表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/4

第一話

 一度、中学生の頃に夏目漱石の小説を読んだ事がある。

 酔った猫が水瓶に落ちて溺れ死んじゃうってのがオチなんだけど、長々と回りくどい文章を我慢してまで読んだのにまったく何が面白いのか分からず、ああ……私には文学少女の素養が無いんだ、この物語はきっと深淵で哲学的で何か暗号めいたものが散りばめられていて、アタマの良い人には解読できちゃう、そんなシニカルに笑える小説なんだろうと思い、理解できない自分が悔しくて本にはしばらく手を出さなかったのだけれど、二十歳を過ぎたし今なら何か掴める気がして、もう一度開いた。

 ――が、やっぱり猫が溺死するだけだった。

 壁にその本をぶん投げてから「だから、にゃんにゃんだよ!」と叫んだところで、夫の晴太せいたが下の階から「命子(めいこー、夕飯できたよー」といつもの調子で呼ぶので「はいっ!」と短く返事をして二階から階段をダダダーッと駆け降りる。

「猫よりごはんだよね」

「……なんのこと?」


 やたら凝っている肉料理を食べ終え、感心して「この肉美味しかった」と言うと「ミートローフだよ」と微笑んでからテキパキと食器を片し始める晴太。……中身は主婦なんじゃないか、と思う私。飾り付けのニンジンが星形に切られてたのに若干引いてしまったのは内緒だ。

 そもそもどこで身につけたのか晴太には家事全般のスキルが異様にある。

 私にはその世界観がどうしても分からないのだが、エクストリームアイロニングという大会があるらしく、名前からして正気とは思えないのだけれど晴太はなぜか当然のようにいくつかの記録を持っていた。

 その情熱は本物で、アイロンかけに至っては日本一美しいんじゃないかと思う。過去に一回だけ私も大会の手伝いをしたのだけれど、それというのがフルマラソンの給水所でアイロンを手渡すというシュールなもの。汗だくで息を切らしてアイロニングするその姿は確かに一流のアイロニストだった。


 本人曰く、家事を極めんとすると見えてくる世界が幾つもあるそうだ。

 その内の一つがアイロンらしいが、私は見えなくてもいいと全力で思った。


 と、そんな家事命の晴太がキッチンで皿を洗いながら私に声をかける。

「ところで命子、明日の油画コンクールはいけそうかい?」

「うん?ああ、ばっちり入賞だよー」と居間から昨日花火大会でゲットした金魚を水槽越しにつつきながら答える。明日まで祭りは催しているが、金魚が部屋に居てくれるだけで祭りの空気を思い出せるので十分だ。

 晴太も金魚を気に入っているらしく、つついて遊ぶ私を見て

「そりゃ、頼もしいね。賞金で金魚のエサもグレードアップしなきゃな」と笑う


 ――私の祖父は花火師だった。

 亡くなる寸前まで工房に閉じこもって火薬の星を作っていた花火馬鹿。

 祖父は恐らく町一番のハイカラじじいで、よく海外にも花火を上げに行っていたせいか、英語なんて喋れもしないのに外国の友人が大勢いた。

 「花火は芸術、俺は日本のジャクソン・ポロックだ!」

 「芸術は爆発だ!花火も爆発だ!」

 なんて生前言っていたのを覚えている。確かに爆発だ。

 父は祖父のようになりたくなかったらしく至極全うに生き、若くして高級官僚になった。

 私はというと、父のスマートな生き方より、祖父の華やかな生き方に強く影響された。

 一緒に居られたのは高校一年生の春までだったけど、祖父が何百発、何千発と打ち上げた花火の美しさは、今の私の人格……というより魂の形成に不可欠だった。

 それから祖父が亡くなった時、私はアーティストになろうと決めて美大に入学、その後アーティストとしてデビューしたのだった。

 

