流れた川
よろしくお願いいたします。
やはり、冷たかった。
わたしの指先を濡らす水は、濁ってしまっていたけれど、確かな感触をもってわたしと君に思い出させた。
幼いころは、少なくともくるぶしがひたるくらいの水が流れていたはずだ。周りには森があった。雨もふった。ここであそんでは、日がくれていたものだった。それをくりかえして、ずっと過ごしてきた。
川原に生える草をふみつけては、引きぬいて川に流した。舟に見立てて、けれどすぐに沈んでしまった。そのさまを見るのに、子供ながら興味をそそられた。ゆらゆらと揺れて、やがてそれは底に重なった。
今では石をふむ痛みも、しだいに心地よくなっている。
目をとじて、息をはいて。
流れる川を感じながら、ただ君は足を濡らしている。
「いつだっけ」
最後に雨がふったのは。けれど応えはない、知らない。忘れてしまったと云うほうが正しいのかもしれない。
冬のほの明るい日差しでさえわたしたちには厳しい。乾燥した風が吹きつける。しびれが体のあちこちで現れる。
どこかで鐘が鳴いた。火事か、事故か。いずれにしても、とめるのは難しい。火事ならば気がすむまで燃やせばいい。事故なら気が落ちつくまで争えばいい。そうするしかない。そうなる他はきっとない。
わたしには関係がない。
「数年前だったっけ」
君の返事がないまま、ただひとりごとのように云った。水音が耳にとどくのを、わたしはこそばゆく感じた。
底をさらう水は、石にはばまれてわかれてはまたあわさっていた。
社会に出たのがずっと前のようにも、ごく近頃のようにも思えてしまう。思い出すことがおっくうだった。無意識にため息をついてしまうけれど、本当がどうかなんて気にしなくていい。その必要はもうない。
意味なんてないのだから。
勤めるようになってから、ここに来ることがめっきり減って、また風景も変わっていってしまった。森はよわり死にはじめていた。
川原で一輪の青い小さな花が咲いているのを見た。疲れていたのかもしれない。その花だけがいとしく見えた。青草にかこまれて、ただ一つだけあざやかだった。
雑草は害のあるものだと子供の頃から聞いた。だから周りのそれをすべて取り除いて、そののちに川へ流した。なんの罪悪感もなかった。花の美しさに比べれば、全くそれらは無価値だった。
その次の日に見てみると、少しよわよわしげだったけれど、確かに咲いてはいた。
一年草だったから、またここに来るときには枯れてしまっていた。わたしは忘れてしまっていたけれど。
持ってきたびんの口を、川に近づけ、沈める。半分にも満たない深さで、汲むことも難かった。持ち上げると、底に穴が開いていた、すべて流れ出てしまった。君はわたしをぼんやりとした目で見た。
「帰ろうか」
君はうなずいた。
わたしのあとを追うだけだった。川沿いに歩けば数十分で町につく。そこまでしてここに来なければならない。
雨はふらなくなった。それは唐突ではなかった。予測はされていたけれど、だれも考えようとはしなかった。目をそむけていた。
世界は回っている、だから輪が途切れてしまえばそれは何のためらいもなくとまる。とまってしまう。人はあらがえないし、そうしてはならない。自らが引き起こしたのだから。身をもって知るべきだ。
そう思う。
とつぜん無機質な痛みが足許でうずく。わたしはしゃがんで、足をおさえる。赤い液体が石のすき間にしみこんでいく。声にならない声が、涙とともにあふれる。
痛い。
そんな三音の言葉を、わたしが云ってはならない気がした。
すっかり面影がなくなった川原を見るたびに、わたしは意味もなくたたずみたくなる。もはやここには草もない。
水がさらさらと流れる。時間とともに自然に。
にわかに胸が苦しくなる。立っていることもままならなくなり、腰を下ろしても居心地が悪い。
心臓の音が耳許で鳴る。頭が痛みをもって意識とわかれようとする。
呼吸が乱れ、浅くなる。
わたしは立ち上がる。冷たい石を取り上げて投げ込む。
音がしただけだった。
なおも川は流れる。
けれど、川は流してくれない。もう何も。
君は目の前にいた。
わたしは何をしたのだろう。
草をふみつけて、流して、それを見て笑って。
幼いころにはたくさんあった草も、今は一切消えてしまっている。丸いはずの石も、凶器に見える。恐怖を抱かずにはいられなかった。
現に、わたしはそれに傷つけられたのだから。
けれど、わたしを傷つけたのだろうか。
わたしが傷つけたのではないのか。
どちらにしろ同じだろう。
痛みが体中にひろがる。血をとめることなどとうにやめていた。強いて意識の外に追い出していた。
わたしが川に流した何かは、どこに辿りついたのだろう。
君の姿はもうなかった。
わたしが流したのは、何だったのでしょう。