第三話
浴衣の柄にはちゃんと意味があるんだよ、と私はおばあちゃんから聞いたことがある。
今着ている黒地に赤い椿が咲いている浴衣はそのおばあちゃんから貰ったもので、意味は長寿だと教えてくれた。
椿は病院に持って行くとポトリと花が落ちるから縁起が悪いと思われているけど、椿自体の寿命はとても長く千年を超えるものもあるそうだ。だから浴衣ではむしろ縁起物らしい。
普段から着たいぐらいこの椿柄の浴衣を気に入っているけれど、実際はお祭りの日ぐらいしか使えない。町中で祭日でも無いのに浴衣を普段着にしていたら、おやおや変わった娘さんね、ひそひそひそ、なんてめんどくさいことになりそうだから私は我慢する。
近所のおばちゃんたちは怖い、馬鹿にできない、脳みそが繋がってるんじゃないかと思うぐらい噂の拡散が早いのだ。私の推測ではラインやらツイッターができないぶん、彼女らは独自の進化を遂げたのだろうと思われる。私は派手なことは好きだが変人になりたいわけではない。正確には彼女らに変人だと認識されたらおしまいなのだ。
そんな浴衣と近所のおばちゃんネットワークについて考えていたら晴太が「実は奮発して屋形船の予約をしてみました」と川縁でささやく。
周りを見ると大仰な赤い提灯をずらーっとぶら下げた船が何艘もある。千と千尋の神隠しにもこんなシーンがあったなぁとぼんやり見ていたら、真っ赤な船が目に止まる。
すると晴太が「あれあれ、あの真っ赤なやつ。今日借りたの」と私の手を引き近づく。
まじかよ!シャア専用じゃん!と少し驚いてからよく船を見ると、周りの船は全部近代的な作りなのにシャアだけいいかんじにボロい木造でさらにびっくりした。大丈夫なのこれ?浸水とかしないよね?木造のジェットコースターとかあるけど、これはまた違う怖さがある。
「いやぁ、花火大会より少し前に思いついたから他の船は予約で埋まっててさ。しっかしオンボロだなこりゃ」
奮発したんじゃないのかよ、と思ったが贅沢は言わない。きっとこういう船だからこそ、ご飯が美味しいとかサービスがいいとか他の船には無い良さがあるはずだ。
――屋形船の窓から見える花火は予想通りに綺麗で、内装は畳の座敷になっていたのでより風情を感じられた。
だが飯は超絶不味いし、サービスも最悪だった。
晴太に悪いから「美味しいなぁ!あぁ~幸せだなぁ~!」とか言いながら飯は食えたもんじゃないので箸だけつけて、唯一まともな酒ばかり飲んでいたら船の揺れもあって完璧に酔う。
晴太は晴太で、酒に弱いくせに無理して飲むからつぶれて寝ている。彼も食べられなかったのだろう。
「ふがー、すぴぴー、むにゃす、むにゃす……ふがー!」
「……」
晴太は寝かしておいてあげよう。
ケータイで時間を確認すると、チラシで見たプログラム上ではそろそろメインの四尺玉が上がる頃。
私は酔いを覚ます為にも座敷から出ることにした。
夜の空気はいつでも凜としてよいものだ、特に酔っている時は格別に。船上の水気を帯びた風は少し冷たいぐらいで心地よく、上気した頬の色をとってくれる。
周りにもちらほらと別の客がいた、みんな同じように顔を赤らめふらついている。ご飯は残念だったけど、こういう雰囲気は嫌いじゃない。
展望デッキからは座敷から見るよりも肌で花火を感じられた。辺りの川は黒々と飲まれるような色を湛えているがそれに映えてパチパチと咲いている。
連続して音と光が散っていると、急にそれが止んだ。
おお、そろそろメインかな?と思うと同時に《ドン!》と一際大きい音と共にひゅるる~っと光のスジができていく。
それが失速し始めた時に《パパン!》と一気にはじけて膨らみ、光の束が放射状に開いていく。長く長く尾を引いて、私の視界の隅でようやく消えた。
