人間合格
小学生のときのこと。漂流教室が参考になるかどうかは分からないが、実際異世界に飛ばされるなんてことがあったとしたら早く順応するのは子供だろう。転校するにしても、小学校ならそう被害は大きくないと思う。一番面倒なのは中学校の頃だ、自意識過剰。高校になると転校生の価値が色褪せる。ぼくは最近覚えたムラ社会ということばを連想する。排他性というのは他を排除しようとする性質ではなく、二律背反のようなものらしい。小学校のときは何だかんだで他人への優しさというものがあった。それは感覚的なものだ。親に教えられた盲目的なものかもしれない。それが年を経るにつれ、感覚的なものが失われて経験則に変わっていく。
あ――だからぼくは子供だった、どれだけ背伸びしても団栗の背比べだった。
「遅せえよ」
軽く押しのけられるのはぼくではなくてクラスメイトの一人。押したのは暴君と名高い雨宮響。
「雨宮くん」
「こいつが遅いのが悪りぃんだって」
「だからって人を押しちゃダメでしょ」
「へーい」
注意するのは女の先生、新任らしい。初々しいことを嗤うという感性は当時のぼくにはなかった。
その先生率いるぼくらのクラスは学年一大人しいという評判(雨宮を除く)、独り五月蝿いのは雨宮響。ヘイトが一人に向けられる構造だった。
雨宮響は孤立していた。友達はクラス替えによっていなくなった。新任の先生、それも女というのは年食ってない限り甘いというのが定番である。友達がいないというのはストレスが溜まりやすいというのは勿論のこと、ストッパーがいないということも意味する。
雨宮響は年相応に幼かったから、ものの善悪は理解していても堪えるという能力に欠けていた。キレやすい性格だった。止める人間というのは学級委員になるような、真面目な女子。正論というのは暴論の前には無力だと思う。火に油を注ぐようなことも多い。
兎に角状況は雨宮響を追いつめていた。
「うるせえな、そんなことどうでもいいだろ!」
「どうでもよくないよ……ちゃんとやらなきゃ」
「うるせえって言ってるだろ!」
負のスパイラルが起こっていた。それでも決定的な事態にならないのは新任女先生に代表されるクラスの雰囲気がなあなあだったからだ。雨宮響が暴君足り得るのはそれ以外に突出した人物がいないからである。
さて、転校生のぼくがやって来た。
「硯拓です、宜しくお願いします」
ぼくは最初大人しかったがじわじわと友達の輪を広げていった。雨宮響にとってマイナスな影響ではあったが僅かなものであるため、さして問題にはならなかった。時間が経つ、僕は優等生で雨宮響は不良。そういうイメージが形成された頃だった。
合唱コンクールという行事だったか?
「おい、歌ってんのか?」
「歌ってるよ。雨宮君こそ、音程がずれてない?」
「はぁ? どこがだ」
「いやだから、えーとこのページの、ここ。アーアー↘って歌ってると思うけどアーアーdecrescendo↓だと」
「違わねぇだろ」
「いや違うって」
多分切っ掛けはこんな感じ。それでぼくは雨宮響に怒られた。これはそれなりの反発を呼んだ。合唱コンクールを真面目にやれと呼びかける雨宮響、他ならぬ雨宮響が合唱コンクールに対する助言を蹴ったのだから。不幸なことに、ぼくは悪知恵が働いた。
「呼びかけるだけでいいんだって。皆雨宮君を恐れ過ぎ」
「更生させるってことだよ」
「別に暴力を振るう訳じゃないでしょ?」
ぼくは正義を用意した。それで簡単ころりと皆僕の味方だ。道徳の授業を受けてその内容が矛盾をはらんでいることに気付けないようなお年頃なのだから仕方がないが、こういうのはお約束としてエスカレートする。その最終形は? いじめ。
ぼくが失笑するまいと耐えながら転校するというその時、雨宮響の顔を見て、その冷たさに震える。笑いは後悔へと変わり、絶望の種が撒かれ、心にひびが入る。
自業自得。罪は償えないから罪であると理解する……
道徳の与える恩恵は、 時間と労力の節約である。道徳の与える損害は、 完全なる良心の麻痺である。
芥川龍之介