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第四話『祇園精舎の鐘を鳴らせ』 5

 顔を伏せていた少年が、静かに言葉を発し始める。


「オレは、神様なんて、信じてなかった……」


 自らに言い聞かせるかのような口調で、一つ一つ慎重に選び取りながら語ってゆく。


「父さんは、神様を信じろとは言わなかった。ただ、この本だけは、読んで欲しいって、それだけ」


 難解な言い回しで記述された訳文が、下線で強調されている。罪、命、神、人間、生命……


「分からないに、決まってるじゃないか……こんな、こんな難しい本、僕一人じゃ、分からないよ」


 少年の手に握られた紙が、くしゃりと音を立てて歪む。


「帰って、来てよ……なんで、なんで、置いて行ったんだ、行っちゃったんだ」


 彼の目から、大粒の涙が流れ始めた。今までの暮らしで、気丈に振舞い輝いていたその眼から、一粒、二粒。今まで抑えていた堰が切れてしまったかのように、声を上げて少年は泣き始めた。

 彼は、その小さな体に、短い人生に、どれだけの哀しみを背負わされたと言うのだろうか。この街を襲った不条理は、どれだけその心を蝕んでいたのか。私はそれに気が付かされた。


「なあ、父さんを返してくれ。お願いだよ、返してくれよ。それか僕を――」

「私には、それは出来ません」


 彼の言葉を遮って、私は話し始めた。


「君のお父さんを氷から出すことは出来ないし、君をお父さんと同じようにすることも出来ません」


 自分の不甲斐なさに、歯噛みをしそうになる。しかしそれは、私がこの街を生きる中でたった一つの拠り所とも呼べる信念だった。私に、人を蘇らせることは出来ないのだ。


「でも、可能な限り」


 私は、袋からもう一冊の本を取り出した。


「その思いを、伝える事なら出来ます」


 二番目に文机の上で見つけた、青い聖書。私はそれを机に置くと同時に、勢いよく開く。

 そこにあったのは。本来印刷されていた文字と同じか、それ以上の量の手書き文字が書き込まれた文章だった。左のページにギリシア語の文、右のページに訳文が書かれており、そのどちらにも夥しい量の書き込みがされている。

 一つ一つの単語に、細かく、しかし読みやすい程度の大きさで書かれているその手書きの文字。私はその筆跡に見覚えはなかったが、書いた人物を推測することは出来た。


「父さんの、字だ……」


 放心したような声で、少年が言葉を絞り出した。

 私は、次のページ、その次のページと次々捲って見せてゆく。その全てに、同じような手書き文字が並べられているのだ。

 私は、声を出さなくなってしまった少年に語り掛ける。


「バンダイさんはきっと、全てのページに書き込みをしています。あなたが読みやすいように、と」

「オレに、渡すために……?」


 分厚い聖書の全てのページに注釈を入れてゆくのは、並大抵の労力ではなかっただろう。

 しかし、彼の父親はやり遂げて見せたのだ。


「これが、あなたのお父さんの”思い”です」


 永遠の時を超えようとも、変わることのない彼の父としての思いだ。

 少年はひたすらに、一つ一つページを捲って行く。失われた時間を取り戻すかのように。

 そしてその手は、出版社の名前が書かれた最後のページで止まった。そこには、今までよりも大きな書き込みがされていた。


『Do Your Best For Your Friend』

『あなたの全てをあなたの大切な人のために』


 これは聖書の言葉ではない。持ち主の言葉だ。

 将来これを手にするであろう少年に向けた、父親の言葉なのだ。


「どぅー、ゆあべすと、ゆあ、フレンド……」


 一つ一つを噛み締めるように呟いた少年は、その後静かに本を閉じた。

 そして暫く経って、再び意を決したかのように顔を上げる。


「神様なんかじゃない、父さんが伝えたかったのは」


 私は何も言わずに、彼の言葉をじっと待つ。


「ただ、それだけなんだ。人のために何かをする、それだけなんだ。でも、それがどれだけ難しいか、父さんは知っていた。だから僕にこの本を渡した――」


 机の上に並べられた、二冊の本。今度は赤い本を開き、連なった難解な言葉の列を指先で辿ってゆく。

 それはきっと、彼の父親が牧師になるまでの苦労を象徴しているのだろう。


「それに、自分も沢山頑張った。この本を見て、それが分かった」


 そう言うと、少年は顔を上げて真っ直ぐに私を見た。迷いのない眼差しだった。


「僕は、神様は信じない。だけど、この本は信じるよ」

「……お父さんも、きっと喜ぶと思います」


 私がそう言うと、少年は照れたように頬を掻いた。


「ありがとう、セツナ兄ちゃん。その……この本、二冊とも貰っていいかな」

「ええ、勿論です」


 そのどちらもが、彼の父親――皐月バンダイの”思い”なのだ。そしてそれは、息子である彼に受け継がれるべきだ。

 その後も謝辞を述べながら、少年は応接間を後にした。


「……終わったか?」

「シュユさん。食料はこれだけです」


 続いて入ってきた老人に、私は手に入れてきた食料を袋から手渡してゆく。


「全く……理解できんな。何たらとかいう本を持ってくる暇があったら、もっと食料を持ってくれば良いものを」

「……済みません」

「ああ、まあいい。仕事にけちを付けるつもりはない。これが出来るのは今のところお前だけなんだから、な」


 そんな雑談の間にも、彼は驚くほどの手際で帳簿を記入してゆく。接しにくいところはあるが、悪い人ではないのだ。

 兎に角、仕事は終わった。私は梯子を上って屋根裏へと向かった。



 薄暗く埃っぽい部屋では、早々に上着を脱いでしまった少女が木箱に座ってカメラの画面を見つめていた。

 私の姿を認めると、彼女はこちらに少しだけ視線を向けてから「お疲れ様でした」と呟く。私はコートだけを洋服掛けに掛けて、屋根裏を保ち続けている菜種油のランプの残量を確認し始める。

 長い間空けていたのにも関わらず、ランプには油が並々と入っていた。

 私が同居人の少女に視線を向けると、彼女はカメラと私から顔を背ける。その頬に薄く朱が差しているのが見えた。

 私の口からは、思わず笑みが零れる。

 顔をこちらに向けることなく、少女は私に声をかけてきた。


「依頼人に、二冊とも渡してきたのですね」

「はい。それが一番だと思いました」


 微かにため息をついて、少女は天窓に映る景色を仰いだ。夕暮れに染まりつつある街の向うから、硝子細工のような月が浮かぼうとしているのが見えた。

 月を見るたびに、その美しさに息をのむようになったのは、あの日以来だっただろう。日々移り変わるその姿は、私にとって救いとも呼べる存在だった。


「……人々は、どうして神を求めるのでしょうか」

「”永遠”が欲しいからですよ、きっと」

「それなら――」


 彼女は何かを言おうとして、口を噤んだ。橙と藍色が溶け合った空に、空中で凍り付いた二人の呼吸が浮かぶ。


「……セツナさん、少しお腹が空きました」


 滅多に言わないような、自分の願望を少女は口にする。


「それじゃあ」


 私は屋根裏の隅の戸棚から、赤色の実を数個取り出す。今となっては貴重な果物、リンゴだ。


「ご飯にしましょうか」


 表情こそ変わらないが、少女の顔が輝くのが分かった。

 凍った街は、間もなく夜を迎えようとしていた――


"神よ、我が願いを聞き届け給え"

"我々の未来に、希望に、私の人生の全てを"

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