へぇ、祖父ほどでは無いにしても見事な花火だなぁ…と感心する。
手すりに近づき手をついて乗り出し思わず見入る。今だけはスランプなんてどうでもよかった。
――祖父との思い出のほとんどが彼の作品、花火だったために私の脳裏には龍男との記憶も同時に展開されていく。それが私にとって会話となる、大事な時間だ。別にオカルト的な何かとか、魂との会話とかでは無い。完全に私の脳内で起きていることで、きっとホルモンや海馬にある何かがそう勝手に作っては囁いているのだろうけど、そんな現代科学のアナトミーや仕組みなんて紙くずみたいにどうでもいい。人間はきっと記憶にも生かされている、すがっている。知らないうちに、死のうとか、もうだめだって気持ちをいいほうに無理にでも変える力が思い出にはあると思う。だから時々思い出して、もう一度、もう一回と誤魔化して、だまして、だまされていることに気づいているけど、生きていく。そう、思い出なんて無いのだ、何も残ってなんかない。追体験?いや、体験なんかあるはず無い。無味無臭だしつかめない、あやふやで断片的だ。そんな不確かなあるんだか無いんだか分からない物に頼るぐらい人間は弱い。弱いから思い出は強い。いつだってそうだろう、過ぎたことのほうが美しく見える。でもだからっていつまでも過去の思い出に浸りまくっていると前に進めない。いい年こいてニートだとか引きこもりな奴はママのお腹に帰りたいんだろう。そうやっていつまでもプカプカと浮いてたいのだろう。自分の安心できる場所で。それは記憶も同じだ。逃げ込んだら帰れなくなる。それを私は許さない。だけどちょっとならいい、心にだって体力はあるから回復するべきだ。
私にとって今がそうだけど、もう充分だ。充分なんだ。いつもそう言い聞かせる。
まだ満タンじゃないし、心はぐちゃぐちゃなままだけどもう行かなきゃ。満タンになる時なんて無い、生まれたら減るに決まってるんだ。減って減ってカスになるまで生きるのが人間の《命》の在り方なんだろう。
龍男みたいに私も命を削ってもう一度作品を作ってやろう。
……なんて、花火を見ているといつも思う。
誰しもこういう固定化された考えはあるはずだ、パブロフの犬みたいに条件反射で出てくる文章。
ふぅーっと息を吐いてから今度は何も考えずにただ鑑賞する。
ドンッ!ひゅるる~、パパン!パチパチパチ。
そして何も、音も光も無くなるまでデッキに居続けた。私は映画もちゃんとエンドロールまで見るタイプだ。
周りの客はだんだんといなくなり、私一人になる。酔いも覚めてきた。
さて、戻ろうか、と思い手すりに反動をつけたらミシリと嫌な音がする。
さっきまでメインの四尺玉を見ようと乗り出していた人達の体重がその手すりにはかかっていた。
私もその一人だったわけだけども、まさか、壊れるなんてことはさすがに無いだろうと思った矢先、バキバキバキッと乾いた音がして、私は持っていた手すりごとグワンッと態勢を整える間も無く外に投げ出された。
そのまま吸い込まれるように暗い川の中へ落ちて、どんどん沈んでいく。
浴衣は水を吸って重くなるし、身動きもとりづらい。
しかも私はカナヅチだ。絶望的なまでに泳げない。
まじかー、スランプのまま死ぬのかー、やだなー、晴太ともっと遊びたかったし、試したいこともまた浮かんできたのにー……あ、そういえばこの浴衣、長寿って意味が込められてたなー、おばあちゃんごめん、私は短命に終わりそうだよ…
暗くて冷たくて苦しいし、死にそうなのにそんなことが頭をよぎった。余裕があった訳じゃ無くて、完璧に泳げないから望みもゼロ、頭の中で呟くことしかできなかったのだ。
息が泡となってブクブクと上っていく…その量が多くなるにつれて私の意識は遠のいていった。