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L-シンドローム

作者: 藤 達哉

L‐シンドローム      藤 達哉


 盛り場の夜に終りはなかった。ネオンサインや街灯のあかりに照らされた酔い客が、当所のない旅人のようにそぞろ歩いていた。

池永朋彦は会社の同僚との呑み会のあと、一人で神楽坂を歩いていた。湿った春風に心地よく包まれ、彼は昔憶えた歌を口ずさみたい気分になった。歌詞を頭に浮かべた時、抱きあうカップルの姿が眼に入った。

若い二人はひしと抱きあい、顔と顔が重なり身体もひとつの黒い影となっていた。抱きあう相手もいない二十八歳の池永は、その熱い影を横目に歩き続けた。抱きあうカップルの姿は最近ではけっして珍しくなく、街のあちこちで見られる光景だった。


〈近頃はどこへ行ってもカップルがくっつきあって、べたべたしているけど、一体なにがおこっているんだ。まさかL‐エクピダイトのせいじゃないだろうな〉


池永は酩酊し、虚ろな頭でそんなことをぼんやり考えながら、メトロに乗り込んだ。席はほぼ満席で、ドアの横に立って車内を見わたすと、反対側のドアの前でカップルがまたしても抱きあっていた。彼が見ていると、重なっていたカップルの顔がはなれたかと思うと、つぎにキスをし始め互いの唇を吸いあい膠着した。

池永は暗く狭まった視野でカップルを捉えて、またかと思い眼をそらした。近くで男が立ちあがり席がひとつ空き、池永はすぐさまその席に坐った。席についてまもなく、重くなった彼の意識は深い酔いに沈んでいった。

         

 月曜日、池永はオフィスへ出社した。彼は麹町にあるデジタル・コンテンツ制作会社、サイバー・インパルスに勤務していた。同社は三年前に設立された社員三十名のベンチャー企業で、池永は設立時に、勤めていた大手のコンピューター会社を辞めてこの会社に転職してきた。大手企業の組織と窮屈さを嫌っての転職だった。

ITバブルの恩恵に浴し、会社は順調に業績を伸ばし、入社以来、池永の仕事も多忙をきわめた。

彼はコンテンツの企画を担当していた。新コンテンツを企画し、そのアイディアをゲームメーカーやソーシャル・ネットワーキング・サービス会社に売込を図るのが仕事だった。コンテンツ業界は成長分野だが、それだけに競争も熾烈をきわめていた。彼は自身の経験と知識だけに頼ったコンテンツ創りにもはや限界を感じていた。新鮮なアイディアを生みだすために日夜苦闘していたが、新しい地平は見えなかった。

最近では、アイディアを得るために、インターネットで海外のコンテンツをあてもなく渉猟することに多くの時間を費やしていた。なんらの原則も規則性もなく、ただひたすら様ざまなサイトを探してマウスでクリックを繰り返す。はじめのうちは、オフィスで集中してそのような探索をしていたが、最近は自宅でもただ漠然と同じこと繰り返していた。

彼は自身で自覚することなく、サイバースペースの彷徨える旅人になっていた。


 深夜、横浜の自宅で池永はパソコンに向かっていた。アメリカのサイトを開いていくと、眼を惹くひとつの記事にいきあたった。


「L‐エクスピダイトは愛を生む。Lは恋愛上手。Lは世界平和をもたらす神からの授かりもの」


画面上のヘッドラインにおおきなアルファベットが踊っていた。

彼は詳細を見ようとヘッドラインをクリックしたが、あっけないほど簡単な説明が眼にはいった。


「誰にでも手にはいるL。いますぐオーダーしよう。下記のフォームに住所などを記入してクリックするだけ。コストは十錠でわずか十二ドル。お支払はクレジットカードで。一週間でLが届きます」


説明書きの下に注文するための簡単な欄が設けてあり、その下にごく小さい字の説明があった。


「大量に呑むのは危険です。必ず医師の指示に従って服用してください」


何度か内容を読み返したが、彼は意味を?みかねた。


〈なにやら薬のようにも見えるが、これといった効能も記されていない。安い価格からみて麻薬類でもなさそうだ〉


彼は注文するため、クリックすべく指を動かしたが、どうせ、まがい物だろうという考えが頭をかすめ、思い止まった。

 L‐エクスピダイトについて、彼はその呼名だけは聞いていた。はじめてその名が登場したのはフェイスブックだった。それから時をおかず、ミクシイなど日本のSNSにもちらほらその名が現れはじめた。しかし、彼が実際にその商品のサイトを直接見たのはその日が初めてだった。

その商品はすでに若者の間では、波紋のように広がり始めていた。アメリカのSNSから日本のSNSへ伝播したスピードから見て、これはおそらく爆発的に広がるのではないか、と彼は思った。そう思った瞬間、彼は恐怖とも快感ともつかぬ奇妙な感覚に囚われた。

眼に疲れを覚えた彼が椅子から立ち上がり、窓のカーテンを開けると、家家の甍がどこまでも連なり、白みはじめた灰色の空の彼方に消えていた。


 オフィスでも池永の頭にその商品の宣伝文句が浮かんで消えなかった。

「おい、どうしたんだ、ぼーっとして」

眼を上げると、同僚の篠山の顔があった。

「ランチ行かないか」

「えっ、もんそんな時間か」

池永がちょっと驚いて時計を見た。

「おまえ、仕事し過ぎじゃないか」

篠山が微笑んで言った。

 サイバー・インパルスのオフィスは新宿通からワンブロック入った裏通の小さなビルにあった。

池永と篠山は階段を下り、通りに面した地下のレストランに入った。

「最近時々ぼーっとしてるけど、だいじょうぶか」

ランチ定食のスープを口に運びながら、篠山が訊いた。

「うーん、最近気にかかることがあってね」

サラダを口に入れながら、池永が応えた。

「一体なんだ、その気になることって」

「L‐エクスピダイトって聞いたことあるか」

「ああ、あるよ。若い連中がLって言っているものだろう」

「あれって、なんなんだろうな」

「なんだ、そんなことか」

「最近、ネットでもよく見るしね。どんなものかと思って」

「どうせまがい物だろう。アメリカ発の情報は詐欺的なものが多いからな。いちいち気にしてもしかたないさ」

篠山は笑っていた。

「それはそうかも知れないけど。このごろ変だと思わないか」

「変って」

篠山は池永の言うことが分らず、怪訝な表情をした。

「このごろ、あちこちで抱きあってるカップルがやたら多いと思わないか」

「・・・、うん、まあ、そう言えばそうかな」

「ここはセーヌの河畔でもないのに、べたべたしているカップルが多すぎるよ」

池永の声に力がはいってきた。

「うん、まあな、そう言えば・・・」

篠山は池永の声に押されて頷いた。

「Lのサイトを見たけど詳しい説明もなくて、どんな商品でどんな効能があるのかもさっぱり分らないしね」

池永は篠山の顔をみて言った。

「へー、そうなのか。僕もいちど見てみようか。それで、べたべたするカップルとその商品となんの関係があるんだい」

L―エクスピダイトのサイトを見たことがない篠山は、池永の話がもうひとつ理解できなかった。

「そのサイトを見れば分るけど、Lというのは、何というか、そのー、人に恋愛感情をおこさせるというんだ」

池永は言葉に窮しながら話した。

「それを呑めば恋が芽生えるってことか」

篠山はますます腑に落ちない表情になった。

「それが、よく分らないけど、サイトの説明を見る限りそうとれるんだ」

「そんなこと、本当にあるのかな」

篠山は信じられないという表情をしていた。

「効果のほどは分らないけど、それが医薬品だとすれば厚労省の承認が必要だけど、それはどうなってるんだろう」

池永も納得できない表情をして言った。

「まあ、承認は必要だけど、少額だと輸入検査も緩いから通っちゃうんだろうな。」

「そうか、そうかも知れないな。しかし、呑んだらどうなるのかな。買って呑んでみようかと思うんだけど」

「おい、それアメリカでは承認されているのか」         

「いや、まだされてないと思うよ」

「それなら、やめたほうがいいよ。麻薬でも入っていたらどうする」

篠山は真顔で言った。

「そうか、そういうこともあるのかな」

二人は顔を見あわせた。レストランを後にした時、昼休の時間   はとおに過ぎていた。

 オフィスで午後の仕事を続けていた池永は眠気を覚え、炊事場へコーヒーをとりに行った。そこで彼は信じられない光景を眼にした。後輩社員の大川洋子と間山徹が抱きあっていた。池永はなにか悪いものを見たかのように眼をそらし、慌ててその場を立ち去った。


