第三話『クロノスは氷の神であったか』 3
私達が教会に足を踏み入れると、足音が天井に反射して響き渡る。
礼拝堂の前面に置かれた大きな偶像も、それに祈りを捧げる老人も、同じように凍り付いてしまっていた。
「諸行無常……でもないな」
「しょぎょう?」
舌足らずに、少女が聞き返してくる。私は氷漬けの空間に満ちた、祈りの言葉に耳を傾けながら答えた。
「物事は移り変わり、力があってもいずれは衰える、という意味です」
「虚しい思想ですね」
トワは会話に興じながら、相変わらずの速筆で例の『記録ノート』に何かを書き込んでいた。まるでそこに書かれていることだけが、世界の全てだとでも言うように。
彼女が私の仕事に同行することで何を得ようとしているのかは、分からない。この街の時が止まってから63日、彼女と共に暮らして40日、およそ一か月の間を過ごしてきたことになるが、この少女に関してはまだまだ謎が多い。
この街が凍った原因について、彼女は何らかの鍵を握っている。私は直感的に、そう考えている。それを忘れたふりをしているのか、それとも本当に忘れてしまっているのかは分からないが、いずれにせよ――
「セツナさん」
「……あ、すみません、今行きます」
「全く。こんなところで、放心したりしないでください。早く依頼を終わらせますよ」
そうだ、今すべきことは、牧師の息子からの依頼の遂行なのだ。
「聖書は、バンダイさんが肌身離さず持っていたそうです。そうなると、向かうべき場所はあそこですね」
「場所に心当たりがあるのですか?」
「ええ」
私は巨大な石像に一瞥をくれてから、その横を通り過ぎる。
「鐘撞堂です。恐らくは、屋上に」
「依頼人……シュン君は、父親は春祝祭の鐘撞係をしていたと言っていました」
「それは、聞いていました。しかし、鐘撞の係があるのですか?」
「大燭台に火を灯すと同時に、鐘を鳴らして街中に春の訪れを知らせるんですよ」
その音を私たちが聞くことは、ついに無かったのだが。
分厚い氷が張り付いた木製の階段を、滑らないようにトワの手を引きながら上って行く。少女の青みがかった瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えているのを感じた。
やがて階段は終わり、私達は鐘撞堂……この街でもひと際高い場所である、教会の屋上にたどり着いた。
「……わあ」
隣の少女が、滅多に上げることのない感嘆の声を漏らした。
窓から見える街の景色の中で、もうすぐ沈もうとしている夕日の光が、街中の氷に乱反射して暖色の輝きを放っていた。
街並みは複雑な幾何学模様を作り出し、人工物でありながら自然な調和を醸し出している。――美しかった。
「これは……凄いな」
「記録して、おかないと……」
少女がノートにペンを走らせ始める。私は暫くうっとりとその光景を見つめていたが、はっと我に返ると中央に鎮座する鐘に目を向けた。
そこには、黒い衣装に身を包んだ一人の男性もいる……丁度鐘を突こうとしている姿勢で、その笑顔は固まっていた。
そしてその近くにある小さなテーブルには、一冊の赤い重厚な本があった。
『NEW TESTAMENT 新約聖書』
「あった……」
私は白い息を一つ吐き出して、近くの少女を呼ぶ。
「トワさん。記録もいいですけど、一旦こっちを手伝ってください」
「あ……はい、分かりました」
妙に歯切れが悪い返答だった。少女はそのままノートとペンを仕舞い、代わりにランタンを手にこちらに近づいてくる。
それからは、いつもの作業が始まった。暗くなってゆく室内で、右に左に揺れ動くランタンの光を頼りに氷を砕いていく。
手を動かしながら、私は先ほどの違和感を少女に問いかける。
「さっきは、何かあったんですか?」
「さっき……? 何時のことでしょうか?」
「私が呼んだ時ですよ。返事が少し気になって」
「ああ……いえ、その……何と言ったら良いのか……」
頻繁に言葉に詰まる。いつもの少女とは、明らかに様子が違った。
「この光景の美しさを、記録しておこうと思ったのですが……何故か、上手く書けなくて」
「書けない?」
「ええ。あり得ない話です。言語化できない思考なんて、ありはしないのに」
もう日は完全に沈んでしまった。私はハンマーの音だけが響く鐘撞堂で、明かりに照らされる少女の顔を伺った。
彼女の戸惑いを映すように、炎は静かに揺らめいている。
「思考の、言語化、ですか」
「そうしないと、そうしないといつか」
トワの声は、明らかに焦りを帯びていた。青白い炎が火柱を噴き上げる。
「いつか、忘れてしまう」
私は黙っていた。かける言葉が見つからなかったのだ。
この少女の、病的なまでの“永遠”の渇望。それは、自らの不安定な記憶に由来するものだったのだろうか。
私は、先ほどまでの光景をはっきりと覚えている。その時抱いた感情と共に。
しかし、トワには、それが出来ないのだ。
私に何が出来るだろうか、何が言えるだろうか?
火が勢いを弱めたので、トワは黙って油を注ぎ足した。
それからは、二人とも黙っていた。




