第四話『祇園精舎の鐘を鳴らせ』 3
目的の品を手に入れた私は、窓の外を確認した。
まだ日は沈み始めたばかりだ。どうやら間に合ったらしい。
実は、あの青い聖書を手に入れた時点で依頼は完了していた。あの中に書かれた内容は、確かに牧師の息子に渡すものとして相応しかった。
『ああでも、今日はもう帰るには遅いですかねー』
『……まだ昼前ですが』
『いやあ、その……ま、万が一、ということもありますし……ね?』
トワを下手な芝居で誤魔化して探索を一日延ばしたのは、極めて個人的な事情からだ。
しいて言えばやはり、トワのため、ということになるのだが。彼女はきっと、自分の事を優先させることはないだろうから、荒い手段に訴えたのだ。
「もうすぐ、日が暮れます」
礼拝堂から見える太陽は、徐々に赤く染まってゆく。私は少女の小さな手を取って言った。
「実は、見せたいものがあるんです」
昨日と同じように、鐘撞堂までの階段を上ってゆく。私にとっては二度目だが、彼女にとって、これは――
『いつか、忘れてしまう』
初めての事なのかもしれない。
それはきっと、とても悲しいことなのだ。だから、私は――
分厚い氷が張り付いた木製の階段を、滑らないようにトワの手を引きながら上って行く。少女の青みがかった瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えているのを感じた。
やがて階段は終わり、私達は鐘撞堂……この街でもひと際高い場所である、教会の屋上にたどり着いた。
「……わあ」
隣の少女が、昨日と同じ感嘆の声を漏らした。
窓から見える街の景色の中で、もうすぐ沈もうとしている夕日の光が、街中の氷に乱反射して暖色の輝きを放っていた。
街並みは複雑な幾何学模様を作り出し、人工物でありながら自然な調和を醸し出している。――美しかった。
「見てください」
「私……この景色を……」
少女が、右手で額を抑える。
「見たことが、あるんですね」
「……はい」
「何故、どうして、こんなことをするんですか」
夕暮れに染まる街に、今まで聞いたこともないような少女の慟哭が響き渡る。
「私は思い出せない、覚えることも出来ない。この感情が理解できないから、何も」
その左目から、一筋の雫が流れ落ちた。
少女は、泣いていた。
ノートに記録していなければ、どれだけ美しい記憶も留めてはおけないこと。今いる自分が、数刻後には消えてなくなっているかも知れないということ。その辛さを、恐怖を、吐き出すかのような涙だった。
「教えてください、セツナさん」
少女が、顔を私の方へ向ける。
凍り付いたような表情に、夕焼けに反射して、まるで燃えているかのような涙が浮かんでいる。
「この感情を、何と名付ければ良いのですか」
「……それは、これからトワさんが選んでゆくことです」
自分の正直な気持ちを、必死で言葉にしていく。
嘘偽りなく、彼女の心に届くように。
彼女は私から顔を背け、消えようとしている美しい街の風景に目を移す。
「だけど、私は」「だから、それまでは」
二人の声が、重なる。
私はそこに生まれた時間の隙間を埋めるように、すぐさま鞄からとある物を取り出してトワに向けた。
鋭い雷鳴のような音が、街中に響き渡る。
「私も、出来る限り手を貸させてください」
トワは、音に驚いて振り返る。私は慌てて、手の中に持っていた”それ”の画面を確認した。
そこには今私が見ているのと同じ景色が……赤く染まった、氷漬けの街の風景が写し取られていた。
「これは……」
「上手くいったみたいですね。壊れていなくて、良かった」
私が探索を一日延長してまで探していたもの、それはカメラだった。両手で覆えるほどの大きさのデジタルカメラ。恐らく、牧師の私物だったのだろう。
「プレゼントです、トワさん」
結局、気の利いたセリフは思い浮かばなかった。私に、そういった役回りは似合わないのだ。内心で苦笑しながら、私はトワの顔を見つめる。
じっとカメラの画面を見ていたその顔が、私の方を向いた。
彼女は、笑っていた。
感情を初めて知った子供がそうするような、自然な笑顔。言語にも記憶にも縛られることのない、単純で明快な感情の表現。
それが余りに美しくて、私は思わずシャッターを切っていた。彼女の笑顔が、”永遠”の物となるように。
それから、彼女の頬で凍てついた涙を拭う。
「ありがとう、ございます」
絞り出すように、彼女は言葉を紡いだ。
私の手からカメラを受け取り、もうすぐ消えてしまう景色を写真に収める。柔らかなシャッター音とフラッシュが、辺りを包んだ。
彼女は、それからずっとその画面を見つめ続けていた。夕焼けが消え、夜がやって来て、私が就寝の支度を済ませてしまうまで。
「トワさん、朝ですよ」
「あと、五分だけ、お願い……できませんか……」
そう言いながら、彼女は私の返事を待つことなく再び眠りについてしまった。
私は苦笑しながら、礼拝堂に掲げられた十字架を仰ぎ見る。今日でこの風景とも、暫くの別れを迎えることになる。
こんな世界にでも、神はいるのだろうな、と思った。
人間がそこに生きている限り、人間は罪を犯し、救いを求め、奇跡も起こるのだ。
「セツナ、さん――」
「え?」
何か聞こえた気がして後ろを振り返ったが、そこには相も変わらず死んだように目を閉じた少女が居るだけだった。
その顔は少しだけ、笑っているような気がした。