〈一体どうしたんだ。あの二人はそういう仲だったのか。いや、それにしてもあんな場所で、ありえないことだ。まさか、あの二人、Lのせいじゃないだろうな〉


その午後、眼の前に抱きあう二人の姿が浮かび、彼は仕事が手につかず退社まで上の空で過ごした。


 池永と香里は、横浜港に臨むレストランにいた。

「どうかしたの。元気ないみたいね」

香里がジンジャーエールのグラスを置いて池永に訊いた。

「うん、ああ、ここんとこ仕事が立て込んで、疲れたみたいだ」

「あら、そうなの。それであんまりメールもくれなかったの」

香里が強い視線を池永に向けながら言った。

「ごめん。でももうだいじょうぶだ。今回は契約の締切にも間にあったしね」

池永が香里の眼を見て応えた。

「まあ、本当かしら」

香里は柔らかそうな頬を揺らし、綺麗な白い歯を見せて微笑んだ。

 食事を終えた二人はレストランを後にし、山下公園を歩いた。初冬の陽射を浴びた並木の影のなかを暫く歩いて行くと、池永は異様な雰囲気を感じた。木蔭のあちこちでカップルが強く抱きあっていた。海岸に眼を移すと、そこでも歩道の手摺によりかかるようにして幾組かのカップルがひしと抱きあっていた。

香里もその異様な情景を呆気にとられて見ていた。そして、彼女が池永を見たとき、彼が口を開いた。

「僕らもああいうふうにしてみるかい」

「まあ、いやだわ。こんな昼間から」

池永は冗談のつもりだったが、香里は真顔で応えた。

固く抱きあったどのカップルの姿も、紺碧の海や深緑の並木を背景にまるで3D映像のようにくっきりと浮びあがり、彼らは陶酔の世界を彷徨っているように思えた。

「あの人たち、なんだが変だわ」

香里がカップルを見わたして言った。

「そうだね。みんなうっとりしているようだけど、生気がなくて眠っているみたいだな」

池永もカップルを眼で追いながら言った。

「なんだか気味がわるいわ。早く行きましょう」

普段は好奇心の強い香里だが、よほど違和感を感じたのか、脚を早めて、そこから立ち去ろうとした。池永も彼女の後を追った。

 池永と香里の出会いは偶然だった。新宿のダイニングバーに合コンにきていた香里が気分がわるくなり、廊下の壁によりかかっていたところを池永が介抱したのがきっかけだった。

ショートヘアと透きとおるような白い肌は、香里を瑞瑞しい少女のように見せていた。大きな瞳と長い睫が美しい顔の輪郭を一層引立てていた。彼女は半蔵門の教育図書の出版社に勤務していた。職場が近いところから、池永が彼女をランチに誘い、交際が始まった。それから季節が一巡りしていた。

      

 街中で目だつカップルの姿にようやくマスメディアも気づき、夕方のニュースなどで伝えはじめたが、その原因についてはどのメディアも沈黙を続けた。

そんななか、L‐エクスピダイトの情報は瞬くまに浸透し、若者たちのあいだでは一種の救世薬ように思われ、潮が満ちるように静かにその愛用者がふえていた。


 「先生、このL‐エクスピダイトというのは医薬品と考えていいのでしょか」

テレビのニュースショーのキャスター、下弦良二が杏森医科大学の斎藤教授に訊いた。

「そうですね、医薬品ですね。成分についてはまだよく分っていませんが」

斎藤教授はやや不機嫌に応えた。

「成分がまだ分らないとのことですが、これはどういう働きをするんでしょうか」

下弦が訊いた。

「服用者の症状をみるかぎり・・・、おそらくドーパミンとかセロトニン系に影響を与える物質だと思われますが・・・」

斎藤はたどたどしい口調で応えた。

「そうしますと、成分がなんであれ、当局の承認が必要ですよね」

下弦が斎藤へ向きなおって言った。

「もちろん、そうです」

斎藤が一言応えた。

「国内の製薬会社では生産していませんよね」

下弦がたたみかけるように訊いた。

「聞いたことありません」

斎藤はまた短く応えた。

「そうしますと、いま国内で出まわっているものはすべて法律に違反しているということですか」

「そういうことになりますね」

斎藤はうんざりした表情で応えた。

「この医薬品が副作用をおこすとか、身体に有害である可能性がありますね」

「成分が未知ですから、なんとも言えませんが、そりゃ可能性はあります」

「成分分析はどうなっているんでしょうか」

「いま厚生労働省で必死にやってますよ。もっともアメリカのFDAではすでに分析が終わっているでしょう」

「えっ、FDAというのは?」

「食品医薬品庁のことですよ」

斎藤は、キャスターのくせにそんなことも知らないのか、という顔で応えた。

「厚労省での分析が終われば、国内で承認されることはあるでしょうか」

「ドーパミンやセロトニン系に影響する物質が無害とは考えにくいので、承認は難しいでしょう」

「そうしますと、分析が終わったアメリカでも承認されることはないとお考えですか」

「ないでしょう」

斎藤は、いい加減にしてほしい、という表情で応えた。

「それでは、いま出まわっているL‐エクスピダイトは、もっとちゃんと取締りしないといけないと思いますが、いかがでしょうか」

「そりゃそうですが、私は知りませんよ。厚労省と税関の仕事でしょう」

斎藤は一段と不機嫌に応えた。

一瞬、スタジオが凍りついた。下弦は斎藤の強い口調に押され、ちょっと眼を?いたあと、慌ててエンディングへ入った。

「今回はL‐エクスピダイトの現状についてレポートしました。次回はこの医薬品に対する法的規制と対策について議論を進めたいと思います。斎藤さん、今日はどうもありがとうございました」

