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閑話『甘い雪と焔の果実』 1

 彼も彼女も、甘いものが大好き。

 私は《箱舟》の外壁で、暖を取りながらパイプ椅子に腰かけていた。

 目の前を、屋根の雨どいから垂れた透明な雫がぽたりぽたりと通り過ぎてゆく。その真下には木桶が置かれていて、水はそこに溜まっている。

 インフラが断たれたこの街では、水は氷を溶かすことで手に入れる。ランタンの火を使えば氷は簡単に溶けるが、少し放置すればすぐに元に戻っているので、この雨どいは《箱舟》の住人にとって生活用水や飲料水を手に入れるための重要な場所なのだ。

 所長である神無月ゾウジと、資源の管理を担当している長月シュユの指示によって、ここで水を集める係は当番制で回されていた。

 水と火を監視する以外にすることは何もなく、周囲に広がる風景も絶対に代わり映えのしないものなので、正直この仕事は退屈だった。今度街に出る時は、何か本でも手に入れようか、それかあの少年から聖書を片方貸してもらうか……そんなことをぼんやりと考えながら、私の意識は徐々に凍り付くように重たくなって行き――


「水無月さん!」

「うわっ!」


 耳元に響き渡った大声によって覚醒させられた。驚いて身を起こした私は木桶を蹴り飛ばしそうになってしまい、慌てて姿勢を元に戻す。


「今寝てたでしょう、見てたよ!」

「いや、その……すみません」


 私を起こしたのは、赤色のジャンパーに身を包んだ女性だ。名は《葉月マユラ》。この街の公立に通っていたという高校生だ。

 長い髪をポニーテールに纏めた彼女も、ここで生活する一人で、その快活な性格で、精神面で《箱舟》の人々の拠り所なのだ。……が。

 私は右の頬を暖かい雫が伝うのを感じた。


「まあ、いいけど……それよりも! ちょっと付き合ってよ、水無月さん」

「な、何にでしょう」

「勿論、”試食”!」


 私の心臓が、周囲の空気と同じくらいに冷え込んだ。

 試食。彼女がその言葉を発するとき、意味するところは一つだ。

 彼女は高校で、調理部に所属していたらしい。《箱舟》での生活の方法も確立されてきたある日、そんな彼女がこう叫んだのだ。


『私が、《箱舟》の食生活を改善して見せます!』


 それ以来彼女は、自らに配給される決して豊かとは呼べない食糧を切り詰めて、それらをより美味しく食べるための方法を模索している。その行動力と自己犠牲の精神に、《箱舟》の人々は当初胸を打たれたものだ。

 しかし、やって来るのは保存食ばかり、さらにまともに火も使えない状況で出来る調理は限られているのは自明の理だ。それが原因なのか、或いはもっと根本的な部分に原因があるのかもしれないが……言ってしまえば彼女の生み出す”料理”は悉く前衛的な出来なのだ。

 更に具合の悪いことに、長月老人が彼女の”料理”を食べ、激昂して『貴様は自分の味覚を信用するな』と言い放ってから、それを受け止めつつも自らの使命を果たそうとする彼女は自分の未完成の”料理”を人々に評価してもらおうとするようになった。

 調理場として使われている旧第二実験室に彼女が入ったら、それ以降三日は彼女と顔を合わせるな。それが《箱舟》の人々の共通理解になっているのだが、私はこの仕事に拘束されてその様子を見ていなかったのだ。私は自身の運命を呪った。


