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陽はまた昇る

 啖呵を切ったふたりを、羽沼は視線でなじりながら歪んだ笑みを浮かべる。アザミは刀を銃に持ち替えているが、大吾は相変わらず敵から奪った薙刀で死地をかいくぐって来たらしい。


 だが、そんな手練れのふたりを前にしても羽沼は何ひとつ怖気づくことなく、笑顔という字面とはかけ離れた悲壮感の塊のような表情を浮かべる。口元がひきつり痙攣するかのようにぴくぴくと動いており、瞳は流す涙さえ涸れ果ててひび割れているようにさえ見える。


「色町で遊女の遊びの邪魔立てをするとは……、物好きな奴もいたものね」

「趣味の悪い座敷なら、金置いてでもお断りするのが遊び人の作法さ」


 カンカンカン、半鐘が撃ち鳴らされた。


 羽沼は乾ききった瞳をギンと見開き、驚きと怒りを露わにする。

 籠女をすべて燃やし尽くそうとする大火が起きているのだ。半鐘が鳴るのも当然のこと。だが、唯一の出入り口である橋も破壊し、中に残るものは遊女から客までひとり残らず仙丹の餌食にしたはず。そんな状況下で火事という非常事態を認識し、鐘を打ち鳴らすような人物が存在するとでも言うのか。混乱する羽沼は、青筋を立てて息を荒くする。


「てめーと心中するなど誰も望んじゃいねえよ」


 半鐘を鳴らした主は、大吾の女遊び仲間である伊八と鍛冶屋の兵五郎だ。伊八は籠女の見えるすぐ近くに住んでおり、大吾の火消仲間と兵五郎にこの大火を知らせたのだ。さらに橋のなくなった籠目に縄と滑車で橋をつくり、数人の火消とともにこの燃え盛る孤島にやってきたらしい。それだけにとどまらず、仕事が早いことで有名な大吾の火消組は、人力の汲み上げ機を積んだ車を使い、消火活動まで始めた。水源は籠女を囲う堀の水。火事の多い冬場は、籠女の堀の水を消化に使うことは珍しくなかったため、尋常ならざる早さで消火に取り掛かることができたのだ。


「火……火が消えていく……。こんな汚れた町を守ると? 笑わせるな!この町は、私からすべてを奪ったのだぞ!」

「もう、いいだろ? 羽沼。これ以上、陽にそんな姿見せないでやってくれ」

「うるさい! お前に何が分かる!」


 そして、追い詰められて逆上した彼女は次の瞬間最も母親としてあるまじき行動に出る。

 なんと自分の息子である陽を腕で羽交い絞めにし、こめかみに懐から取り出した銃の銃口を突き付けたのだ。


「羽沼ぁ、自分が何をやっているのか、分かっているのか!」


 もはや人間性さえ怪しくなってしまうほど落ちぶれた羽沼の行動に、大吾の声には呆れと怒りが入り混じる。

 だが羽沼は、暖簾に腕押しのごとく全く動じない。もはや自分の行動に対して罪悪感を感じることすらできなくなってしまったのか。


「まだ、まだ火は燃えている! まだ、あたしを止めることなどできやしない!」

「大吾、アザミねーちゃん、母ちゃんを止めてくれ!」


 陽が声を上げるとまさに引き金に手をかけてちゃきりと音をさせ、頭を貫くぞと脅したてる。

 自分の息子だというのに、どうせ心中するつもりなら息子と自分の命の順序は選ばなくてもいいとでも考えているのか。


 男嫌いで身ごもった経験などないアザミでも、同じ女性として子供に愛情を注ぐことすらできない羽沼に憤りを感じずにはいられない。思わず怒りのままに銃口を向けてしまう。


「撃てるものなら撃ってみなさいよ。あなたにこの子から母親を奪う覚悟があるのならね。――引き金を引けば、おまえもあたしと同等よ」


 羽沼の揺さぶりに乗せられ、アザミの人差指は引き金にかかるちょうど一歩手前で止まってしまう。それを見越した上で羽沼は、自分の息子である陽を人質に取ったのだ。


「あたしの苦しみなどわかるものか。好いた男も奪われ、飼い殺しにされた屈辱を晴らすために、あの生糞坊主に身体を売ったんだ。――今さら救いなどありがた迷惑なんだよ! あたしより恵まれてるくせに同情など仕向けるなっ!」


 何度救いの手を差し伸べようと羽沼はそれを拒む。どんな光でさえ、彼女の重たい鉛色の曇天を晴らすことはできやしない。たとえ息子の陽であっても。

 増してや、赤の他人であるアザミや大吾には、羽沼を救い上げる言葉など毛頭見つかりやしない。何度言葉をかけようとそこにいるのは、首つり台から降りずに、必死に自分の首を縄にかけようとする哀れな女だ。


(どうすればいい? どうすれば彼女を救うことができる?)


