死してもあなたを愛してる
雨音が部屋の中にも響く──そんな夜だった。
男は額に汗をしながら彼の大切な【作業】に没頭していた。
彼女を、彼女の想いを鬱陶しい、煩わしいと彼が思ったのはいつだったか、それはもう随分と前の事になる。
それでも──彼は彼女を愛していた、つもりだった。
一緒に暮らすようになって数ヶ月、仕事でどれだけ遅くなっても彼女は彼を待っていた。
そして彼が疲れて帰って来ると、いつも同じ言葉を口にしていた。
「いつもいつも遅いけど、電話の一本くらいは入れて欲しいわね。
ほら、丹精こめて作ったディナーがすっかり冷めてしまったわ。
すぐに温めなおすから、食べるんでしょ?」
彼女はお帰りの代わりに、いつも、大体がそう言って彼を迎えた。
そして、彼が遅い時間だし、夕食は要らない、と言うと明らかに機嫌を悪くした。
彼の仕事は毎日、日が変わる頃か、翌日になるまで帰宅することのない日々が続き、彼は帰宅したらすぐに泥のように眠りたかったのに。
彼女は食事を強要し、断ると機嫌を悪くして、彼に嫌味を言いながら冷蔵庫に夕食を放り込む。
「作ったのに無駄になった」とか、「せっかく作ったのに一口も食べてくれない」などと言いながら。
その言葉は彼の精神に負担を齎して、日々を追うごと彼女への愛情を目減りさせていたのに。
ある日、彼は彼女に別れを言い出す。
彼女を応えない、「あなたを愛してるのに」と泣き、喚き、彼の精神をボロボロに擦り切れた愛を更に粉みじんにする。
そして──悲劇は起こった。
彼はもういい加減にしてくれと彼女を払いのけた、ただそれだけだったのに、彼女はよろけて倒れこみ、テーブルの角に頭を打ち、そのまま意識を失った。
彼は彼女が自分の気を引こうとしたのだと思い、そのまま風呂に入ろうと用意をしに行った。
風呂に湯を溜めて戻って来ると、彼女は──死んでいた。
そんなつもりはなかった、と彼は呟く。
だが、結果的に死に掛けた彼女を放置して、死に至らしめた事に変わりはない。
「俺は──どうしたら……」
そして、彼は決心する。
証拠を、死体を、無くしてしまえばいい──と。
死体がなければ事件の発覚もないだろう──と。
彼は、かつて愛した彼女の身体を風呂場に運び、死体をどうしようかと悩む。
その時、マンションのこの部屋の、ゴミ処理の為の新型のディスポーザーを思い出す。
【このマンションでは生ゴミをそのまま水で流せます、ディスポーザーが野菜クズなどを粉砕し、水道に流すシステムを使っています】
「ああ……そう、だな……小さく刻んで流せばいいのか」
彼は呟いた。
かつて、切り刻んだ死体をトイレに流すという殺人事件を思い出して。
彼は、台所から包丁を持ち出して彼女の切断にかかる。
冷たくなった彼女の足を、腕を、そして──。
【作業】を続ける内に、なぜもっと話し合わなかったのか、なぜもっと優しくしてやれなかったのか。
彼女との思い出が浮かんでは頬に涙が伝う。
愛していた彼女の身体を切断しながら、彼の疲弊していた精神が壊れていきつつあった。
胴体を細かくした【物】を台所に持って行き、そのままシンクに置いて水を流す。
新型だというディスポーザーの音は夜間でもさほど響かないはずだったが、彼の耳には骨や肉の削れていく音が繰り返されて、その音に耐え切れないとばかりに一気に【作業】のペースを速める。
彼女の【部品】が腕だけになった頃、その指に彼が送った指輪が残っていた。
その指輪を彼女がとても気に入っていたことを思い出す、そしてその腕を指を、切断することを躊躇った彼は、腕をそのままディポーザーの口へと肘から入れる。
そうして、彼の耳にだけ響く粉砕の音がして、彼女の指が、ひらひらと振動で揺れるのを見て、彼は微笑みを浮べる。
「愛──していたよ……」
彼の精神も既に【作業】で壊れてしまっていて、シンクから腕を伸ばしてひらひらと手を振る彼女の手に笑いかける。
彼を誘うような手の動きはいつまでも続いて、いつしか愛していた頃の彼女の幻さえ彼には見えているのか、ふらりと立ち上がってシンクの白い腕に頬ずりをする。
いつくしむように手を撫でて、掌に口付ける。
「愛、してたんだ」
頬の涙を指で拭われたような気がして、彼は目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは彼女の笑顔、その笑顔をとても好きだった──と彼は思い出す。
彼の頬を撫でる白い指はいつも滑らかで、温かく、その指が愛おしかった。
数日後、出社して来ない彼を心配した同僚と上司が彼の部屋を訪ねる。
電話が繋がらない、と二人の警官を同行させて部屋の鍵を開けてもらう。
警官が中に入り、上司と同僚とが玄関にと続くと、中の警官に入るなと止められて、床の乾いた血が目に入って、何か事件があったのかとドアの外へと玄関から出る。
部屋の中では警官が電話をしている。
「はい、自殺か他殺かは分かりません──が、あまりにも異様です、鑑識と応援をお願いします」
動揺した警官の言葉だけが部屋の外にも聞こえる。
電話を終えた警官が口をハンカチで押さえながら、眉を顰めてシンクの前の【彼】を見る。
「──さん、自殺でしょうか」
「そんなもん、俺が知るか。自殺だったとしたら気が狂ってるとしか思えん」
「……ですよね……いくらなんでもこんな死に方はないですよね……うっ、吐きそう……」
「ばかっ、現場を汚すな、外に行け!」
年かさの警官に言われた若い警官が外へと駆け出して行く。
残った警官がハンカチで口を押さえたまま、【彼】を見る。
シンクの前で立ったまま死んでいる【彼】。
だが、【彼】の首から上は無く、シンクのディスポーザーの中に消えていた。
「いくらなんでも……こりゃねぇよな……入るはずがない」
消えた【彼】の首の行き先を思い描いてしまい、警官がハンカチに胃液を滲み込ませた。
「こりゃあ……迷宮入りになるかもなぁ」
警官は鑑識と応援を待つ間くらいはと、ドアの外に出て行く。
こうして【彼女】を無くした【彼】も、首から下を残して無くなった。
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