「・・・・」


 一か月後、ニューヨークタイムズの電子版に衝撃的な記事が掲載

された。

「FDA、L‐エクスピダイトを承認へ。大手製薬メーカーのフェイザーは生産準備に入る」

このニュースは世界の製薬メーカーに少なからず動揺を与えた。アメリカの当局が、得体の知れないこの医薬品を承認するとは誰も予想していなかった。

斎藤教授の予測は見事にはずれた。

このニュースをうけ、各国の製薬メーカーは一斉に生産準備に入りはじめた。日本の製薬メーカーも遅れまいと厚労省に働きかけたが、

同省の反応は相変わらず鈍く、メーカーは苛立ちを募らせた。

しかし、厚労省がどう動こうが、愛用者は気にすることはなかった。国内生産がなくとも、いまもやっているとおり、アメリカ製品を輸入すればすむことだった。

 それから二か月後、FDAは正式にL‐エクスピダイトを承認した。


 恵比寿のワインバーで大川洋子と間山徹はテーブルをはさんで池永と香里に相対していた。

「君たちがそういう仲だったとはね」

池永が微笑んで言った。

「まいったな、見られちゃったんですね」

間山は照れながら応えた。

「いや、べつに見る気はなかったんだけど偶然さ。いつごろからそんなことになったんだい」

池永がさらに相好を崩して訊いた。

「それが、僕たちにもよく分らないんです」

間山は隣の大川の顔を見ながら言った。

「でも、お互い意識しはじめた時のことは憶えてるんじゃない」

香里が二人の顔を見て言った。

「でも、本当なんです。ある日、気がついたら抱きあっていたんです」

大川が眼を見開いて応えた。

「そうなんです。洋子はタイプじゃないし、意識なんかしてなかったんですよ」

間山が言葉を継いだ。

「あら、いやだ。私だって徹なんかタイプじゃないし、なぜこんなことになったのか、ぜんぜん分らないんです」

池永と香里は二人の言っていることが腑に落ちなかった。わずかな沈黙のあと、池永が口を開いた。

「まさか、君たちL‐エクスピダイトを呑んだのかい」

「ええ、呑みました」

間山が応えた。

「大川さんも呑んだの」

香里が訊いた。

「ええ、呑んでます」

大川は事もなげに応えた。

「やっぱりそうだったのか。だけど、どうやって手に入れたんだい」

ワインをひと口呑んで、池永が訊いた。

「ウェブサイトから注文したら、二週間くらいで届きましたよ」

間山が応えた。

「いつから呑んでるの」

こんどは香里が訊いた。

「もう一か月くらいはたつわ」

大川が応えた。

「それで、なにか変ったことがおこったのかい」

池永が焦るように訊いた。

「それが、なんだかよく分らないですが、呑みはじめてしばらくすると、洋子のことが急に気になって、それまではそんなことはなかたんですが・・・」

間山がにこにこしながら応えた。

「そういえば、私も徹のことを急に意識するようになって、初めて誘われた時も断れなくてデートしたんです」

大川も機嫌よく応えた。

二人はこのうえなく幸せといった風情で、池永と香里は甘い花の薫に満ちた春風に包まれる思いがした。

「いきなり恋が芽生えたってことなの」

しばらくうっとりと二人を見つめていた香里が訊いた。

「ええ、まあ、そういうことですね」

間山が優しい笑顔で応えた。

「私もそうなんです。徹のことがなんだか好きになってしまって、誘われると断れないんです」

大川も微笑をみせて言った。

「そうなのか。それは素晴らしいことだけど、なにか副作用はないのか」

池永が眉をひそめて訊いた。

「べつにまずいことはありませんが」

間山が応えた。

「ええ、副作用なんかありませんよ」

大川も続いて応えた。

「そう、それならいいんだけど」

池永は拍子抜けして応えた。

「まあ、素敵。なんの害もなく恋が生れるなんて」

そう言った香里の眼は輝いていた。

彼女は視線を池永に向けた。

「それじゃ、君たちは結婚するんだろ」

視線を感じた池永が訊いた。

「いえ、結婚は考えていません」

間山が即座に応えた。

「えっ、どうして」

香里が訊いた。

「結婚するより恋愛関係のほうがいいと思うんです」

間山が大川に視線をやりながら言った。

「ええ、私もそう思います。恋愛関係のほうがいいんじゃないかって」

大川も間山の顔をみて言った。

「それに・・・」

間山が言葉を継ごうとして口ごもった。

「それに、なんだい」

池永がすかさず訊いた。

「い、いえ、なんでもありません」

池永も香里もなぜ恋愛関係がいいのか、また間山が口ごもった理由も分らなかった。

池永が時計を見ると、もう十一時を過ぎていた。テーブルには、彼らの話を聞いているように、空になった赤と白のワインボトルが二本並んでいた。


 自宅へ帰る東横線に揺られながら、池永は間山たちとの話を思い返していた。


〈やっぱり、彼らみたいなカップルが増えているんだ。Lも簡単に手に入る。ああいうカップルはこれからどんどん増えるだろう。そうすると、これからの世の中は・・・〉


酔いに痺れた池永の頭では、それ以上思考を続けることはできなかった。


 池永と香里は渋谷のコーヒーショップにいた。

「間山たちの話をどう思う」

池永がコーヒーカップを口に運びながら訊いた。

「ちょっと驚いたけど、あの二人はまだ若いし、いいんじゃない」

香里はあっさりと応えた。

「いや、僕は結婚のことを言ってるんじゃないんだよ」

「えっ、じゃあ、なんのこと」

「薬のことさ」

「ああ、Lのことね」

「うん、そう、どう思う」

「人の話を聞いてるだけじゃ分らないけど、でも、あの二人の様子を見てるとなんだかよさそうね」

「そうだな、どんな感じになるのかさっぱり分らないけどね」

「でも、あの幸せそうな顔を見てると羨ましくなっちゃったわ」

そう言って、香里は池永の眼を見つめた。

「そうか、香里もそう感じたのか」

「もう、試してみるほかなさそうね」

コーヒーをひと口飲んで、香里がいたずらっぽい眼で言った。

「本気かい」

池永が香里の眼を見て返した。

「もちろんよ」

香里は肩をすくめて応えた。

土曜の午後のコーヒーショップは大勢の客で賑わい、打明け話や噂話や笑い声で満ちていた。

 その夜、池永は自室でパソコンに向かっていた。アメリカの製薬メーカーのウェブサイトを検索すると、数社のメーカーがL‐エクスピダイトの通信販売を行っていた。

彼は最大手のフェイザー・メディカルのウェブサイトから注文することにし、住所、氏名、数量など必要な情報をインプットした。決済はクレジットカードのみが可能だったので、カードナンバーを打込み、最後に「注文する」をクリックした。すると、直ちに「受注を完了しました」と画面に表示された。

「これで僕もLの愛用者か」

窓の外に響く電車のレール音を聞きながら、彼は呟いた。


 池永が朝、出社すると廊下で間山とであった。

「おはよう、どうだい、うまくいってるのか」

池永は軽い気持ちで訊いた。

「えっ、なにがですか」

間山はきょとんとした顔で返した。

「なにがって、彼女さ」

「なんだ、そのことですか。彼女とはもう別れました」

間山はにこやかに応えた。

「えっ、別れたって」

池永は間山の予想しない返答に戸惑った。

「ええ、先週別れました」

「しかし、どうしてだ。あんなに好きあっていたじゃないか」

腑に落ちない池永は語気を強めた。

「ええ、そうだったんですが・・・」

間山は言葉を詰まらせた。

「一体、どうしたというんだ」

池永はさらに間山を問い詰めた。

「それが、その、別のいい人が現れて・・・」

間山は屈託のない笑顔で応えた。

池永は二人のあいだになにがあったのか考えもつかなかったが、立話ではすまないと思い、仕事のあと間山と会うことを約し、その場を終わらせた。間山は窓から入る朝陽を浴びながら軽い足どりで廊下の向こうへ消えて行った。


 夕方、池永と間山はオフィス近くのコーヒーショップにいた。

「別れたなんて、どうしたんだ」

合点のいかない池永は問いただすように訊いた。

「それが、いい彼女ができてしまって・・・」

「しかし、この前は大川のことが好きだって言ってたじゃないか。彼女のことはどうするんだ」

「それが、彼女にも新しい彼ができたらしいんです」

間山は愉しそうに応えた。

「なんだって。それで、彼女はいまどうしてるんだ」

「このあいだ訊いたら、その彼氏ともういい仲になったって言ってましたよ」

池永の頭は混乱していた。

「しかし、君はそれでいいのか」

彼は急きこむように言葉を継いだ。

「ええ、彼女も幸せそうだし、僕も気分がいいですから」

間山は笑顔で応えた。

池永はにこやかに笑う間山の顔をまじまじと見入った。

「それで、新しい彼女とはどうして知りあったんだ」

池永は気をとりなおして訊いた。

「電車で会ったんです」

「電車で?」

「はい、先週の朝、通勤電車のなかで偶然眼が会って、それで話はじめて、すぐに親しくなりました」

「もう深い仲になったのか」

ありえないことだと思いながら、池永は訊いた。

「ええ、まあ、そういう意味ではそういくことかと」

間山は幸せそうな笑顔を見せた。

池永は、一体どんなことがあったら、こんな腑抜のような顔になるのかと思い、一瞬怖くなった。

「それで、大川さんは・・・」

言いかけて彼は言葉を呑んだ。彼女のことは彼女自身に訊くべきだと思いいたったからだ。


 〈何か妙だ。こんなにふあふあと気分が変るとは〉


彼は間山の無邪気な笑顔をしばらく見ているうちに、あることに気づいた。


〈そうだ、これがひょっとしたらLの副作用かも知れない。しかし、こんな副作用があるとすれば、世の中大変なことになる〉


彼は自身の頭に浮かんだ考えに、なにか言い知れぬ不穏なものを感じた。


 翌日、池永と香里は大川を同じコーヒーショップへ誘った。

「間山から聞いたんだけど、別れたんだって」

池永は大川の顔色を窺いながら訊いた。

「はい、別れました」

彼女は呆気なく応えた。

「あの、それで大丈夫なの」

香里も恐るおそる訊いた。

「ええ、別に。間山さんも新しい彼女が見つかったらしいし」

「で、大川さんも新しい彼ができたって聞いたんですけど」

香里が言葉を継いだ。

「あら、情報、早いんですね」

大川は微笑んで応えた。

「その彼とはどうして知りあったの」

香里は好奇の眼で訊いた。

「銀座です。週末銀座へショッピングに行ったんです。気に入ったお洋服があったのでショーウィンドウを覗いていたら、彼が声をかけてきたんです」

「ナンパね」

香里が相槌をうった。

「ええ、最初はへんな男と思ったんですが、そのお洋服を買ってくれたんです」

大川はまた笑顔で応えた。

「初めて会った人に洋服を買ってもらったの」

「はい。それでその人のことをいっぺんに好きになってしまったんです」

「それ、どんな洋服なの」

香里は洋服のことが気になった。

「フェンディのドレスよ」

「へー、それじゃ高いでしょう」

「ええ、二十五万円だったわ」

「えっ、ほんとう?」

香里は言葉を失った。彼女は、こんなことがあってもいいのだろうか、と思った。

池永も、若いとはいえ特に美人でもない初対面の女性に高価なブランド物を買う男がいるだろうか、と呆れ顔で大川を見ていた。

「ええ、私、もう嬉しくて、その人のことがすっごくいい人に思えちゃって」

大川は耳から垂れた柔らかそうなブラウンの髪を指で撫でながら言った。

「そう、それはよかったね」

池永はそれだけ言うのが精一杯だった。

笑顔を絶やさない大川はコーヒーを飲干すと、小太りの身体を揺らして、軽やかにヒールの音を響かせながら店を出て行った。


 週末、香里は池永の自宅を訪ねていた。池永がL-エクスピダイトを注文してから二週間が経っていた。

「ほら、これだよ」

池永はフェデックスの白いパッケージから十センチ四方の紙袋をとりだした。袋を開けると、円筒状の透明なケースがでてきた。ケースのなかにはパープルの小さな錠剤が詰まっていた。ケースとともに説明書が同封されていた。

