隠居
湖畔の側の屋敷での隠居生活においてクルエは、隠遁者という訳にはいかなかった。来客がある度に、現在の情勢について話していくので、俗世と切り離された生活といえど、気にかかることの多い日々であった。
ただ、それは適度に良い刺激になるのかもしれない、クルエはそう思った。
読書、料理、馬に乗っての狩り、お忍びの街探索、薪割り、これらも楽しいものであったが、ずっと政に関わってきた人間が、そんな話をされたら、気になるというのも当然ではないか。
だが、王国全体を揺るがす大事件のようなものは、結局起こらなかった。クルエとしてはほっとしたのだが。
度々助言を求められた。そうした時が厄介で、どうしたものかといつも悩んだ。
自分が意見を言う事は簡単である。
しかし、それを実行するのか、参考にするのか、という事になってくると話が違ってくる。
自分は隠居の身だ。そんな者が果たして意見してよいものか。
バイスは領主や豪族にクルエ以上に厳しく、式目をより厳格に運営していた。また、勝手な行動をした家臣にも厳しかった。そんな時に少し「穏やかに」と意見したくらいか。いや、サカヒ・モリスの息子、マリスがトシツ派によって失脚させられた時、便宜を図って流罪ではなく、お預かりに留めた事もあった。
クルエは斧を振りかぶろうとする。
「お止め下さい」
侍女が止めに入った。
「クルエ様は、御身体が悪うございますから」
クルエは苦笑した。
「まだまだ」
斧を振り、薪を割る。
薪割りが終わると、さすがに疲れが出てきた。
「休んでいいかしら」
記暦3382年11月。すっかり肌寒くなってきた。
マサエドとは比較にならぬ寒さになる。北であるという事と標高がそうさせるのであった。
クルエは庭に置かれた木製の椅子に寄り掛かる。
最近は特に、体力の衰えを自覚する。
若い頃は、ずっと武術で鍛えてきたし、隠居してからは、狩りに薪割りに、山登りに、馬術に、と色々身体を動かしてきたのだが。
クルエは翌日、風邪で寝込んだ。
次の日、そしてその次の日も、風邪は治らなかった。
「一度ひいたら、長引くのね」
クルエはすっかり年老いた侍女のフレーに微笑みかけた。
「そうですよ、しっかり養生して、お元気に御成り下され」
フレーは言った。
だが、一週間、二週間経っても、病は癒えなかった。体力もさらに落ち、食欲も無くなっていった。
「熱が高くお有りで、それが止んだり、また熱くなったり……。体力が落ちている時に、風邪を長引かせるのはありますな」
医術師はこう言った。
「ともかく安静になさってください」
後世の歴史家は、何らかの感染症が悪化したものだろうと推察している。
だが、そんな事は彼らには分かりようもなかった。
僧が祈りに呼ばれた。聖なる言葉を唱えながら、数人固まって宛がわれた部屋に篭り続けた。昼夜に及び、交代しながらである。当時は、それで病や傷が治ると信じられていた。
12月7日、タニアが見舞いに来た。
「母上……」
タニアは心配そうにクルエの手を握る。
「心配要らないわ。こんな風邪すぐに治してみせるわ」
クルエは微笑む。
「先王陛下は、後で来られるとの事です母上」とタニア。
バイスは既に実の子に王位を譲ったが、未だに実権を握ったままである。
「忙しいものね」
その後は、タニアの身の回りの出来事で盛り上がった。クルエはこうした話を来客者から聞きたがった。ことに自分の身内の話であれば。
タニアは自分の子供達の事をよく話した。クルエにしたら孫にあたる。
バイスは数日後にやってきた。
「母上、申し訳ありませぬ」
「謝る必要などないわ。私はどうせ治るのだから」
「当然でございます。そうでなければ困ります」
バイスは微笑んだ。
「先王陛下、ノザル陛下は上手くやってる?」
クルエの言葉に、バイスは首を振った。
「まだひよっこですよ。はねっ返りが過ぎまする。ちゃんと指導して参りたいと存じます」
クルエはくすくすと笑った。
バイスもそれにつられて笑い出す。
ノザルのやんちゃ振りは、子供の頃から抜きん出ていた。学問を放り出し、守役から逃げる事は日常茶飯事、武術の方にばかり夢中になった。曰く「政は家臣に任せておけば良い。父上もおる。俺は剣を取って兵を鼓舞したい。それが王の道だと信ずる」と言うのだ。
ある時、遊覧に出かけると、ノザルはお付きの者に「あの風景を持って帰るぞ」と言い放ったという。
「なんと剛毅な。まさに王者の気質なり」と何者が評したかは分からないが、祖母や父と違い、派手好みの性格であった。武術は卓越しており、熊を倒したという逸話もあるくらいであり、学問にも秀で、「オーエン王国全史」「ハミ王国記」の編纂も彼の時代である。
バイスは夕食と朝食をクルエの屋敷でとってから、マサエドに帰っていった。
クルエはその間ずっと上機嫌だったが、彼が帰ると、椅子に座ったきり、外の景色をずっと眺めていた。
「クルエ様、お休みにならないと」
侍女のキニが歩み寄った。彼女はまだ若く、10代のあどけない少女であった。
クルエはゆっくりと振り返り、微笑んだ。それは何とも、寂しげというか儚げというか、何かを悟りきった微笑みだった。
「ごめんなさいね」
キニの手を取り、ゆっくりと立ち上がった。




