16.悠希 2 〜浴衣
「母さん! 浴衣!」
玄関を開けてくれた母さんの顔を見るなり叫んだ。
「何よ、帰ってくるなり」
「去年、花火大会にって、買ってくれたやつあるよね」
「こんなの着ないって、袖も通してくれなかったじゃない」
「明日、着るから出してよ」
「仮装大会でもやるの?」
「ひでえなあ、お祭りだよ、お祭り」
「お祭りには少し早いでしょ」
「日枝神社のだよ」
「日枝神社って……ああ、昔住んでいたところの?」
「そう」
「そう言えば今頃だったわねぇ。 でも、どうしてまた?」
「望と約束したんだ」
「のぞむって……」
「弘前望」
「あの望ちゃん?」
「そうだよ」
「あの頃はとっても可愛かったから、今はさぞやかっこよくなっているんでしょうね。 会いたいわねえ……でも、なぜ望ちゃんと?」
「ばったり会ってさ、今度、お祭りだからいっしょに行こうって」
「えっ、望ちゃんが誘ったの? あの、おとなしい望ちゃんが、変われば変わるものね。 変わんないのは悠希だけじゃないの」
「あいつも変わってねえよ」
「そう? だって、悠希をデートに誘ったんでしょ」
「デートってわけじゃないし」
「なんだ、デートじゃないの。 あっ、悠希が誘ったのね」
「ちっ、違うよ」
「はいはい、そういうことにしておきます」
「ほんとうだよ、望の方が言い出したんだから」
母さんに浴衣の着付けを教わる代わりに、夕食の後片付けを手伝わされた。
部活や勉強にかこつけて、今まで母さんの手伝いをしたことがなかった。
食器を洗っている俺の隣で鼻歌なじりに片付けをしている母さんの顔が、うれしそうに見えた。
母さん、毎日こんなこと一人でしてたんだ。
「ありがとう」
不意に言葉がついて出た。
「えっ?」
「いつもありがとう、って言ったの」
照れくささの為に洗物から目をはなさなかった。
「どういたしまして」
自然に聞こえる母さんの言葉。
皿が母さんの手の中で、かすかな音をたてた。
食事の片づけが終わり、母さんから着付けを教わる番になった。
いざ浴衣を着る段になって、やっぱり気恥ずかしさにしり込みした。
えい! 武士に二言は無い、俺は男だ!
しっかりと折り目の付いた浴衣に袖を通す。
難しそうに思えた帯も結んでみると、意外に簡単だ。
「昔の人は着物の下に下着を付けなかったのよ」
「パンツはかねぇの? ありえねえ!」
「だから着物の裾がはだけないように内股でおしとやかに歩くんですって。 悠希もやってみたら、少しは女らしくなるかもよ」
「ぐぇ、遠慮」
「悠希に女らしさなんて求めないから安心して。 悠希は悠希でいいの」
父さんが女らしくしろと怒る時、「悠希は悠希」母さんはいつもそう言ってくれる。
望が悠希として生まれていたなら、きっと、父さんの望むような可愛い女の子になっていたのだろう。
望と会わなくなってから、俺は制服以外女の子らしいものを身につけなくなった。
望を
この身体が女である事を忘れる為に……
だから浴衣なんて、小学校二年の時、望と初めて二人きりで行ったお祭り以来だ。
「似合う・か・なぁ?」
「いいじゃない」
黒地に花柄の昔からありそうな浴衣だった。
可愛い系のこの顔には、奇抜な柄や粋な柄は似合いそうもない。
「本当は、ピンクの可愛いのがあったのよ。 わたしはそっちの方がよかったけれど、それだと悠希が絶対着てくれないと思って」
確かに母さんの選択は、間違っていない。
ピンクも似合うとは思うが、俺には着られない。
自分が男だという自覚がある俺には、この無難な浴衣が精一杯だ。
浴衣姿の俺は、洗面台の鏡の前に立った。
眼を閉じたまま。
瞼を開けるのが怖い。
普段、俺はあまり鏡を見ない。
鏡の前で髪をとかしても、それは、髪型を整えるためだけであって顔までは見ていない。
無意識のうちに鏡を避けていたのは、望を忘れようとしていたのかもしれない。
どんどん美しくなっていく姿に、虚しくなってくるからだ。
鏡の前で眼を開けた俺は、一瞬で鏡に映った姿に心を奪われた。
可愛い。
身体を反転させたると、いままで止まっていた息を思い出したように吸い込んだ。
鏡に映った自分の姿に見とれているようじゃ、まるで鏡に求愛する小鳥のようだ。
鏡の前の自分にどんなに恋焦がれてもどうしようもない。
これは俺、望だけど俺だ。
生まれてくる前、俺はなぜすぐに本来入るべき自分の身体の中に入らなかったのかと無性に腹が立つ。
そうしていれば、こんなややこしいことにはならなかった。
だけど、この身体もこれからどうなるのかからない。
もし、死ぬようなことがあったとしても、俺は望の代わりに死ねて本望だ。
そうだ、その為に入れ換わったのかもしれない。
えっ?
「悠希ちゃんが、浴衣を着てくれるなんて……」
いつの間にか母さんがドアの影から覗きながら、涙を拭うのが目に入った。
なんか、俺もジーンときた。
病名が告げられた後、俺の前では病気の事を口にはしないけど、心配なのだ。
これから検査のための手術も控えている。
「やっぱり、悠希には望ちゃんが、一番なのかしらねぇ」
「なんだよ、それ」
「引越すまでいつも言っていたでしょ、望ちゃんをお嫁さんにするって。 いくらみんなが、悠希ちゃんがお嫁さんになるんでしょって言っても頑として聞かなくって」
「それは……」
「私もその方があっていると思うわ。 悠希が良いお嫁さんになれるとも思わないし」
「なんだよそれ」
「それにしても、望ちゃんの威力は凄いわね。 悠希に、あれほど嫌がっていた浴衣を着せてしまうのだから。 そう言えば、前にもそんなことがあったわね」
幼い頃、母さんが買ってくれたピンクの浴衣を着るのがいやで、駄々をこねた。
『悠希ちゃんに似合うと思うよ、ぼくが着たいぐらいだよ』
そう望に言われ、俺はピンクの浴衣に袖を通したのだった。
それが、初めて二人きりでお祭りに行った日。
そして、分かれの日になった。