乳母
タカラ・エーリは戦地へと向かう戦士の様に、険しい表情をしている自分に気づいた。
とてもではないが、女王の出産祝いに駆けつけた旧友らしくない。
去る9月11日、女王クルエはにわかに産気づき、双子を産んだ。
一人目が女子で、二人目が男子であった。
女子の方がタニア、男子はバイスと名付けられた。
だが、この名が付くのはしばし後である。
クルエは執務室で、名前に悩む日々を送った。
紙を前に、筆をくるくる回した。
シュトラが「陛下がお付けになるべきです」と言うのである。
「どうしてもお困りになったら、不遜ながら考えさせて頂きます」と保険はかけてくれていたが。
(子供の名前って夫婦が一緒に考えるんじゃないの?)
もしくは長老が、である。
だが、ここに長老はいない。
そして何より、それはクルエの育ったキロ村での風習であった。
エーリが訪ねた時、王宮はどことなく喜びに満ちた空気が充満していた。
外気はだんだんと冷えてきて、木々は葉が落ち日も短くなっている。
にも関わらず人々を見ると春の陽気がそこにあるかのようだった。
エーリは扉の前で威風堂々と立っているオントに礼をした。
彼は扉の向こう側に言った。
「タカラ・エーリ様でございます」
部屋の中から入るよう声があったので、彼は扉を開けてエーリを中へ促した。
クルエは自室で政務を行っており、エーリの顔を見た途端、それを中断した。
「お忙しいところ、申し訳ございません」
エーリは恭しく頭を下げた。
「いえ、こうして祝いに駆けつけてくれただけで、嬉しいわ」
クルエは微笑みながら立ち上がった。
促されて、椅子に座る。
机を挟んで対峙する。
しばらくは談笑をした。
エーリは居住まいを正した。
「陛下」
クルエは「何」とにこにこしながら言った。
「エキル・ダイスはどうなさるおつもりですか?」
その言葉にクルエは首を傾げた。
「どうするつもりとは?」
こっちから質問したはずなのに、探られているのは自分の様な気がした。否事実その通りなのだ。
「報いること大ならば獣を家に招き入れるが如きですし、それが小ならば彼には不満が高まるでしょう。そのさじ加減をどうお考えですか」
「難しいこと聞くわね」
クルエは言った。
「いえ、わたくしは答えを求めている訳ではございません」エーリは釈明した。
「ただ、陛下のお気持ちを知りたいだけでございます」
「モリスも、彼を押さえ込もうとしている」
クルエは指を組んで答えた。
「ワーズもそうなのでしょう?無論貴女も。ならば何の心配もいらないわ」
エーリはそろそろ本題に入る必要性を感じた。クルエの答えは「静観」を意味していた。
「陛下、恐れながらお尋ねしてよろしいでしょうか」
「既に、もうやってるじゃない」
エーリは息を飲んだ。
「陛下、もしダイスとモリス様やワーズ様が争いを始めたら如何致しますか?」
クルエの顔が強張った。
「いえ、その時が来るのなら、ダイス一人で済みますまい。ハミ家臣とエキル家の戦いになるでしょう。そんな時陛下はどうなさりますか」
「質問が漠然とし過ぎていて、答えられないわね。ただ言えるのは止めようと努力するでしょうね」
「そうではありません」
エーリは身を乗り出した。
クルエは眉を顰めた。
「陛下がおっしゃるのは、双方を説得して止めるという事なのでございましょう」
「ええ」
「それでは止まりません。一度点いた争いの火種は、何かを燃やすまで消えません。何も燃やさずに消える火種など無いのです」
「何が言いたいの」
「陛下はもうお分かりのはずです。争いはどちらかを切り捨てて初めて、収束を見るのです。双方痛みなどもっての外。どちらかに責を問い罰するか、それともどちらかが片方を始末しなければ、終わりませぬ」
クルエは俯いて机を見た。
「貴女の言いようは、私の家臣と夫君の一族への侮辱に感じるのだけれど。平地に乱を起こす者が如き言い草」
エーリは首を振った。
いや、ワーズ様は女王やハミ家に災いをもたらすとすれば、例え夫君やその一族であろうと排除に掛かるような人物だ。それで主君に怨まれる事になろうともだ。
モリス様にしたって、同じことだ。
ダイスやエキル家の野心はあからさまだ。
それを女王は気づいているのだろうか。
気づいているのではあるまいか。
それでいて、あまり考えないようにしているのではあるまいか。
だとしたら、どうなる?