 毎年花火だけは欠かさず見に行く。

 祖父とはよく好きな芸術について語り合ったけど、花火を見ていると今でも会話をしている気分になれるからだ。


 ――明日のコンクールもばっちりガッツリ賞金をもぎ取れるだろう。

 最近の私は絶好調なのだ。

 《新進気鋭の赤い彗星!星子ほしこ命子》なんてキャッチフレーズでテレビにも少しだけ出演したことがある。もとのきっかけは私が美大在学中だった時にかなり有名な賞を取ったからで、過去の受賞者の中でも二番目に若かったから余計に際立ったらしい。それに加えて作風が祖父譲りで派手な方だし、ラッキーカラーを信じて服は大抵赤、その上赤く染めた髪をしているのでメディア的にも取り上げやすかったのだろう。

 私の髪の色と苗字を合わせて赤い彗星だなんて安易に誰かが考えたのは微妙だけど。(某ロボットアニメにもそんなフレーズを聞いた気がするし)

  晴太の籍に入った頃から少しずつ売れ始めたので、どっちが名前か分かりづらくなってしまったけど、そのへんちくりんな名前のお陰で目立ったし、改名効果で人気が出たのだと勝手に思い込んでいる。変なキャッチも含め。



 ところが翌日、私の作品「超獣戯画・乙巻」は落選していた。



 ――それからだった、今まで順調に賞を取り続け、絵もそこそこ売れていたのに、どこに出品しても

 落選、落選、落選……。

 赤い彗星は落っこちてしまったのだ。それも急激に、光の速さで。

 これがスランプか!と私は絶望する。

 アイデア、構図、色彩構成、コンセプト、どれも悪くない。決して妥協はしてないし、クオリティだってむしろ上がってるはずなのに、全く訳が分からなかった。スポーツ競技のアスリートならいざ知らず、絵でスランプってなんなの!しかも私自身は泉のようにいくらでも描けるのだ、問題は絵の落選や画商で売れないことだった。そんなものはコントロールできない、投げた球はどうにもできないのだ。

 私には親切に指導してくれるコーチや監督なんていない、いたとしても芸術においては役に立たないとは思うけど。

 だとしても、今は誰かに理由を、欠点を、改善点を教えてもらいたかった。

 今まで人生において一度も挫折を味わったことの無かった私。

 一般的な家庭よりも裕福と言える生活を送ってきたし、交友関係も良好、晴太との幸せな暮らし。作家になる夢も美大在学中にデビューし叶えてしまった。ほとんどがストレート、紆余曲折や波瀾万丈なんてことは蚊帳の外、想像の余地さえなかった。

 まぁ、二十とそこらしか生きていないので当然なのかもしれないけど、これまでがベリーイージーだった分、腹の底にズシンと重く響いてくるものがあった。

 そんな温室育ちどころか無菌室育ちな私のメンタルには、耐性なんてものはなく、心のHPは日に日にゼロに近づいていった。


 それでも私は描き続けた。まさに無我夢中、五里霧中。曖昧模糊とした何かを探し続けた。

 二階のアトリエに貝のように閉じこもってジェイル・ハウス・ロック。ここは牢獄だ。ただし囚人と看守は自分自身。いつでも鍵を開けてでれるけど私は、星子命子は、絵の具とキャンバスとでロックし続けた。


 制作のお供はジャスミンティーでBGMは夜に鳴き始める蛙やら虫、名前の知らない鳥達の指揮者がいないゴチャゴチャとした合唱だった。

ゲコゲコリーリーホーホー、ゲコリーホー。

 ちなみにジャスミンティーはお洒落になんて淹れない。大きな昔ながらのやかんに直接お茶っ葉をぶち込んで、水道水マックスで煮出したらそのまま注ぎ口から飲んでいた。

 ルーチンにならないようにたまに茶葉を変えたりコーヒーにしたり、音楽をかけたりしたけど、最終的にはいつもこの二つで落ち着いてしまう。


 描く前の白い画布が怖くなる時もあった。夜半じっと見つめていると筆の洗浄液の臭いと相まってサナトリウムを思わせた。

 それが不快で気持ち悪くて、かき消そうとフォンタナ宜しく生地をナイフで滅茶苦茶に切り裂いた。

 衝動的な行為だったけど、あとで縫い合わせてから木枠に張り直してそのまま作品にしてしまった。

 