「なんて書いてあるの」

香里が訊いた。

「えーっと、用法用量を守ってください、と。呑み方は一日おきに一錠ずつ、だって」

池永が説明書を読みながら言った。

「そうなの。それって何錠あるの」

「五十錠さ」

「それだと、二人で呑めば二十五回分ね」

「そうだね。それから、これを呑めばたちまち幸福感に包まれ、彼、彼女との関係も深まり、恋愛が夢のように進展します・・・」

池永は説明書を読み続けた。

「呑んでみましょうよ」

香里が言った。

「だけど、これを呑んだら違法だよ」

「でも皆やってるし、それに呑んでみないと実際どうなるのか分らないじゃない」

香里の言葉に押されて、池永がケースから薬を掌にだした。

「まあ、綺麗」

香里はパープルの錠剤を見て眼を輝かせた。次の瞬間、彼女はなにかに誘われるように錠剤を口に入れて、呑みこんだ。

「あっ、呑んだのか」

池永は声を上げた。

「あら、呑んじゃった」

香里は口を開けてなかを彼に見せるようにした。

「あーあー、とうとう呑んじゃった」

池永は彼女の口のなかを覗いて言った。

「さあ、朋彦さんも呑んで」

香里が池永の眼を見て言った。

「ああ、もうしかたないな」

そう言って池永も錠剤を呑んだ。

二人はしばらく見つめあっていた。

「なにもおこらないな」

池永が言った。

「そんなにすぐには効かないわよ」

「そうか、そりゃそうだな」

二人は窓から射し込む冬の陽光のなかで笑った。

その日、二人にはなんの変化も現れなかった。


 翌日もなんのかわりもなかった。三日目、池永と香里は二回目のL―エクスピダイトを呑んだ。

四日目の朝、池永はいつになく爽やかな目醒めを迎えた。自宅から十分ほど歩き、横浜から東横線に乗り込んだとき、彼はいつもと違う雰囲気を感じた。混みあった車両にいる数人の女性がみな綺麗に見えたのだ。そして、いつもは苦痛に思っていた車内の人の圧力と濁った空気もたいして気にならなかった。

オフィスに入り、彼はさらに異常に気がついた。毎日見ている女子社員が、まるでソフトフォーカスの映像のように驚くほど綺麗で輝いて見えたのだ。廊下でみた何人かの女子社員に、彼は眼を奪われた。

デスクにつくと大川がお茶をおいた。

「おはようございます」

「あ、おはよう」

見馴れているはずの彼女の丸顔も湯呑茶碗をおいた肉づきのいい腕も、いつもと違って美しく見えた。


〈なんだか世界が変ったみたいだ。昨日までとは全然違う。そうか、これがLの効果なのかもしれない〉


池永はそのことに気づくと同時に、香里のことが頭に浮かんだ。

その夜、池永は香里と彼女の自宅からほど近い新宿のイタリアン・レストランで会っていた。

「驚いちゃった」

席につくなり香里は口を開いた。

「どうしたんだい」

池永が返した。

「メトロに乗ったら、男の人がみんな恰好よく見えちゃって」

香里は愉しげに微笑んでいた。

「やっぱりそうか」

「えっ、やっぱりって」

「じつは僕も周りの女の子がみんな綺麗に見えちゃって」

池永も笑顔で応えた。

「あら、いやだ。私も会社に着いたら、社内の男性がみんな魅力的に見えたわ。普段は冴えないひとばかりなのに」

香里は訝るように言った。

「うちだっておんなじだよ。美人なんかいないはずなのに、あの大川さんまで綺麗に見えるんだから、これはLの効果としか思えないいよ」

そう言って、池永は香里を見た。

彼女の顔も煌く絹絵のように見え、彼は一瞬うっとりとした。

「どうかしたの」

香里の声に彼はわれに返った。

「あ、いや、香里が綺麗に見えたから」

「あら、朋彦さんも恰好よく見えるわ」

香里もうっとりとした表情で言った。

「香里もそう見えるのか。気がついたと思うけど、これがLの効果じゃないのかな」

池永が香里の眼を見つめて言った。

「そうよ、そうだわ。朋彦さんも、ほかの男の人も急にセクシーに見えはじめたのがその証拠だわ」

「僕のことも入れてくれてありがとう」

池永は苦笑した。

話が一段落して、彼は冷めたラムステーキを口に運んだ。

香里もリゾットを食べはじめた。

 食事を終えて二人はレストランを後にした。すっかり葉を落したプラタナスの並木通を歩きはじめてしばらくすると、香里がいきなり池永に抱きついてきた。彼女の髪の薫を感じた時、池永は胸に熱い衝動を感じて彼女の細い腰を両手で抱きとめた。

「私の部屋にきて」

香里の声は潤んでいた。


 週明け、池永が出社するとどこからか悲鳴が聞こえた。彼が声のした方へ歩いてゆくと、炊事場の前に包丁を持った大川が立っていた。傍らでは腹を押えた間山が横向けに倒れ、身体をくの字に曲げ苦しんでいた。白いワイシャツの腹部は鮮血で真っ赤に染まり、床には点点と血痕が散らばっていた。

「大川、どうしたんだ!」

さきに来ていた篠山が大川の手から包丁を取り上げた。

「救急車!」

誰かが叫んだ。

その声で池永は携帯で一一九番にかけた。

「大丈夫か。もうすぐ救急車がくるからな」

横たわり苦しんでいる間山に池永が声をかけた。

「うー・・・」

間山は蒼ざめた顔をひきつらせ、声は言葉にならなかった。

「大川さん、どうしてこんなことを」

池永が大川の両肩に手をかけて言った。

「よ、よく分らないんです」

彼女の眼は虚ろで声は震えていた。

「分らないって、どういうことだ」

池永が訊き返した。

「間山さんの顔を見たら、きゅうに気持ちが高ぶって、気がついたら彼が倒れてて・・・」

大川の顔は血の気が失せ、唇は心なしか震えているようにみえた。

まもなく救急車が到着し、間山は担架に乗せられて運ばれていった。

 刺された間山は幸い一命をとりとめ、一か月の重傷と診断された。

警察の取調べに対して、大川はなぜ間山を刺すにいたったか分らず、殺意など毛頭なかったと供述した。

彼女の頭は混乱し、要領を得ない説明に終始した。動機もはっきりせず、取調べは難航した。

事件は世間の注目を浴びることもなく、男女の些細なトラブルとしてすぐに忘れ去られた。


 土曜の午後、池永は香里の部屋で彼女の手料理を食べていた。

「あの事件、驚いたわ」

レモンティーのカップをテーブルに置いて香里が言った。

「本当にびっくりしたね」

池永が香里の眼を見て応えた。

「その後二人はどうなったの」

「大川さんは起訴されるようだよ。間山は入院中だ」

「どうしてこんなことになったのかしら」

香里はまったく見当がつかないといった表情で訊いた。

「僕もよく分らないんだ。オフィスであんなことがおこるとはね」

「二人はもともと付きあっていて、仲がよかたんじゃなかったの」

「そうなんだよな」

「それから、どういうわけかあっさり別れちゃったんでしょう」

「そうなんだ」

「でも、二人ともいい人が見つかって、わだかまりもなかったんじゃないの」

「そのはずなんだけど。大川さんは、間山の顔を見たとき、わけもなくむらむらと憎しみが湧いてきて、それに反応して身体が動いていたって、言うんだ。理由は彼女自身にも分らないって」