 焦りは羽沼が陽を撃ち殺すという最悪の事態までのカウントダウンを刻み始め、思考を堂々巡りの迷宮に誘い込んでパニックを起こさせる。答えなど出るはずもなく、アザミの人差指は引き金の一歩手前でガタガタと力なく震えていた。



「迷うことなどないさ。私が救いを授けよう」


 行き止まりばかりの迷路に、突如として答えは与えられた。その憎たらしい低い声とともに。

 そこにあった答えはアザミも大吾も望んでいない。まさに曇天から雷雨になったような救いのない答えだった。雷鳴とともに衝撃がふたりに走る。


 羽沼は背後を刀で切り裂かれたのだ。


「か、母ちゃん! 母ちゃん!」


 降りしきる雨に打たれながら、陽が揺さぶり問いかけるも、羽沼が起き上がる様子はない。それどころかまぶたを閉じたまま一向に開こうとしない。


「なんだ、その顔は? せっかく答えを授けてやったのに。不服か?」


 必死に、必死に息子を巻き込んで心中しようとしていた哀れな母親を救おうとしていた。


 陽が母と笑って手をつなげる様な、そんな淡い未来を心に描いて救おうとしていた。必死に、本当に必死に……。


「羽沼に抗い続けていたなら、このガキは殺されていたろうに。私の出した答えを解せぬとは、頭の悪い愚者もいたものだ」


 なのに、なのに。

 それは全て踏みにじられた。


 答えを授けただと? 違う。


 陽が涙を浮かべて母親の屍に縋り付く。


 違う。こんな答えは望んでいない。――こんな答えなど誰も望んでいない。



「それともその手で羽沼を殺し、母親殺しの汚名を背負いたかったか? どうせ救いなど見つかりもしないくせに、私の答えに不服を申し立てる。思い上がりも甚だしいわ。それに、始めから騙し利用するつもりで私に股を開いたんだ……、首と胴がつながっているだけ、情けとでも思わんかね?」


