女王の帰還
記暦3346年3月15日。
“家臣”相手に降伏を願い出た女王クルエとその夫シュトラは、武装を解き、粛々といった感じで陣を出てきた。その光景に感じ入る者は多かった。味方としてこれまでずっと女王らを守ってきた兵達は無論の事、敵兵ですら感嘆の念は禁じえなかったのだ。
兵達が礼を失する事のないよう、慎重に歩み寄ろうとした際、事件は起きた。
兵達の間を抜けて、飛び出してくるものがいた。
「女王、覚悟!」
槍を構え、突撃したのはニセール・リルであった。此度の戦に浪人として参加し、御家再興をかけていた。その最後の機であったのだ。
兵達の反応は遅かった。いや、リルが速過ぎたのだ。
無理もない。彼は此度の戦で多大な功績を挙げた武人である。
槍は突き刺さった。
女王にではない。その夫シュトラであった。
クルエを庇いとっさに躍り出たのだ。
シュトラは自分の胸近くに刺さった槍をがしりと掴む。
「シュトラ!」
クルエが悲鳴を上げた。
「陛下!近づいてはなりません!」
シュトラが叫ぶ。
リルが槍を抜こうとする。
だが、抜けない。シュトラが今ある力を振り絞って離そうとしないのだ。
結果、槍はシュトラの胸元でぼきんと折れた。
するとシュトラはそのまま蹲るように倒れこんだ。
「シュトラ!」
クルエがすがりつく。
「何故!?何故!?」
シュトラを抱きすくめる。
その様子を見ていた、リルは折れた槍をじっと見る。
そして周りを見回し、誰も自分を肯定的に見ていない事に気づいた。
兵士達は唖然とし、女王と夫君、そして下手人のリルを交互に見ているのだ。
リルは苦し紛れに叫んだ。
「夫君シュトラを討ち取ったぞ!」
そもそも、夫君であるエキル・シュトラは、此度の戦では、女王の側にあって政を壟断する賊であるはずだった。だから彼を討ち取れば大手柄であるはずなのだ。リルが憚る必要などどこにも無いはずだった。むしろこの手柄を総督にでも報告せしめれば、御家再興は夢ではなくなる。彼と共に野良生活を送っていた妻や子供達も一挙に屋敷暮らしであるはずだった。
リルは本来なら女王も討ち取ってその首を、総督ワーズに差し出すつもりであった。女王は無理であったが、夫君だけでも充分のはずだ。しかしながら彼の首をとるにはクルエを引き剥がさなければならない。
さすがにそれは出来なかった。
それをすれば、周り兵達に何をされるか分からない。
リルはその場を出来る限り悠々と去ることにした。彼の胸には、手柄を誇るべきという気持ちと、言いようの知れない不安が、同時に去来していた。
クルエは泣きすがった。
「陛下」
シュトラが血を吐き出しながら言う。声は弱々しく、囁く様だ。
「わたくしはここで死ななければならなかったのです。それがわたくしの役目だったのです」
そして微笑む。消えゆく寸前の蝋燭の様な笑みだった。
「わたくしは幸せでした。陛下、泣かないで」
シュトラがクルエの涙を拭う。
「名前……」
クルエがぼそりと言った。
「私のこと名前で呼んで」
シュトラは困ったように微笑んだ。
「……クルエ」
「シュトラ……」
クルエはシュトラを強く抱きしめる。
「どうして、無理をしたの」
その言葉には万感の思いが詰まっていた。
「申し訳ありません……、一族を捨てる事が、どうしても出来ませなんだ」
搾り出すようなシュトラの声は、もはや彼の死が近い事を意味していた。
「私、私ね、シュトラ」
クルエは震える声で言った。
「……私も幸せだった」
やっと紡いだ言葉がそれであった。
シュトラはまた微笑んで、クルエの頬に手を添える。
が、その手は時を置かずにすとんと落ちた。
クルエは震えながら手を添え、彼の開いた目を優しく閉じさせた。
歴史を動かした中心人物であり、知勇兼備の名将エキル・シュトラは死んだ。彼がいなければ歴史がどう推移したか、議論は尽きない。もちろん死なずに長命であったら、との議論も好事家の話の種であるが。少なくともこの時代において最強級の武将であり、いつ何時も沈着かつ的確な決断を下す、おおよそ隙のない名将であった。戦以外でも、政権運営において多大な才を発揮した。間違いなく当代一級の人物であり、英傑であった。