「おかしな話ね」

香里はますます腑に落ちない表情になった。

「考えられる理由はひとつだよ」

「えっ、なんなの」

「Lさ」

「まあ、そうなの。でもLは人の心を和ませるはずでしょう」

香里は眼を見開いて言った。

「そりゃそうなんだけど、別の効目もあるんじゃないか」

「別って」

「つまり、恋愛感情とは逆の憎しみの感情も生むんじゃないかと思うんだ」

「そうなんだ。でも、そんな話はあまり聞かないわね」

「だから怖いのさ。これからこんな事件がまたおこるんじゃないかと思ってね」

「まあ、怖い」

二人は見つめあい、そして黙り込んだ。


 「朋彦さん、朋彦さん」

誰かが池永の肩をゆすっていた。瞼に明るさがまし、池永の眼に香里の顔が映った。

「おはよう。どうしたの。なんだかうなされてたみたいよ」

「あ、そう、夢を見てたんだ」

池永は遠いところから還ってきたような眼をして言った。

「へー、どんな夢。私のこと」

「いや、それがへんな夢なんだ。ありえないような・・・」

彼が身を起こすと、灰色の空の下に広がる高層ビル群が眼にはいった。その風景が夢のなかの荒廃した風景と重なって見え、彼は一瞬、息を呑んだ。

「どうかしたの。大丈夫」

茫然と佇む彼の顔を覗きこんで、香里が訊いた。

「あ、うん、なんでもないよ」

池永は朝陽に照らされた美しい香里の顔を見て、微笑んで応えた。

 一夜の時間は池永と香里を別の生き物にした。二人には、夜明前の潤んだような心と体の絡みあいと、ひとつになる感覚がいつまでも続くように思えた。


 高台の小さな公園に人影はまばらだった。池永はバンコクへの一週間の出張を終え、帰国後初めての週末を香里と過ごしていた。

「どうだったの、バンコクは」

ベンチに並んで坐った香里が池永に強い視線を向けながら訊いた。

「いや、暑かったよ。日本は春だけどタイに春はないからね」

池永は疲れを癒すように、蕾をつけた桜の枝の間から、遠くに広がるマンションや家並みを見渡しながら応えた。

「仕事のほうは旨くいったの」

「うん、今度のプロジェクトは順調にいきそうだ。パートナーに選んだ相手はなかなかのものだったよ」

池永は視線を香里に戻して応えた。

「そう、よかったわね。それで、あっちのほうはどうだったの」

香里も池永の視線を捉えて訊いた。

「あっちって」

池永がとぼけて返した。

「夜のお話よ。どうせ、呑みに行ったんでしょう」

「えっ、ああ、そのパートナーの招待でね」

「どんなところ」

「うーん、どんなって、日本でいうクラブみたいなところさ」

「やっぱりそうなのね」

香里は口をとがらせて言った。

「別に僕が誘ったわけじゃないさ。相手が誘ってくれたんだから」

「それで、タイプの人はいたの」

「いないよ。だいたい向こうの女の子は肌が黒くて、僕の好みじゃないから興味ないさ」

そう言った池永の頭に、隣に坐ったホステスの顔が浮かんだ。

「まあ、本当かしら。いい子がいたりして」

「ところで、香里のほうはどうなんだ。なにかいい事あったのかい」

池永が切り返した。

「うふふ、いいことあったわよ」

香里は上目使いに池永を見た。

「どうしたんだい」

「このあいだ会社のちかくでランチしてたら、男性に声をかけられたの」

「えー、本当か、それでどうしたんだ」

「ごいっしょしていいですかって、言われて」

「それで、どうしたんだい」

「見たら、結構イケメンでいいスーツ着てたから、いっしょにご飯食べたわ」

香里は愉しげに応えた。

「それからどうしたんだ。それだけかい」

池永は焦って訊いた。

「こんど夕食でもいかがですかって、誘われたの」

「えー、それでどうしたんだ」

池永の声は大きくなっていた。

「断ったわ。だって、あまりにいきなりだから」

「そうなのか」

池永はほっとした様子をみせた。

「断って残念だったわ。でも名刺もらったの」

「まさか、こんど誘われたら行く気じゃないだろうな」

「どうしよっかなぁ」

香里はいたずらっぽく言った。

「ねえ、そんなことより、Lがなくたってきたわ。また買わなきゃ」

香里が言葉を継いだ。

「そうだな。そうだけど、まだ続けるのかい」

「ええ、続けたいわ。だって効果のほどもまだはっきり分らないでしょ」

「そう言えばそうだね。じゃ、また注文しよう」

向こうから鮮やかなブルーの服の幼児が走ってきた。二人の前を過ぎて彼はよろめき、バランスを崩し、両手をつく恰好で転んだ。

次の瞬間、香里が立ちあがり、幼児へ駈け寄り、両手で抱おこした。幼児は抱あげた香里の眼を見つめ、痛さを懸命にこらえて、泣くことはなかった。

香里もその子を優しさに満ちた眼で見ていた。池永も彼女が初めてみせたその視線に気づき、はっとした。

「大丈夫、気をつけないとだめよ」

やさしく言いながら、香里はその子の服についた枯草や土埃を手ではらった。

「あら、ごめんなさい」

幼児の母親が足早に近づいてきた。

「ああー、だめじゃない、マックちゃん。走ったらだめでしょう」

母親はしゃがんで幼児を抱きよせながら言った。

「可愛いお子さんですね」

香里が母親の顔を見て言った。

「ありがとうございます。この子、公園にくると興奮していつも走りだすんですよ」

母親は表情を崩して言った。

「アリガトウゴザイマス。マックヲタスケテクレテ」

男の声がした。

幼児の父親と思われる男が母親の傍らに立っていた。長身の白人だった。

「いいえ、なんでもありませんわ」

香里はかるく会釈して応えた。

マックは若い両親に手をひかれて去っていった。

「可愛いと思ったら、あの子混血なんだわ」

香里が笑顔を見せて言った。

「可愛いな。白人との間に生まれる子供は本当に可愛いね」

池永は三人の後姿を見送りながら言った。

「ところで、さっきはどうしたんだい」

彼は、香里へ向きなおって言葉を継いだ。

「えっ、どうしたって?」

香里は意味が分らず訊き返した。

「とっても優しい顔になってたよ。いつもとは違って」

「まあ、失礼しちゃうわ。私はいつも優しいんですけど」

「でも、香里のあんな顔見たの初めてだったよ」

池永は香里の顔をまじまじと見て言った。

「そう、そういえば転んだあの子を見て、なんだか無性に可愛くて助けてあげたいと思ったの。不思議な気持ちだったわ」

香里も池永に言われて初めて、これまでに経験したことのない自身の感情の動きに気づいた。

「綺麗な顔をしてたよ」

「そうなの、本当だったら嬉しいわ」

彼女は青空を見上げて、夢から醒めたように言った。


 仕事を終えた池永はオフィスを出て、メトロの半蔵門駅へ向かっていた。歩道は帰宅を急ぐ人びとの姿が目だった。信号が変わるのを待って、彼は横断歩道を渡りはじめた。歩行者側の青信号の時間は短く、彼が渡りきったところで点滅しはじめた。

何気なく振り返ると、横断歩道で一人の老婆が転んでいた。とっさに池永はとって返し老婆を抱きおこし、手を引いて歩道へ連れていった。

「大丈夫ですか」

小柄で七十を過ぎたと思える老婆は、池永の腕に?まりながら立っていた。

「ありがとうございます」

小さいながらしっかりとした声だった。

「お怪我はありませんか」

池永は心配顔で訊いた。

「はい、大丈夫です。信号が短いから焦ってしまって」

老婆は口許を綻ばせた。

「気をつけてくださいね。最近は運転マナーもわるいですから」

「本当にそうですね。これからもっと気をつけます」

老婆は丁寧にお辞儀をして去って行った。

 池永は半蔵門線に揺られながら、転んだ老婆を見て瞬間的に動いた身体のことを思い返していた。老婆を抱きおこした時、胸のうちから湧き上がってきたあの感情はなんだったのか。それは今までに味わったことのない優しさとも哀しさともつかぬ感情だった。

車両の暗い窓に映る自身の姿を見ていると、やがて香里の姿が重なって映った。

「そうだ、香里があの優しい表情をした時、同じように感じたのかもしれない」

彼はひとり呟いた。

 帰宅した彼はパソコンに向かい、L‐エクスピダイト百錠の追加注文をした。

この薬を呑みはじめてから、驚くほどの変化はないものの効果は徐徐にそして確実に現れていた。それは、異性に恋愛感情を抱くだけではないということが次第にあきらかになりつつあった。


〈さっきの経験したことのない不思議な感覚は、やはりL‐エクスピダイトの影響なんだろう。香里が公園でみせた女神のような笑みもL‐エクスピダイトなしでは考えられないことだ。

この薬の愛用者がみな同じような影響を受けるとしたら、世の中どうなるのだろうか。人びとが女神のように優しく慈愛に満ちた心を持つようになれば、世界は平和になるのだろうか。もしそうなれば、それはまさしく佛陀が説いた涅槃ではないのか〉


ベッドに横になったが、彼の想像は夜空の星のように果てしなく広がっていった。                       

寝つかれないまま時が経ち、空が白みはじめた。ベッドから立ちあがりカーテンを開けると、灰白色の空に抱かれた街はまだ眠りのなかにあった。昨夜から冴えたままの彼の意識は、透明な夜明の光ののなかに大きな変化の予兆を感じていた。


 欧州委員会がついにL‐エクスピダイトを承認した。アメリカに遅れること半年の承認だった。これをうけて、イギリス政府もまもなく承認する旨発表した。

日本においては、与野党ともに態度がはっきりせず、国会での議論も盛り上がらず、行政の動きも見られなかった。


 「アラブ連盟、L―エクスピダイト承認へ」

ある日、驚くべきニュースがアルジャジーラで放映された。

ニュースは、アラブ連盟が討議を重ねてきたL―エクスピダイトを間もなく承認する、と伝えていた。

彼はニュースの内容が信じられなかった。クルアーンの教えを守る厳格なイスラム教国が、このような医薬品を認めるなど考えられないことだった。


〈アメリカ、欧州に続いてイスラム圏においてもL―エクスピダイトが認められれば、世界はL―エクスピダイトに蔽い尽くされることになる。アラブ世界ではこの医薬品により、これまで抑圧されてきた人間の精神が、放たれた矢のように一気に解放され、ほかの文化圏より先鋭的に薬効が現れるかもしれない。そうなれば、いま世界で最も不安定な様相を呈しているアラブ諸国間の戦争や内乱が鎮静化するかもしれない。この医薬品が世界を変える魔法の役割を果たすかもしれない〉

 