 逆にキャンバスに吸いつくように絵の具がのる時もあった。

 精神的には追い詰められていても、神の啓示には逆らえないように寝食を忘れて描いた。気分はモーセで自分の脳内ではザップザップ海を割っていた。

 その時は頭のネジがとんでる状態だったので、アンバーの絵の具が切れて代わりに飲みかけのコーヒーを使ったもんだから香ばしい作品になった。


 他にもありとあらゆることをした。


 キャンバスに四コマ漫画を描いたり。

 額縁にだけ絵を描いたり。

 メリヤスで作品を覆い隠して、もはや見せなかったり。

 口紅でクロッキーしたり。

 一時期は立体作品にも手をだした。

 手乗りのメリーゴーランドを作ったり。

 盆栽でシルバニアファミリーのツリーハウス作ったり。

 火焔式土器の現代版、電気式土器を作ったり。

 作品の材料はアマゾンにお世話になったり。(アマゾンさえあれば実店舗なんていらないんじゃないか?)

 たりたりたりたりたり……

 迷走に迷走を重ねてはいたが、私なりに真剣に格闘していた。

 

 しかしそれでも一向に世間からの返事は無かった。

 

  そんな風に毎日ぐにぐにして落選スパイラル開始から丁度一年が経ったある日、アトリエに入ってきた晴太が「息抜きに花火を見に行こうよ」と私を誘う。

 スランプから抜け出すために自室兼アトリエにこもって制作ばかりしていたプチ引きこもり状態の私が、外のイベントに気づけるはずも無い。節目節目に、ケーキやおせちを食べたのはなんとなく覚えているけど、ほとんど室内でのことだ。

 それだけの時間を作品にかけていたなんて自分でも異常だと思った。それと同時に晴太には感謝した。

「もう、色々と限界のように見えたからさ。一旦、筆を置きなよ」

 長い間、私が画布と戦っているのを何も言わず甲斐甲斐しく陰から支えてくれていたのは彼で、更には絶妙なタイミングで声をかけてくれたと思う。

 今試せることはあらかたやり尽くした、それには晴太がいなければ到底無理だったろう。家事なんて任せっきりだった……まぁ、いつも九割は晴太がやってくれるんだけど。そろそろ檻から出てもいいだろう。

 結果的にスランプを抜け出せてはいないのだけれど、私にはその膨大な実験の為の時間が必要だったのだろう。振り絞らなければ分からないことだってあるのだ。

 例えば今回、スランプから抜け出せないくらいスランプだってことを身をもって知った。


 「危うく今年の花火見逃すところだったよ。ナイスフォロー晴太!それにさ、今まで、その…ほっといてごめんね、頭の隅っこにはちゃんといたんだよ」

 「そう、隅っこなんだ…ちょっとショックだけど、いつもの命子が戻ってきてくれて嬉しいよ。やっぱり花火には反応するんだな」

 「それもあるけど、ちょうど心のゲージが切れたのさ」

 「…?よくわかんないけどギリギリだったのね」

 「うむ、結構本気でやばかった」

 「たまに夜中、なんか切り刻む音してたしなー。割とホラーだったんだぞ」

 と言うと晴太が一枚のチラシをだす。

 「もうホラーはお腹いっぱい。ほら、今年の花火。メインは四尺玉」

 「うわ、去年よりでっかいのかー!すごいなー!いくらかかるのかなー?」

「…そこかよ。まぁ、とりあえず着替えたら行こう。その原型をとどめてないツナギは捨てような」

 言われて自分の姿を鏡でまじまじと見ると、スラム街にいる汚い野良犬の方がまだましなんじゃないかと思われるクソ汚い姿がそこにはあった。


 なんにせよ今の私には外の刺激、花火が必要で、こんな時だからこそ祖父を思い出したかった。

 そしてもう一度始めから心を満たしたかった。


 花火、花火、花火!もう頭の中では音と光が花開いていた。


 


 






















評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