中心に置かれた大燭台に菜種油をなみなみと注ぎ、火を灯した。
ぼんやりとした大きな光が、揺らめきながら部屋を照らす。
そして所長は、ゆっくりと祝辞の言葉を述べ始めた。部屋の全員が、息を潜めて言葉に聞き入る。
「それでは……移りゆく季節に感謝を」
間もなくやって来る春。
「恵みの春の訪れに感謝を」
私達は、ただ期待に胸を膨らませていた。
「去りゆく冬に感——」
轟音。
それは余りに突然の事で、事態を把握できた人間は居なかった。
雷が落ちたかのような音が部屋に転がり込んだかと思うと、巨大な火花を散らした人工の照明が光を消し、部屋に残ったのは呆然とした人間の密かな息遣いだけだった。
そう、それは余りにも不自然な静寂だったのである。動きのあるものと言えば、大燭台でぼんやりと揺らめく火の灯りだけだったのだ。
「な、何だ、何があった」
かなりの時間の後、ようやく動き出したのは所長だった。壁に手を添えながら、ふらつく足取りで応接間の扉に向かう。
「停電か……うん?」
扉を開く音がして、部屋の全員がそちらを向いた。
扉を開けて廊下に出た所長は、素っ頓狂な声を出して地面に屈み込んだ。どうやら廊下も停電しているようで、その姿は室内の燭台の光だけに薄く照らされている。
「どうか、したんですか?」
偶然近くにいた私も、所長に倣って廊下へと出ようとして、その足が僅かに横滑りした。
フローリングに滑ったのではなかった。私が踏み締めようとした地面は、奇妙な半透明の、青色の膜に覆われているように見えた。
それは、氷だった。
廊下の床を余すところなく覆っていたそれは、薄い氷だったのだ。
触れた手に伝えられた冷たさは、まるで私の存在を拒んでいるかのように、私に痛みを与えた。