 L―エクスピダイトは奇跡の秘薬として人びとに受け入れられ、もはやその普及の勢いは止まるところを知らなかった。

感知器官を欠き、世情の動きをまったく把握できない日本の政府与党はL―エクスピダイトの承認についての意志決定もできず、あいかわらず機能不全を露呈し続けた。


 アメリカではL―エクスピダイトはサプリメント感覚で普及していた。オフィスでも学校でも、オフィシャルでもプライベートでも、公園でもレストランでも、空港でも駅でも、美術館でもスポーツクラブでも、病院でも老人ホームでも、男と女は恋人感覚で接していた。                            

病院や老人ホームでも高齢者のカップルが誕生し、結婚にまで発展するケースがあいついでいた。

 レストランに脚を踏み入れた女性は、そこで最初に視線が合った男性と恋に落ちた。

 空港の国際線待合室に向かうムービング・ウオークで初めて出会った男女が一瞬のうちに惹かれあい、女性は急遽目的地を変え、男性とともに予定外の目的地へ飛び立った。

 ある日の朝刊に死亡記事がでた。それは、サンフランシスコの地下鉄の駅で意気投合した男女がホームで抱きあい、陶酔のうちにホームから転落し、入ってきた電車に轢かれ即死した、と伝えていた。

 また別の記事は、スポーツクラブで知り合ったカップルがプールで泳ぎながら抱きあい、そして絡みあいながらプールの底に沈み、再び浮きあがることはなかった、と伝えた。

 その後、病院で入院患者同士がベッドで行為におよんで男は急性心筋梗塞で死亡したケースも報告された。


 L―エクスピダイトの承認後一年が経ち、予想外の死亡事故があいつぎ、世論は再び沸騰した。このうえもない幸福感を味あう人がいる一方、不幸な死亡事故をおこすような医薬品の販売はすぐさま中止すべきだ、という意見が力を得たが、一旦下りた承認を撤回するわけにもいかずアメリカ政府も苦慮していた。


 ジャスミン革命と呼ばれるチュニジアの民主化運動に端をはっした中東の騒乱も、潮が引くように鎮静化していった。人びとは銃を捨て、祈りのためモスクへ集まり、またメッカへ巡礼に向かう信者が増えていた。

中東の専門家も頭をひねるアラブ世界の急転直下の変貌振りは、L―エクスピダイトの影響なくしては考えられないことだった。


 平和ムードが世界を蔽い、人びとは幸せそうな顔をして毎日をおくっていた。やがて彼らはなにが幸せでなにが不幸かを考えることもしなくなった。

        

 池永が勤めるサイバー・インパルスのオフィでも、一年前にここで刃物による傷害事件があったことを誰もが忘れしまうほど平穏な日日が続いていた。

「あっ、麗子ちゃん、このあいだ頼んだ資料できた」

デスクの近くを通り過ぎようとしたアシスタントの麗子に池永が声をかけた。

「あら、まだですよ。ちょっとここんとこ忙しくて」

麗子は可愛い笑顔をみせて言った。

「えっ、まだなのか」

「ええ、大丈夫ですよ。いまからやりますから」

そう言って彼女は去って行った。

以前は頼まれた仕事はその日のうちに片づけるのが暗黙の了解だったのに、最近は随分のんびりとしてきたものだ、と池永は思った。

仕事のペースも落ち、社内の雰囲気も弛緩していた。

弛緩しているのは社内だけではなかった。顧客からのクレームも減っていた。

顧客との交渉も以前のような激しいやり取りは姿を消していた。 


〈最近は人の心も随分と鷹揚になったもんだ。以前は小さな問題でもクレームに発展した。特に神経質な日本人は些細なことでもでも気にとめ問題にする。しかし、最近はそうしたこともめっきり減った〉


海外との商談も難なく進んだ。そればかりか、新しい案件の引合も次つぎと寄せられ、会社の業績も繰り返し上方修正された。

世界経済も足早に回復しつつあった。人びとのビジネスに対する考え方もエトスも変貌を遂げていた。


 〈タイへ出張してまとめたプロジェクトもその他の商談も妙にとんとん拍子に進んだが、あれも人の心が優しくなり、ビジネスの仕方も変わったからなのかもしれない〉                  


彼はようやく自身の仕事に成果をもたらした所以に気づいた。


〈ビジネスは競争だ。優しい心ではビジネスはできない。そうだとすれば、ビジネスがビジネスでなくなったということだ。競争がない日常とは、ビジネスがなくなった世界とは・・・〉


彼は自らの哲学的な問いに困惑した。


 国会でL―エクスピダイトについての議論が続けられていた。与野党ともにこの医薬品の使用についてのリーダーシップは微塵もみられず、眼を覆わんばかりの中身のない議論と言葉の応酬が続いた。

そのような状況のなかで、ロシアのL―エクスピダイトの承認が契機となった。ロシアがL―エクスピダイトを承認したというニュースが伝わると、国会は騒然となった。ロシアでさえあの医薬品を承認したのだから、というムードが議場を支配し、L―エクスピダイト支持派が一気に主導権を握った。

その後も反対派はL―エクスピダイトを国民の心を蝕み、国を滅ぼす悪魔の薬として忌避した。彼らは反対派の学者グループ、NGОや市民団体を組織し、一大キャンペーンを繰り広げた。それは国会に止まらず、反対派は街頭演説で声を張りあげたり、テレビの討論番組に出演して自説を喧伝した。


 「あんなものを服用していいはずがありません」

ニュースショーで杏森医科大学の斎藤教授は眉をつり上げて言葉を吐いた。

「具体的にはどの辺が問題なんでしょう」

司会の下弦が返した。

「すべてですよ、すべて。だいたい日本では成分も百パーセント分っていないし、どうしてああいう効果が表れるのかまったく解明されていない。そんなものを承認できるはずがないでしょう」

「そういうふうに聞きますと、すこし不安が残りますね」

下弦が眉をひそめて言った。

「すこしどころではありません。どだい、人の心を変えるなんて許

されることではないんだ。それは悪魔の所作だ!」

昂った気持を抑えきれず、斎藤教授は拳でテーブルをたたき、口から泡を飛ばして叫んだ。

「お気持は分りますが、教授、落着いてください」

斎藤教授の迫力に下弦は一瞬蒼ざめたが、気を取りなおして諫める言葉を返した。

「仰ることは分るんですが、ローマ教皇もL―エクスピダイトを認めたとうことですよね」

下弦はさらに言葉を継いだ。

「わたしゃクリスチャンでもなんでもないからよく分りませんな。ローマ教皇がなんと言ったが知らんが、あんな物を支持する輩は国賊だ」

そう言って、斎藤教授は下弦を睨みつけた。

「斎藤教授のご意見はよく分りました。つぎに賛成派の京阪大学の狩野教授のお話をお伺いしたいと思います。先生、ご専門の精神医学の見地からL―エクスピダイトについてどのようにお考えでしょうか」

下弦は「国賊」の意味がよく分らず、斎藤教授から眼をそらして話を狩野教授に向けた。

「L―エクスピダイトは素晴らしい薬です。人類への最高の福音です。キリストの再来、いやそれ以上のことと言っていいでしょう。なにしろ、これによって永遠のテーマと思われた平和と心の平穏を勝ちとることができるのですから」

狩野教授は虚空を見入り、陶然として言った。

「あの、失礼ですが、先生はクリスチャンでいらっしゃるんですか」

下弦が恐るおそる訊いた。

「はい、七歳のときに洗礼を受けました」

狩野教授は微笑んで応えた。

そのとき、狩野教授と斎藤教授の視線が合った。

「わたしゃクリスチャンの言うことなど信用せん」

斎藤教授は語気を強めて言った。

「まあ、ここはもうすこし狩野先生のお話をお伺いしましょう」

下弦が慌ててとりなした。

番組の資料に、狩野教授がクリスチャンとはどこにも記されておらず、下弦は当惑していた。

「この薬の薬効は想像を超えています。心に平静が訪れ、人びとはみな隣人のことを思い、助け合い、そして愛しあうのです。まさしくキリストやムハマンドが説いた救いの世界に手がとどくのです。これで人びとは神の国や桃源郷を得たも同然なのです。人びとにとってこれ以上の幸せがあるでしょうか。我々はまさに至福の時を迎

えようとしているのです」

狩野教授は言い終ると、感きわまって涙を流さんばかりに興奮し、顔は紅潮していた。

「そうですか、それで、この医薬品が承認されたとして私たちの生活はどう変わっていくんでしょうか」

「みなさんもうご承知のとおり、戦争は姿を消し、紛争もめっきり減りましたね。これから日常の生活も愛に満ちた神の国に近づいていくのです。一日も早い承認を願ってやみません」

狩野教授の充血した両眼には涙が溢れていた。


 一週間後、L―エクスピダイトは賛成多数で国会で承認され、間

もなく厚労省の認可が下りる見通しとなった。アメリカでの承認から二年が経っていた。


 新幹線の車窓には豊かな田園風景が映っていた。これから収穫を迎える緑の畑もすでに収穫を終えた黒褐色の畝も素晴らしい速度で次々と後ろへ流れ、消えていった。

果てしなく続く畑のなかに、置き忘れられたたように里山があった。しばらく経つとこんどは、こんもりとした鎮守の森に蔽われた小さな神社が視界に入ってきた。その一角は畑からも時間からも切り離されて、別世界の風情を湛えていた。