エーリは心の中で祈った。
もし、双方の争いに発展した場合、役立つ方を残すべきだ。ハミ家臣だろうが、エキル家であろうが、政治的判断で、冷徹に判断し切り捨てるのだ。
それが女王に出来るであろうか。いや、出来てもらわねば困る。
ところで、女王の子供が生まれた以上、しなければならないのは乳母の選定である。
モリスはこの件に関して、非常に心折ることとなった。
何故なら、クルエが自分で育てることを固辞していた為である。
「陛下、貴人は自ら子育てをするものではありません。ですからこれは慣習なのです」
「ハミ王朝が始まった時点で、そんな慣習は無意味よ。私は自分で育てる」
クルエは首を振った。
「陛下の母君もきっと乳母で陛下をお育てになったはずです」
クルエは目を丸くし、そして顔をしかめた。
モリスは思い切った事を言った。
「政務を行いながら、子育てなど、どれ程の労苦になるやら。それもただの子育てではなく、王を育てなければなりませぬ。やはりしっかりした教養ある別の女性に任せた方が、後々為になりましょう」
クルエは唸った。
そして言う。
「あなた達は、私が政務から離れるのを快く思っていないのでしょう。私も政が疎かになるのは避けたい。とりあえずこの件はまたいずれ」
これ以上取り付く島もないので、モリスは下がった。
モリスは苦肉の策に出る事にした。
我がハミ家臣団にいないのは、年長の家臣であった。だからこそ女王に意見出来る者が極端に少ないのだ。
かつてはいたのだ。だが今は隠居の身である。
彼の父、サカヒ・ダイであった。
かつて女王の勘気に触れ、隠居に追い込まれた。そして今度余計な事をすれば、ただでは済まないかもしれなかったが……。
サカヒ・ダイは了承した。
ダイは女王に謁見を求めた。
老骨に鞭打ち城を訪れ、クルエに恭しく一礼した。
「サカヒ……」
クルエは目の前の老人を眺めやった。
「はは、最近もっぱら老け込みましてのう。杖がなければ歩けぬ程で」
ダイはにこやかに言った。
「ところで、わたくしが陛下に拝謁を求めたのは、理由がありましてな」
しかし抜け目なさそうな眼差しは健在であった。
クルエは身構える。
「陛下、王子や王女に乳母を宛がうべきです。特に乳飲み子の時分は必ずです」
クルエは溜息をついた。
「モリスにも言ったと思うが、私が育てる」
「陛下もお疲れであらせられましょう。政務と子育てで」
クルエは頷いた。
「私は親というものを知らない。未だに肖像画を見ても、父上や母上の実感がない。どれだけ寂しく、心細いか。そんなものを子供に味合わせたくない」
ダイは喉を鳴らした。
「陛下はこうしておられる。何がまずうございましょう」
「……その通りね」
クルエは苦笑いした。
「既に、乳母の適格者はこちらで選んでございます。家臣一同、いやハミ国中の皆が陛下の重責を軽うしたいと思うております。どうかその気持ちを汲んで下され」
クルエはとうとう折れた。と言うのもサカヒ親子意外にも、フクサマやカワデといったハミ家臣達からしつこく言われたからであった。
皆大体が同じ理由であった。
だが、もう一つ理由がある。それはハミ家臣の息のかかった乳母に王子や王女を育てさせる事で、エキル家による介入を少しでも防ごうというのである。
選ばれた乳母は、サカヒ・ダイの娘、モリスの姉であった。
フェイといった。父や弟同様、教養と知性に溢れ、かつ知勇兼備と謳われた。彼女が乳母となり、養育を施せば、立派な後継ぎとなるであろう。
「麗しきご尊顔を排し、恐悦至極に存じ上げます」
「うむ」
フェイは恭しく顔を上げた。
「我が子を頼んだわね」
「ははっ」
フェイは頭を下げた。
その時フェイは、我が子も伴っていた。サカヒ・イトルという名前で、まだこの世に生を受けてから一年しか経っていない。
だが、この子供はこれから、クルエの子供と共に育つことになるのだ。乳兄弟として。