その死の後、クルエは馬車に乗り込み、マサエドに戻る。シュトラの遺体もその場で焼かれ、骨になった彼は丁重にマサエドに送られる事となった。
その他彼の死に衝撃を受けたのは、此度敵として戦ったコレニヤン・ワーズであった。
ワーズは、そうか、と言って報告してきた兵を下がらせた。
クルエは、彼の死を看取り、その遺体が焼かれるのを見たという。
覚悟していた事とはいえ、胸が痛んだ。
だが、どこかほっとしていた。彼自身がシュトラに死を命じずに済んだのだ。さすれば女王に生涯恨まれるだろう。いや、既に恨まれているだろう。だがそれも覚悟の上だ。国政を正し、王国を良い方向へと向かわし、ハミ家と王国を繁栄させる為には、致し方ない事だったのだ。
ワーズら、ダガーロワ軍も一部をダガーロワ防衛に残して、マサエドへと向かう事となった。
女王としっかりと話し合う必要があった。今後の政をどう運営していくか、それを決めなければならない。言ってしまえば戦後処理であったが、いくらこちらが勝者とはいえ、女王を完全に無視する事は彼には出来なかった。
ブシンなどは渋々だった。
「まあ、よい。女王にご自身の立場を分からせよう」
あくまで、大義名分は女王の側で政を壟断するエキル家の排除であった。なのだから情に事後報告するのは当然であって、謁見もせねばなるまい。その上で、政をどう動かすのかが問われている。ブシンなどは既に実権を握れた気でいるかもしれないが、この国は女王のものだ。その大前提は覆してはならない。
そうでなくては此度戦った意味がない。
記暦3346年4月1日、ダガーロワ軍はマサエドに到着した。
凱旋気分、という訳にもいかず。ワーズはマサエド城を掌握中のフクサマとカワデに面会を求めた。
「まさか、お主があそこまでするとは思わなんだ」
とフクサマはぽつりと言った。
「こちらも、お主らが斯様な事をしでかすとは想像もしていなかった。おかげで命運が開けた。感謝しておる。でなくば今頃、首と胴が離れておったろう」
ワーズは淡々と言って頭を下げた。
「しかし、陛下は御心痛であろうなあ……」
二人の横でカワデが言った。
分かりきっている事なれど、改めてそう口にされるとばつが悪いのだった。
この3人は、正確には仲が良くなかった。フクサマ、カワデの二人はワーズの事を腸腐れと呼んでいたし、ワーズの方は彼らをあまり重んじてこなかった。
だが、こうして共闘に近い形を示したのは、偶然でもあり、必然でもあるのだった。後世においては共同謀議説もあるが、むしろワーズの動きに二人も決意したという形であろう。
「陛下はいつ、ご到着なさる?」とフクサマ。
「近日中だろう」
「それから、陛下に謁見するのだろう?」
「ああ、これからの事を陛下と話し合う」
「我らも参加してよいか?」
カワデが言った。
ワーズは首を振った。
「お主達は、王子と王女を守る役目がある。それにお主達、特にフクサマには辛い話し合いとなるだろうよ」
フクサマは図星を突かれた様にはっとする。
「辛いのは、俺も同じだ」とカワデ。「俺が参加したいといったら?」
「駄目だ。これ以上ハミ家臣が、陛下に恨まれてはならないし、憎まれてはならぬ。お前達が最後の砦だ。俺はもう……」
ワーズは重々しく言った。
その様子に思わず、二人は言葉を無くすのだった。
ワーズは、陛下と最も親しい家臣の一人だった。陛下が姫様と呼ばれていた時分から、常に側にあった。にも関わらずこのような事になろうとは、誰が予想し得たであろう。
しかも、それを自分の意思で招いたというのだから……。
女王クルエは4月6日の深夜にマサエドに帰還した。進発する時は、盛大に見送られたのに、戻ってきた時は、夜闇に隠れるようであった。
帰って屋敷で一息ついたその直後に、ワーズから翌日の議への呼び出しの書状が届いた。
クルエは書状を一読すると、侍従にそれを返した。
「陛下……」侍従が思わず声をかける。この仕打ちはあんまりだと思ったからだ。
「もう寝るわ。旅の疲れを取らないとね」
侍従に微笑みかけ寝室に入っていく。
その姿は、あまりにも優雅だった。これは諦観が為せる業か、全てに絶望したが故の美しさか、侍従はその時はそう思った。