後方へ飛び去る風景を見やりながら、池永はこの旅行が決まるまでのことを思い返していた。


 「のんびりするのはいいんだけど、なにか物足りないわ。朋彦さんはそんなことない」

香里は和んだ表情で言った。

「そうだな、そういえばたしかに近頃、生活に緊張感がなくなったかな」

「そうそう、そうなのよ。旨く言えないけど、なにか生活に張りがないっていうか、何かが違うのよね」

「最近はビジネスの世界もすっかり牙がなくなったというか、皆大人しくなっちゃったな。丁丁発止もなくて、血をみる場面も滅多にないな」

池永は不満気に唇を結んだ。

「あら、血をみるほうがいいの」

香里が戸惑い気味に訊いた。

「うん、まあ、そんなこともないけど、場合によっては、ビジネスはのるかそるか、喰うか喰われるかの勝負だから面白いというところもあるんだ」

池永は窓の外に眼をやり、醒めた表情で言った。

「ふーん、そういうものなの」

香里は納得のいかない表情だった。

「ビジネスというのは本来血生臭いものなのさ。昨今はそれがなくなってきたみたいだな。」

「朋彦さん、なんだかつまらなそう」

「えっ、そんなふうにみえるかな」

「ねえ、旅行しない」

香里が眼を輝かせて言った。

「旅行?」

「ええ、刺激を求める旅よ」

「そうか、旅行か、久しぶりだな」

「ねえ、どこがいいかしら」

「香里はどこかいいアイディアはあるのかい」

「そうね、これから暑くなるから北国がいいかもね」

「北国・・・?」

「ええ、宮城とか岩手とか青森とか・・・」

「いいね、これからあっちは新緑の季節だし、いいんじゃないか」

「じゃ、決まりね。私が企画担当者よ。でも会社は大丈夫」

香里は心配顔で訊いた。

「二~三日なら問題ないよ。あっちは魚も美味いし、温泉もあるしね」

「うわー、楽しみー、早速日程決めて予約しなきゃ」

香里は表情を崩した。

「それじゃ、企画担当者さん、そっちのほうはしっかり頼みますよ」


 驀進する列車のなかで後方へ飛び去る景色を眺めていると、自身

が浸かっていた住み馴れた旧い世界となんの未練もなく訣別できるように、池永には思えた。


〈僕の住んでいた世界はなんだったんだろう。弱肉強食の密林のような世界。そこで生きていくことが自身の宿命のように思っていたのは、大いなる誤解だったのか。ひとつしかないと思われた選択肢は、実はひとつではなかったのか。過去の生活は幻想だったのか、それとも、今の時間が幻想なのか〉


彼にはもはや過去と現在の区別すらできなかった。


 列車は時速二百七十キロで田園を二分して突き進んでいた。

「どうしたの、眠ってたの」

窓際に坐った香里が言った。

「うん、あー、うつらうつらしていたみたいだ」

香里の声で池永はわれに返った。

「あら、いやだ、あんなに綺麗な景色が見られたのに」

香里は窓の外に眼をやりながら言った。

間もなく列車は青森に着き、二人は予約してあったレンタカーに

乗りこんだ。

「さあ、飛ばして行こうか」

池永がハンドルを握って言った。

「よーし、いけー」

香里も正面を見据え、人が変ったように叫び声をあげた。

アクセルを踏み込むと後輪がスリップし、車は一気にスピードを上

げた。 ツーシーターのオープン・スポーツカーは街中を通り抜け、

田園地帯へ入った。初夏の風が心地よく頬を撫でていた。人びとの

意志と営為を誇示すかのように見事に整備された畑が、国道の両脇

に広がっていた。

池永がさらにアクセルを踏みこむと、車は高原の畑を切裂くように

一直線に伸びた道を風のように疾走した。

次第に傾斜を増す道は幅がせまくなり、緩やかなカーブが続いた。やがて行く手に山脈が現れた。豊かに横たわる碧い山脈は稜線に白い雪を頂いていた。

車は聳え立つ嶺を目指すように疾駆した。香里は巻きこむ風に吹かれながらうっとりとした表情をみせていた。ハンドルを握る池永も風のなかで陶然としていた。

斜面を登りきった道は渓に向かって下り始めた。これまでの畑は姿を消し、道は緑の森に沈んでいった。いつしかエンジン音もタイヤの摩擦音も消え、車は緑に包まれた道を音もなく滑るように走っていた。

やがて周りの視界は消え去り、緑の空間に白い道が風に揺らめく帯のように伸びていた。車は上下に揺らめく帯に吸いついたように滑っていた。

利かない視界のなかで、池永は無言でハンドルを握り続けた。助手席で、香里も境界のない空間を見つめていた。

気がつくと、車は渓流沿いの道を走っていた。車上の二人は一瞬にして森の冷気に包まれた。岸辺には苔むした巨石と樹木が並び、木木の間から清流が見えた。狭まった道は渓流に沿って曲がりくねって伸びていた。

「まあ、綺麗な流れ」

香里が清流に眼をやって言った。

池永は清流の水音を耳にしながら、ハンドルを繰り返し左右一杯に切りながらカーブを抜けていった。

彼が疲れを覚えはじめた頃、森は消え、一挙に視界が開けた。眼前には豊かに水を湛えた湖が広がっていた。湖面は山の端から射し込む夕陽に照らされ、黄金に輝いていた。

「大きな湖だな」

池永は湖面を見ながら言った。

「ほんとう、広いわ」

香里はその美しさに心を奪われた。

湖の対岸は薄暮の空へ溶け込み、無限の広がりを見せていた。

傾いた陽を浴びながら、車は湖沿いの道を走り続けた。

陽が沈むと、湖面から昇った霧が辺りにたちこめ、瞬く間に視界を奪った。ヘッドライトの一条の光を頼りに、池永は眼を凝らしてひたすら走り続けた。

 

