離婚話は突然に?
「離婚する」
仕事から帰ったばかりの夫はリビングにいた私の前に座った途端、一枚の記入済みの紙を差し出して唐突に言った。
あの後、夫は今後の計画をこと細かく私に話していたようだが、私は全く覚えていなかった。
慰謝料?
マンションの引き払い日?
そんなことを説明されていたようだったが、初めての結婚記念日には全く相応しくない話に思考が追いつかない。
テーブルの上には記念日にと用意したオードブルやキッシュ、メインの肉は奮発してサーロインにかりっかりのニンニク。赤ワインだって冷やしてある。
妙に冷静な夫はテーブルをちらと見たけれど、一言もない。
結婚記念日だよ?
それも初めての。
どうして離婚話になるのか理解できない。
茫然とする私の前に、夫はペンと印鑑をそっと置く。
「……どうして?」
疑問しかでてこない。
付き合って三年。同棲期間は半年。
そして結婚期間は一年。
私たちはうまくやってきたのではなかったか。
夫が望むとおりに家にいて温かな家庭を築いてきたのではなかったか。
「どうして? それをお前が言うのか」
ずれ落ちてきた眼鏡を人差指で上げるしぐさが好きだった。
だけれど今はそれにさえいらだちしか覚えない。
「どうして、決定事項のように言うの? 離婚しようじゃなくて、離婚するなの。おかしいよ、おかしすぎるよ!」
そうだ。
夫は離婚しようではなく、離婚すると断定してきた。
きっとこれは夫が外で浮気をしたに違いない。
そうでなければ離婚することがさも当然みたいなことにならないだろう。
「……まさか浮気して子供でもできた?」
「違う」
「じゃあ、浮気が本気になった?」
「違う。俺は浮気なんてしたことがない」
「じゃあどうして!!」
泣きじゃくる私に夫はため息をついて、すっと席を立った。
後姿を見送って、私は一人リビングで茫然として座っていた。
どのくらい時間がたったのかはわからない。
夫は手にあるものをもってやってきた。
一枚の写真。
正確にはA4にプリントアウトした画像だった。
私の前に差し出されたそれを、私は凝視する。
見慣れた部屋の見慣れた光景。
だけれどそれは見慣れているはずだというのに吐き気をもよおすものだった。
汚部屋。
足の踏み場もないリビング。
床の上に無造作に置かれた雑誌や新聞。
積み上げられたインスタントの器やデリバリーの箱。
飲み終わったペットボトルが机の上にも床の上にも転がっている。
何十個もある通販の箱は開けられて中の商品は出されたものの、一緒に入っていたビニールや広告はそのまま放置。
タグがそのままのまっさらな服の上には洗濯に回す服が脱ぎ散らかされて。
カード会社からの請求明細書が束になっておいてある。
唯一空間があるのはリビングのテーブルの一角だけで。
そこにはノートパソコンが無残な光を放っていた。
「これを見てどう思う」
「……どうって」
「この写真と今の現状を見てどう思う」
何を言ってるの。
今日は結婚記念日。
特に力を入れて夕食の準備もしたというのに。
「テーブルの横に落ちている空になった食品パックを見る限り、夕食は全部デリバリーか出来合いものの取り寄せだろう。お前、最近俺のために料理をしたことがあったか?」
何を馬鹿なことを言ってるの。
抗議しようとして夫を見ると、もう一枚の写真を見せられた。
そこに映っているのは見慣れたキッチン。
所狭しと積まれた、汚れた食器や鍋の山。
引き出しは開けっ放しになってその上にも物が積まれている。
足元にも箱買いしたインスタント食品やレトルトの類が積みに積まれているのでシンクにたどり着くのも体を狭めるようにしていくしかない。
そういえば最近使ったのは電気ポットくらいかな。
だって私は忙しいから、料理している時間がないんだもの。
「仕方がないじゃない。私にだってすることがあるんだから」
強くそういってみると、夫はさらにもう一枚の写真を取り出した。
……私だ。
いつの間に撮ったのだろう。
写真の中の私は、寝癖も直さない起き抜けのままのパジャマ姿で、片足を膝立てて椅子に座り、リビングのテーブルに置かれているノートパソコンの画面を虚ろに見つめている。
パソコンの横にはスマートフォンを常備して、SNSで友達といつでも繋がり、ネットの電話機能では会話もするからヘッドフォンを付けている。
その周りには飲みかけのペットボトル、大好きなチョコの銀紙が数個転がっていて、もしこれが私だと分からなければまるでネット中毒の人のように見えた。
「もう、わかったか? 離婚する理由が」
「……え? わからないわよ」
ちょっとネットに気持ちがいっているからといっても大好きな夫のための時間はちゃんとあるし、なによりも家族になろう、俺が家族を養うからといったのは他ならぬ夫だ。
私は夫に温かい家庭というものを与えているのだから、夫には私を養う義務がある。
だから離婚なんてありえない。
「俺は何度もお前に言ったよな。部屋を掃除するようにって。食事を作ってくれって。そのたびにお前は今は忙しい、今ちょうど友達と話しているんだ、小説を読んでるんだよ、趣味の時間は大切だよといったよな。確かに友達は大切だし、趣味を持つことも大切だろう。だけど、お前は一人暮らしをしているわけじゃないんだぞ。二人で温かい家庭を作ろうといったのは、なにも部屋を暖かくすることじゃない。二人で力を合わせて居心地の良い家庭を作って生涯を共にする家族になろうという意味だ。俺が外で働いて、お前が家の中を切り盛りして。専業主婦になるのが夢だと言っていたから、じゃあ専業主婦で家のことを頑張ってくれ、俺もできる限り手伝うからとは言った。
だが実際はどうだ。
俺が疲れて帰ってきても、玄関を開けた瞬間に据えた臭いが部屋に充満して、足の踏み場もない部屋に上がらなければならない。ただいまと声をかけてもうなり声しかかえってこない。もちろん夕食なんて用意されていないし、洗濯物もされていない。それどころかリビングもキッチンも寝室もトイレも風呂場も日に日にモノで毒されていって足も踏み場も何もない。俺が家に帰ってきて一番にすることが今日寝る場所の確保だなんて、あんまりすぎて誰にも言えない。
その横で、お前はずっと、一日中、そこに座ってネット三昧だ。
一度俺が有休をとってお前の後ろにいたことがあるが、お前はそんなことなどどうでもいいと、俺の存在を無視してずっと画面を向いていた。
結婚っていったい何だ?
男が稼いできたものを女が受け取って全部使って楽をして何もしなくて自分のしたいことをして一日中過ごせることか?
温かい家庭にした? どこがだ。
物で溢れているから、部屋は確かに暖かいだろう。その分饐えた臭いも強くなるが。
俺はお前が一日中遊んで暮らせるためにだけの金を用意する存在ではない。
こんなのは家族でも家庭でもなんでもない。
この家はお前のためのだけのものではない。
俺はお前とでは家庭を作れない」
だから、離婚だ。
夫はそういって持って帰ってきた荷物をもう一度手に持つと、そのまま踵を返して外へと出ていった。
テーブルの上にはノートパソコンの画面が煌々と光っていた。