「今回は自信作だから! きっと気に入るよ」

「いや、でも、自分はこの通り水の番をしないと――」

「ああ、それは大丈夫。皐月君に代わってもらえるから」


 その言葉と共に、恐る恐るといった様子で少年が《箱舟》から出て来る。私の精神の温度は、更に冷え込んだ。


「い、いやあ、オレも食べたいんだけど、ちょうど虫歯が出来ちゃって……残念だなあ」

「と、いう訳だから」


 私は強引に椅子から引き揚げられ、《箱舟》の中に連れ込まれる。

 引き攣った笑顔でこちらに手を振る少年を見ながら、私が出来ることは神に祈りを捧げることだけだった。

 視界の端に、胸の前で静かに十字を切る、神を信じない少年の姿が映った――



 旧第二実験場。


「こちらです、ジャン!」


 飲料用のグラスに、溢れんばかりの生クリーム。そしてその上には、あらゆる方向にその紡錘形の矛先を向けた赤い苺、そして滴り落ちるチョコレートソース。

 短く形容するなら、生クリームとチョコと苺。そうとしか言えない物が、私の目の前に鎮座していた。そもそもこれは料理なのだろうか?


「苺と、生クリームと、その上に砂糖、チョコレートソース……そして今回は、生クリームを外に放置したバニラアイス風も加えてパフェにしてみたんだ! デザートって初めてだけど、甘くすればきっと上手くいくよね」


 本来冷凍の生クリームは一瞬で溶けてしまうので、この街の性質を上手く利用した工夫なのだろう。しかし、生クリームは凍らせるとバニラアイスになるのだろうか。そもそも原料が違うのではないか?

 私は五日ほど前、民家から貴重な果物や甘味をたくさん発掘してきた日のことを思い出した。それを後悔しもした。一口食べるだけで血糖濃度が跳ね上がりそうな、糖分の牙城ともいうべき存在と相対した私は、しかしフォークを手に取るしかなかった。私は長月老人のような大胆さも、皐月少年のような知恵も持ち合わせていなかったのだ。

 期待に満ちた視線を向けるマユラの前で、チョコレートソースと砂糖に漬けられた苺を生クリームの中からゆっくりと発掘し、口に含む。

 甘さの衣を纏った甘さが、口の中で猛威を振るった。原色の味覚はあっという間に味覚芽の細胞を覆い尽くし、思考回路はその全ての機能を強烈な電気信号の処理に充てる。

 甘味の歴史は、およそ紀元前三世紀ごろの古代エジプトから始まったと言われていると、私は講義で聞いたことがあった。味のしないパンに蜂蜜や果実を加えただけのものが、時代と共に普及と進化を繰り返してきたのだ。

 つまり私は今、二十四世紀以上前の、少し特別な日常の瞬間を追体験しているのだ!

 ――だから美味しいかというと勿論そうではなく、人間が積み重ねてきた二十四世紀の結晶を懐かしみながら、ようやく私はそれを嚥下し終わった。


「ど、どうだったかな」

「えっと、見た目はかなり強烈で、味は……素材の味を、殺さず生かさずと言いますか……常軌を逸した甘党の方なら、とても喜ぶと思います」

「本当? やったあ!」


 彼女が何に喜んでいるのか、私には理解できなかった。


「ただやっぱり、たくさん材料を使いますよね、これは」

「そう、なんだよねえ……もう少し手軽にできるものにしなきゃなあ」


 二次被害の抑止。取り敢えず”試食”の被験者が果たすべき義務を達し終えた私は、灼けついた胸を撫で下ろす。


「あと一つだけあるんだけど、水無月さんは……」

「私はこの一つを頂ければ満足ですよ!」

「もう、謙虚だなあ。じゃあいいや、長月さんか神無月さんにでも食べてもらおう」


 コップを持って呟く彼女の姿を見て、私はこれ以上話がこじれないように祈ることしかできずに、隠れるようにしながら屋根裏に向かった。



「セツナさん、それは」

「うわっ!」


 細い階段の先に取り付けられた扉から、少女が顔を出していた。


「と、トワさん、どうして」

「その、手に持っているお菓子は、何ですか」


 彼女は私の言葉を遮って、強い調子で繰り返す。いつもと様子が異なっているのは明白だった。

 見れば彼女の紺青色に透き通った瞳は、真っ直ぐと私ではなく私が右手に持ったコップに向けられている。


「……え?」


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