 やがて霧が晴れ視界が戻り、森に囲まれた建物が姿を現した。

「あっ、あれが予約した旅館だわ」

香里が建物を指さして言った。

池永はブレーキを踏み、車は静かに停まった。

二人はこじんまりとした和風旅館に脚を踏み入れた。客はすくなくなかは静かだった。チェックインを済ませ二階の部屋に入った。

部屋からは暮れなずむ茜色の空と、鏡のような湖面が見わたせた。

「美しい景色ね。なんだか不思議な気持だわ」

香里が外を見ながら言った。

「不思議って」

池永も湖を見ながら返した。

「ここは初めてなのに昔来たような気がするの」

空を見あげながら、香里は呟くように言った。

「そういえば、僕も以前ここに来たような気がするよ」

池永は彼女の横顔を見ながら言った。

紅色の光のなかに香里の顔が映えていた。

夕食には地元の筍の野菜や新鮮な川魚を巧みにあしらった料理がだされた。

「食事も美味しかったわ」

香里は和んだ表情で言った。

「そうだね。思ったよりいい料理だったね」

池永もほろ酔い加減で応えた。

「あの高原を走った時のスピードの快感、セクシーで素敵だったわ。あんな刺激最近ずっとなかったから」

「そうだな、僕もスリルを感じた」

「でも、ここに着いたらすっかり落ち着いた気分になったわ。やっぱり私って、こういうふうに平穏に過ごすことを求めているのかしら」

香里はうっとりとした表情で池永の顔を見つめた。

「そうだね、僕もさっき味わったスリルと、この静かな時間とどちらを求めているのか、分らなくなったよ」

池永も香里の顔を見つめ返した。

「ねえ、たしか昨日L、呑んだわよね」

「そうさ、呑んだよ」

「ねえ、今日も呑んでみない」

「・・・しかし、呑み過ぎになるよ」

「でも、私たち、もう二年近くも呑んでるのよ。それで、この頃はなんの変りもないし、このままでいいのかなって、逆に不安になっちゃうわ」

香里の眼は不安を訴えていた。

「そうだね。僕もこれからのことが分らなくて、不安といえば不安なんだ」

「世の中の人はどう思ってるのかしら。Lが承認されて、高齢者も服用し始めたでしょう、これからどうなるのかしら」

「そうだな。これからのことは、予想もつかないね。しかし、皆が用法や用量を守ってLを愛用しているとも思えないんだな」

「えっ、どうしてそう思うの」

「いろんな事件がおこっているだろう。急死する人もいるし。自殺騒ぎや殺人や傷害事件も増えている」

「そういえばそうね」

「事件をおこすような人が用法を守って服用しているとも思えないね。きっと過剰に呑んだり、乱用してると思うんだ」

池永の眼差しは真剣だった。

「そうね、そのとおりだと思う。ねえ、私たちももっと呑んでみましょうよ」

「本気かい」

「もちろん。だってこのままじゃなんの変化も進歩もないわ。せっかく手に入れた新しい世界をもっと広げたいの」

「そ、そうだね。僕ももっと先のレベルに行ければと思ってたんだ」

池永は香里の大胆さに戸惑っていた。

これもL―エクスピダイトが作用しているのか、と思った。

「じゃあ、今日は思い切って二錠呑んでみようか」

彼は自身の口から出た言葉に驚いた。

「ええ、そうしましょう」

香里は事もなげに言って、バッグからL―エクスピダイトのパッケージをとりだして池永に二錠渡し、自分も二錠口に含み、湯呑のお茶で呑みこんだ。


 柔らかい陽光を浴びて、池永は目醒めた。旅館での二日目の朝だ

った。傍らでは香里が気持よさそうに寝息をたてていた。

池永が起きあがりカーテンを開けると、透明な朝陽が射しこんできた。

「もう起きたの」

香里の気だるい声が聞こえた。

「ごめん、起こしちゃったかな」

池永が窓際で振り返って言った。

「ううん、もう起きないと。何時」

「もう八時だよ」

香里はゆっくりと起きあがり、池永に歩みより抱擁を求め、二人は抱きあった。

「昨日はよく眠れたわ。なんだかとってもいい気分」

そう言って彼女は伸びをしながら外の景色に眼をやった。

「今日は湖がよく見えるね」

「そうね、いいお天気。波もなくて静かね」

 朝食をとって、二人は散歩にでた。部屋から見えた渓流を辿っていくとやがて道は湖へ着いた。

「そうか、あの渓流はこの湖から流れ出ているんだ」

池永が煌く清流を見ながらいった。

「あら、そうだったの。私、川が湖に流れ込んでるのかと思ってたわ。逆だったのね。あらっ、人魚が泳いでるわ」

香里は湖面を指さして言った。

「えっ、どこ」

池永が訊き返した。

「ほらあそこ、青い人魚よ」

「どこに」

池永は香里が指さす方向へ眼を凝らした。

「ほら、あそこよ。青い鱗が光ってるわ。長い髪が風になびいてる」

彼がいくら眼を凝らしても、眼前にあるのは静かに広がる湖面だった。

香里はL―エクスピダイトのせいで幻覚が出始めたんだ、と彼は思った。

「あー、もう水のなかに潜っちゃたわ」

香里は人魚の存在を信じてるように残念そうに言った。

「ここって、いいところだね。空気もいいし景色も綺麗だし」

朝陽に照らされて、蜃気楼のように浮かび上がった対岸の森を眺めながら、池永が言った。

「私も気に入っちゃった。ねえ、ここにしばらくいたいわ」

「そうだね、それじゃここに二、三泊しようか」

「まあ、うれしい」

香里は笑顔で応えた。

 

 その夜、夕食後、卓袱台を挟んで二人は見つめあっていた。

「また呑むかい」

池永が訊いた。

「ええ、呑むわ。だってとってもいい気分だもの。景色もよけいに綺麗に見えるし、それに今朝みた人魚もLのせいかも知れないわ」

「人魚は僕には見えなかったから、Lのせいで香里にだけ見えたのさ。間違いないよ」

「そうね、もっと幻を見てみたいわ」

香里は静かに眼を閉じた。

その夜、二人は昨夜と同じようにL―エクスピダイトを二錠ずつ呑んで眠りについた。


 香里は湖に浮かぶ小舟に乗っていた。雲間から薄日が射していた。彼女はなぜ自分が湖面に浮かんでいるのかも分らず、自失して佇んでいた。

やがて彼女は舟が静かに動くのを感じた。眼を移した舳に、彼女は人魚の姿を見て息を呑んだ。

人魚は、凪のような湖面に白い航跡を残しながら悠然と舟を曳いていた。

「あなたはだれ」

不安に駆られた香里は人魚に呼びかけた。

「私はシノン、心配しないで私についてらっしゃい」

シノンの声が未知の歌のように香里の耳に響いた。

「どこへ連れてってくれるの」

香里は落着きをとり戻し訊いた。

「平和の国よ」

また美しい声が心地よく響いた。

「平和の国?」

「そうよ」

シノンが振り返って応えた。

長い黒髪、整った白い顔のなかで深紅の唇が妖しく動いていた。

「それはどんな国なの」

「そこは戦争もなく、争いも悩みもない理想郷よ」

「そこに人はいるの」

「そこに住む人びとは静かに、天空の天使のように生きているのよ」

「まあ、素敵、はやくその国へ行ってみたいわ」

香里は話を聞くうちにシノンに親しみを感じはじめた。

「もうすぐよ。スピードをだすから舟から落ちないようにしっかり?まって」

シノンが魚の尾ひれのような下半身を勢いよく翻すと、舟はするすると湖面を滑りはじめた。

やがて、どこからともなく霧が立ち昇り、周りの景色を白く染めあげ、まもなく視界は失われた。

気がつくと、シノンの姿も霧のなかに消えていた。舟はスピードを増し、練絹のような湖面を切裂いて突き進んだ。舳にあがったしぶきが香里の頬を濡らした。

「シノン!」


 香里は眼を醒ました。                   

「香里、どうしたんだい」

池永は声をあげた香里の肩に手をやって言った。

彼女は永い眠りから醒めたような眼で池永を見て、身を起こした。

「夢を見たの」

「どんな夢だい」

「それが、昨日見た人魚が平和の国へ連れてってくれるところだったの」

「それで、どうなったんだい」

「それが、急に霧がでてきて、その人魚も見えなくなったの・・・」

「そう、それは残念だったね」

「せっかく、もうすこしで平和の国へ行けると思ったのに」

香里の表情は哀しげだった。

「僕もこのあいだの夢で平和な世界を予感したんだけど、どうしたらそこへ行けるのか分らないんだ」

池永の眼は虚空を捉えていた。

その日、二人はまた午前中旅館の近くを散策し、部屋に戻ってきた。部屋に入ると気だるさを覚え、二人とも卓袱台を前に坐りこんでしまった。

「なんだか身体がだるいわ。でもいい気分よ。このままで平和の国へ行けたらいいのに」

香里は夢を見ているような眼で言った。

やがて陽は沈み、薄暮の空には宵の明星が煌いていた。

「そうだね。僕も行きたいけど、平和の国ってどこにあるんだろう」

沈んでいく意識を支えながら、池永は応えた。

「ねえ、温泉に入りましょうか」

香里がだるさに耐えながら言った。

「そうだね、温泉に入れば少しはしゃきっと、するかも知れないな」

部屋には露天風呂が設えてあり、いつでも入ることができた。

体を湯に浸けると暖気が骨の髄まで滲みていくように感じられた。東の空に昇った月から降りそそぐ冷たい光が湖面を照らし、幻想世界を創りだしていた。

心地よく湯に抱かれた池永が眼を閉じると、様ざまなことが頭に浮かんだー香里との出会、オフィスでの刃傷沙汰、なぜか荒廃し焦土と化した平原・・・。

そして、彼が不安のうちに、これからの事を考えはじめた瞬間、胸に熱い衝撃が走った。

「うっ」

彼は低い声をあげ、思わず手を胸に当てた。一瞬なにがおこったのか分らなかった。頸を曲げて自身の胸を見た彼は、信じられなかった。果物ナイフが左胸に深く突き刺さっていた。

「香里・・・」

彼は傍らにいた香里に顔を向け、そう言うのが精一杯だった。

「このまま死ねば平和の国へはやく行けるかも知れないと思ったの」

「・・・」

池永はなにか言おうとしたが声にならなかった。彼の顔は強ばり、唇は次第に紫色を帯びてきた。

香里の声が耳に響いたかと思ったが、体から潮が引くように意識は薄れはじめ、輝きを失った月が視界から消えていった。

「私もすぐ行くわ」

言い終わるや、香里は細い指でナイフを握りしめ、自身の胸にもそれを突き立てた。なんの躊躇いも恐怖もなかった。

「あっ」

短い声をあげ、力の抜けた香里の身体は湯の中に滑り込んだ。

乳房をわずかに逸れて刺さったナイフの傷口から、鮮血が赤い糸のように流れでて、湯を静かに染めていった。


            *


 瞼に明るさが満ちてきた。深い湖底から浮かび上がるように、池永は覚醒した。自分の居場所が分らなかった。次の瞬間、胸に激痛を覚え、右手で胸を押えた。

「まあ、どうしたの。夢でも見たの」

眼の前に優しく微笑む香里の顔があった。

「ここは・・・」

「安心して、私の部屋よ。憶えてないの」

「そうだったのか」

彼はまだ自身の記憶を辿ることができなかった。

「どうしてここに」

「いやだわ。私に言わせるの。昨日の夜、私が誘って初めてきてくれたのよ」

「昨日の夜?」

「そうよ、私も朋彦さんもちょっと酔ってたみたい」

香里は照れた笑顔をみせた。

「だけどLはどうしたんだ。昨日の夜も呑んだのかな」

「Lってなんのこと。いやだ、まだ寝ぼけてるの。いま朝ご飯をつくるかちょっと待ってね」

香里はこのうえなく愉しそうにキッチンへ向かった。

池永が眼をやった窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。

                           (了)





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