8.悠希 〜望
5階へあがる階段の途中に腰を下ろして、望が出て来るのを待った。
何度も何度も時計を見た。
ちっとも進まない時計の針に、壊れてしまったんじゃないかと時計に耳を当てた。
ものすごいスピードで波打つ俺の心臓の音にかき消されてしまうのではないかと思うほど、小さな音をゆっくりと刻んでいた。
膝の上に乗せた腕にはめられた時計に耳をつけたままそっと呼吸をする。
時を刻む音と俺の命を刻む音が次第に一つになっていく気がした。
なんとなく落ち着く。
あれからどれくらい経ったのだろう、408号室のドアが開くとグレーのブレザー姿の望が出て来た。
ここからでは、顔の確認は出来ない。
まあ、顔を見たところで、本人と確認できるかは問題だが、でも、望に間違いない。
小学校2年当時、望には兄弟がいなかった、もし、あの後できたとしても、まだ小学生かそれよりも小さいはずだ。
彼が望に間違いない。
すばやく望の後を追った。
ある家の前で望は立ち止まる。
この家の人と学校に行くのだろうか? 相手は? 女の子、それとも男?
どっちにしろ、すごく不安になる。
恋人がいるのだろうか?
今まで予想だにしなかったことが頭をよぎり、漬物石でも飲み込んだ気分になった。
「ゆうこちゃん」
俺のいる位置から、やっと聞こえるぐらいの声がする。
―ゆうこちゃん?
あいつの言葉を反芻してみる。
お・ん・な
そのとき、息を切らして望の胸に飛び込んできたのは、ブルドックだった。
犬の勢いに倒れそうになりながらも、かろうじてバランスを保った望は、めちゃくちゃうれしそうな顔をしてその犬の頭や体中を撫で回した。
犬、好きなんだ。
そう言えば、子供の頃ふたりで子犬を拾ってきて怒られたことがあったっけ……変わってねえなぁー。
ほっとした。
俺も犬になりたい!
でも、ブルドックは遠慮しときたい、どっちかっていったら、トイプードルやチワワのように女の子受けするやつがいい、うっ、俺って変態?
駅のホームで、望はぼーっと上を見上げている。
俺も望の眺めている景色が気になって、少し離れたホームの端で上を見上げた。
そこには、ホームの屋根と屋根の間越しに、電線で五線譜を引いたような細長い青空が広がっていた。 鳩でもとまっていればそれはおたまじゃくし、完璧だね。
反対のホームに電車が入って来ると、望はその電車を見ていた。
あいつ、今の生活に満足してないのかな? なんだか、そんな気がした。
そのとき、轟音を立てて望の前に電車が入ってきた。
急いで俺は、望の並んでいた列の後ろについた。
電車に乗り込むときは必死で忘れていたが、気付くと望は目の前にいる。
俺の心臓はまるでドリブルでも始めたように、暴れだした。
今目の前にいるのは、本来は俺の身体だったはずで……
なのに、なんで? なんで、こんなに緊張するのだろう。
俺は大きく深呼吸をしてしまってから、あわてて口を手で押えた。
やべー! これじゃぁ、いつも俺が迷惑をこうむっている変態おやじと一緒じゃねえか。
電車が大きく揺れ、誰かが俺の足を踏んだ。
「いてっ」
小さな悲鳴が、俺の口から漏れるのと同時に、声がした。
「あっ、すみません」
身動きの取れない車内で耳に届いたその声は、望!?
かすかに向けられた横顔がそこにある。
「い、いえ」
俺は白いトレーナーを着て来たことを後悔していた。
尾行するには、ちーとばかりめだちすぎるんでねえの?