遠き日々
「東宮院様、マサエドを発つとは本当でござりまするか!?」
フクサマが青ざめた顔で言った。
「ええ、本当よ」
「何故今更……」
フクサマとカワデが訪れたのは、そう日も経っていない頃だった。彼らは既に将軍の地位を辞し、息子にその座を譲っている。
「今だからこそ、ここを出るの。私がいない方が、政も上手くいく。私の時代は終わった」
クルエの顔は晴れやかですらあった。
「東宮院様がおられればこそ、マサエドは正しい道を歩んでいけるものを」
カワデが言った。
「陛下に誤りがあれば、東宮院様こそが正すお力をお持ちです」
「それは、マサエドに居ずとも出来る、が、特にそれは考えていないわ。マサエドを照らす太陽は一つでいい。殊更国王と対立せんが為、私をたてようとする輩がおらぬとも限らない」
「しかし、東宮院様が別の領地を得れば、そこで現国王に対抗する派閥が生まれる恐れがありまする。それでは本末転倒では?」
カワデは食い下がった。
「私には領地はいらないの。ほんのささやかな邸宅があればいい。天領のどこかに建てられたら良いのだけれど」
クルエは悠々と答えた。
昔から、口では言いくるめられぬ主君であった。
フクサマとカワデは苦笑いして、互いを見合った。
邸宅は、王家直轄の『天領』の中にあり、マサエドより北、木々が生い茂り、湖畔を称えた、景勝地に建設が始まった。
バイスが命を下したのだが、母クルエからの指示は、「豪勢過ぎず、壮麗過ぎず、大きすぎず、数人の使用人と住める程度の広さで構わない、護衛の兵は任期性で派遣し、近くに小屋を建てさせよ」といった内容であった。
親孝行をしようとするバイスは、こっそり調度品を最高級の芸術品で揃えた。また、食料やその他生活に必要な物は、王国により支給される事となった。だが、それでも、マサエド城内にいた頃より、遥かに財政に優しいものとなっている。
クルエ自身は、未だマサエドにある。
記暦3366年1月、大商家オポ家のオポ・マソがクルエの元を訪れた。彼女はクルエの古くからの友人であり、同い年でもあった。
「聞きました東宮院様」
マソは言った。
「マサエドをお出になるとか……」
クルエは頷いた。
「ええ」
「わたくしは貴女様の考えに意見するつもりはありません。お好きなようになさってください」
マソは力強く言った。
「ところで、エーリは?」
クルエが思い出したように言った。
マソとエーリの二人は、よく一緒になってクルエを訪問していた。
「エーリ様は、父のオム様とご子息とマサエドに滞在なさっております。ですが……」
マソは首を傾げた。
「オム様は祝賀の挨拶も済ませたことだし、領地にお帰りになるとの事。しかしエーリ様は残るそうです」
「マサエドに?」
「はい……」
マソは頷いた。
クルエはくすりと笑った。
「まったくエーリは!」
マソは再び首を傾げる。
クルエは言う。
「人質のつもりなのよ。国王に対して翻意が無い事を示そうとしているのね。それにしても自分から率先してやるとは」
マソは納得した様に苦笑いした。
「国王陛下も、さぞ面食ろうた事でしょうねえ」
「これからは、各地の領主や豪族からの人質をマサエドに住まわすのも良いかもね。もう私がとやかく言うことではないけれど……」
クルエはにやりと笑った。
マソは微笑む。
「何?」とクルエ。
「やはり貴女様は、まだまだやり足りないのですね。目が輝いておいででした」
クルエは苦笑した。
「もう、すっかり、汚さがしみついて」
「東宮院様は、あの日わたくしをお助け下さいました。命を懸けて。人としての本質は、あれから変わっていないとお見受けします」
かつて、マソが悪漢に絡まれていた時に、クルエは、彼女を庇って代わりに殺されかけた事があった。その時は結局、マソから知らされたワーズに救われたのだった。
あれから、長い年月が経った。あの時はまだ二人共、子供だった。
「30年ですか……」
マソの言葉にクルエは感慨深く「そうね」と答えた。
マソは居住まいを正す。
「長い間、ご苦労様でございました……」
頭を下げる。
「どうぞ、これよりは、平穏な日々をお送り下さいませ」
クルエは頷く。
万感の思いが、二人の間に満たされていた。
「……ありがとう」
「いつかお訪ねします」
「いつでも来てよ」
クルエは微笑んだ。
マソが去ると、侍女のフレーが部屋に入ってきた。
マソがいたので、一旦部屋の外に出ていたのだ。
「わたくしも、東宮院様と共に参りとうございます」
フレーが愚痴る様に言った。
クルエは未だに、誰を共にするか決めていないのだった。というより、周囲に全く漏らしていなかった。
「あなたは」クルエは困った顔をした。
「家族と共に暮らしなさいな。私にいつまでも尽くす事はない」
クルエはフレーを連れて行く事を渋っていた。
「分かっております。わたくしがいない方が、気ままでいられますものね」
「あなたは、年をとっておせっかいになったわ」
クルエは頷いた。
「でも、いないよりは、いてくれた方が良いのだけれど……。でも、あなたにも隠居の時期が来たのではないの?」
フレーは微笑んだ。
「いいえ、隠居しようにも、東宮院様が何も仰せにならぬものですから……」
クルエも微笑む。
「私は、隠居するよう薦めたわよ?」
クルエと共に屋敷に住む使用人達は、住み込みとなる。フレーがその一人に決まると、残りは彼女の推薦でほとんど決まってしまった。
着実に準備が進むにつれて、クルエは完全にやる事がなくなってしまったので、準備を進める使用人達に、話しかけて回った。彼らは、服や食材、油など、必需品を荷台に乗せ、クルエ用の輿も用意していた。
その他にもクルエの、蔵書、酒類、等々は、クルエの屋敷から運び出されていた。
クルエが話し掛けると、使用人達は決まって恐縮した。だが、彼女が去った時には、彼らの顔には喜びと誇りが満ち溢れているのだった。
記暦3366年3月、春めいて暖かい日和が始まった頃にクルエはマサエドを発った。
その際には、大勢の家臣や民衆が見送りに表れた。
「東宮院様……」
2代国王バイスの妻、シータがすがり寄って来た。
「どうしても行ってしまわれるのですか!?」
クルエは微笑んだ。
「これからは、貴女が、宮中の奥を仕切るのよ。奥の事なんてほとんどしてない私に言えた義理じゃないけれど……。王国を、そして国王を、後ろからしっかり支えてね」
「ははっ」
シータは恭しく一礼した。
「母上……」
バイスが言った。
「あなたには、助言なんて必要ないわね……」
クルエは言った。
「どうか、身体に気をつけて。タニアもね」
タニアは、にっこりと笑った。
クルエの二人の子供は、改めて一礼して、彼らの母親を見送った。
マサエドが遠ざかるのを、背中で感じながら、昔の事を思い出していた。
色々な事があった。良い事も悪い事も。多くの人々の運命が、流転していた。
戻らぬ遠き日々。