 それを踏みにじってなお、情けとのたまう。


 あまりにもの理不尽な言葉。肩が震え、骨がきしむ。

 歯がガタガタと鳴らされて、全身を修羅の血が脈打つ。息が上がり、青筋が額に走る。

 ついには、地面を勢いよく蹴ってその憎たらしい面に向かって、刃を突き立てる。


「こ……の……、生糞坊主がぁあああああああっ!」


 怒りにわなわなと震えるアザミの刀。それを払い返す愛染。


「修羅に身を落としたか? 呆れた愚者だ。私の説法が理解できぬと?」


 吹き飛ばされ、地面に転がされるアザミ。その無様な姿を笑う愛染。


「アザミ!」


 大吾がアザミのもとに駆け寄ろうとしたところ、音もなく愛染は大吾の後ろを取る。振り向こうとしたときには背中から血がほとばしり、その場に崩れることを余儀なくされる。


「畜生界に堕ちるがいい」


 止めを刺そうと愛染が刀を振りあげる。大吾に斬撃が振り下ろされようとしたその瞬間、愛染のふくらはぎをアザミの刀が貫いた。


「け……は、――まえだけは、……お前だけは……」


 自分が救おうとしてきた全てを踏みにじられた怒り。

 救おうとしていたことさえ愚者の迷いと見下される悲しさ。

 目の前で動くことすら叶わなくなってしまった羽沼に対する無念さ。

 自分に対する不甲斐なさ。


 複雑な感情は全て愛染への憎しみへと姿を変え、端整だったアザミの顔だちを、目をあてることすらはばかられる様な、般若の形相へと変化させていく。


「おま――お前……、お前だけはぁああああああああっ!」


 張りつめた緊張の糸は、銃声により断ち切られた。


 撃ったのは、最後の命の灯火を燃やして引き金を引いた羽沼だった。


「駄目だよ。陽が――、陽が見てる」


 急所の左胸を貫かれ、愛染はひざを折って倒れ込む。


「だから、そんな怖い顔したらだ……め……」


 今にも消えそうな声で途切れ途切れになりながら羽沼は続ける。もはや口を動かすことすら、彼女の秒読みの命を削っているというのに。


「あたしと同じ顔だった……。憎しみに囚われた鬼の顔」


 瀕死の羽沼の言葉にアザミは思わずハッとなり、自らが浮かべていた般若の形相に気づかされる。それが自分が羽沼から必死に引き剥がそうとしていた、憎悪にまみれた浅ましい表情であった事を。

 それを気づかせてくれたのは、自分が救おうとしていた羽沼本人であった。


「か、母ちゃん! もうしゃべるな!」


 かろうじて生きている母の命を少しでも長引かせんと、陽は必死に羽沼の口をふさごうとする。


「いいの。もう、あたしは……、あなたの母親になんかなれそうにないから。この炎が消えないうちに、あたしを捨てて。母親になれなかったあたしの……、ことな……んか忘れていいから……さ。ほら――、はやくっ」



 だが、そんな陽の気遣いも虚しく、羽沼は自分を火の中に捨てろと言うのだった。


「な、何言ってんだよ!」

「は、早くしないと。――火が、消えちゃうよ……」


「――捨てるもんか! 捨てたりなんか、母ちゃんを捨てたりなんかしないっ!」

「それが聞けただけでいいさ。あたしはもう歩けない。明日には死んでいる身さ。……だったら、あたしはここで。あなたの母親になれずに死にたいのさ。それが……、あなたを……、心中のための首つり縄にしようとした、せめてもの罰さね」



「構うもんか! 母ちゃんは何したって、どんな悪いことしたって、――俺の……、俺の、たったひとりの母ちゃんなんだよっ!」



 羽沼の必死の願いはとうとう受け入れられることはなかった。

 もはや死ぬ間際の最後の頼みだと言うのに、とんだ聞かん坊だ。


「聞いたかよ、たとえ遺言でも母ちゃんを捨てるのは嫌だとよ」


 羽沼の身体が持ち上げられる。

 大吾は傷だらけで少しでも触れれば悲鳴を上げてしまいそうなその腕で、羽沼の身体を抱き上げる。そこにアザミも加わり、羽沼はふたりの背中に覆いかぶさるようにして、身体を持ち上げられた。アザミも、大吾も息も絶え絶えになりながら。

 なおも羽沼を背負って足を一歩、また一歩と歩み進めていく。


「……」


 一歩。また一歩。


 この深く籠女の奥に鎮座するやぐらからどこに行こうというのか。

 ぼろぼろになってしまったその身体で、大人ひとりを背負ってどこに行くと言うのだろうか。


「……、ば……か……。ばか……」


 後ろを振り返ることもなく、ただただ無心に歩いていくふたり。羽沼は乾ききったその瞳から大粒の涙をこぼし始めた。分からずやだ。なんど自分を捨てて行ってくれと希っても、このふたりは聞き入れてくれない。


 必死に必死に自分を背負って歩いていく。


「もう少しだよ、もう少しだから。母ちゃん」


 陽もアザミの肩に回された羽沼の右手を強く握りしめながら、やや背伸びがちになりながらも、歩いていく。


「な……で……なんで……。あたしの……、ためなんかに……」


 やぐらの城壁をくぐり、雨の降りしきる焼野原となった色町の亡き骸を抜けて、涸れた堀の底へと降りる。羽沼の自責の言葉には耳も貸さず、この籠女の外の世界へとただただ歩いていく。雨足はやがて弱まり、ちょうど涸れた堀から溝さらい用の階段を上りきったところで、晴れ間に変わった。

 もう西に傾いて沈もうかという太陽であったが、それでも羽沼にとっては籠女の外で見た初めての太陽であった。


「夢だったんだ。母ちゃん。こうして、母ちゃんと手をつなぎながら、町を歩くのが、ずっと夢だったんだ」


 太陽は羽沼に向かい、にっこりと笑いかける。

 それを見て羽沼は初めて、見る者に安堵を与える安らかな微笑みを浮かべた。



「――がとう……。ありがとう……」



 冷たい曇天を切り裂いて、羽沼の心の中に陽はまた昇った。



 

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