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第四話

 ……朦朧とした意識の中、もう少しでブラックアウトって時に私は異様な光景を見る。

 『なんだろう…あれは?』

 ひたすら真っ黒な川の中からでも色が認識できるほど真っ赤な集団が猛然と迫り寄ってきて、最初、赤い靄のようなものだったが近くまで来ると正体が分かる。

金魚だった。

おびただしいほどの無数の金魚の群れ。

 

 夢を見てるのだろうか?それとも、とうとう酸素が無くなって幻覚が見えてきたのか?

 その赤い群れは一団となって私を取り囲む、まるで共通の意思があるかのように。

 やがて、完全に包まれた私はさながら胎盤に繋がれた胎児のようだ。ふわふわの赤いベッドで眠る私。不思議と恐怖は無い。むしろ、奇妙な安心感があった。


 そんな状況の中で最後に脳裏に浮かんだのは、夏目漱石の小説で溺れ死んだ猫だった。なんとなく今ならあの猫の気持ちが理解できる気がする。小説の一節が頭に浮かび、そこで私は意識を完全に手放した。


 《次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支えはない。ただ楽である。否、楽そのものすらも感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。》 



 ――ところが私に太平はまだ早かったようで。



 ……遠くから鳴り響くサイレンの音で気がつくと、周りもなんだか騒がしい。

 水を吸って重くなった浴衣の裾を引きずり、さらに重い自分の体をなんとか起こす。近くにコンクリの柱があったので背をもたれ息をつく。

 おそらく、意識が無くなってからすぐに誰かが助けてくれたのだろう、こうして動けるのだから。

 

 私は辺りを見回してその人物を探す…がそのような人は見当たらない。みんな野次馬だろう、遠巻きに見ているだけだ。じゃあ誰が…?


 ふと、川を見返すと私のすぐ近くに白い金魚が一匹佇んでいる。アルビノだろう、目は深紅だが鱗は眩しいほどに白く、やや黄金色を帯びていた。なんだか神々しいので見とれていると、気づいたのか泳いで去ってしまった。

 金魚!まさか…と思う。あれは夢では無かったのだろうか?

 だが現に今、白い金魚を一匹見た。

 川に金魚が泳いでるなんて聞いたこともない。もしかしたら私が知らないだけでそういう金魚もいるのかもしれないが、だとしても人に群れるだろうか?


私が思案していると、人混みをかき分けて晴太が駆け寄ってくる。その後ろには救急隊員もいた。

 「命子!気づいたのか!?良かった……。今、救急車も着いたから担架に乗せてもらおう」

 晴太もずぶ濡れだ、その様子から彼が助けてくれたのだとようやく分かる。

 でも、あんなに酔って眠りこけていたのにどうやって私に気づいたのだろう?愛の力かな?

 「もう平気、それよりなんで見つけられたの?溺れてすぐに助けてくれたんだよね?」

 「いや、そんなことよりまず病院に行こう。何があるか分からないから」

 晴太は若干涙ぐんでいる。そりゃそうか、と思う。私は死にかけた訳だし。

 しかしあの赤い魚群を見たときになぜか私は死なないと直感し、それは実際当たったのだ。

 …それが幻か夢であったとしても

 


 後日、晴太は語る。

 「夢を見たんだよ…」

 「夢?なんの夢?」

 「それがさ、変な夢で空の上から地上を観察してるんだ、ずーっと」

 「ふーん、それで?」

 「最初は知らないおっちゃんの暮らしを見てた、でも見てるうちに分かったんだけど多分命子のじいちゃんだった。すげぇ綺麗な花火上げてたし。そのあと命子の親父さんと…命子の様子も見てたんだ。走馬灯みたいに、超早送りで」

 「え?私も?なんかやだな」

 「うーん、でも見守ってるかんじだったな」

 「なにが?」

 「いや、見てるの俺じゃなかったっぽいし。他人の視点を借りてる感じかな。俺自身の事も途中から見てたし。どうにも命子の周りを見てたみたいだね」

 「やっぱやだよ…だいたい誰なのさ?そいつ」

 「俺だって知らないよ、でも悪い奴ではないよ。たぶん」

 「たぶんて…」

 「それで命子が船から落ちて、橋の近くで溺れてるとこまで見たんだ。夢にしてはやけにリアルで胸騒ぎがしたから船内を探したんだけど、本当にいないからこりゃやばいと思ったわけ、命子カナヅチだし。全力で橋を目指して泳いだよ」

 「じゃあその夢のおかげで助かったのか私」

 「いや、夢で命子が溺れた場所まで泳いでいったらもうすでに陸に上がってた。救急車は俺が呼んだけど」

 「え?なにそれ?じゃあ晴太が助けてくれたんじゃないの?」

 「それなんだけどさ……んぎょだと思う」

 「うん?なに?」

 「だから金魚」

 「キンギョ…」

 「俺が泳いでる時に赤い金魚をたくさん見たんだよ。たぶんそいつら。なんとなくそんな気がするってだけだけど、他に人なんていなかったし」

 「……」

 「今、頭おかしい奴だと思っただろ?…まぁ、いいや。夢の後半、視点が空から川の中に移った。そのあとすぐ金魚がわんさか集まってきて視界中真っ赤になったんだ。そいつら溺れてる命子を押し上げようとしてた」

 「川の中から見てたの?」

 「そう。夢は時折視点が空中からだけじゃなくて水中からのパターンもあって不思議に思ってたんだけど、その時やっと分かった。金魚の視点だったんだってね。…俺らの部屋を見てる時は水中からが多くていつも決まってリビングの同じ場所からだった、つまりその時は金魚鉢から見てたんだな、きっと」

 「…なるほどね。じゃあその謎の第三者は金魚だったわけだ」

 「うーん、それもなんか違うんだよなぁ…それだと空から見てたのが分からないし」

 「ああ、そうか…。でも、その時川にいたのは金魚だったわけでしょ?そもそもなんで金魚が私を助けるのさ?」

 「さあね、命子の前世が金魚で、仲間が助けに来たとかじゃない?ほら、頭も赤いし」

 「バカにしたな!もう…」

 「だって夢だし、理由なんて分からないよ。しかし奇跡体験アンビリバボーだな。例え全部ただの夢だったとしても現に助かったんだ」

 

 


 残念ながら晴太のアホな考えを私は否定できなかった。


 完全に肯定した訳でもないが。


 晴太が実際にその金魚らを見たということは、私の金魚の夢もまた夢で無く現実だったのだろうか。

 信じ難いけど、それならばやはり奇跡が起きたのかもしれない。

 奇跡なんてあるとしたらトーストにキリストの顔が浮かぶとかマリア像から涙が出てくるとかくだらない類いばかりだと思っていたけど、あの体験から認識を改めた。

 いまだに私はスランプのままだし、晴太は相変わらずアイロンをかけている。

 結局猫の気持ちは分からなかったし、金魚は川じゃなく金魚鉢でぷかぷか泳いでいる。

 あれから別に何が変わったわけでもないけど、毎日うんうん唸りながら作品を作ってれば、作り続けて生きてれば、もう一度ぐらい何かが起きるんじゃないかと思うのだ。あの赤い夢のように。



――数年経って金魚のエサは少しだけ、グレードアップした。


 

 

 

 




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