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第二幕 汚泥憎悪 心絶陣・惨

左手を使って生きてはいけません。

元々左手がない人なら、この条件をクリアするのは簡単だ。

しかし、左手がある人がこの条件をクリアするのは極端に難しい。

『あるのに使えない』というのは、とんでもないストレスになるだろう。

つまるところ、この物語の主人公はそういった歪みを抱えている人間である。


幸福と不幸とは絶対評価であり『~と比べて』には意味がない。

そんなことも分からない、子供な彼の物語。


ちょっとでも真面目な話が苦手な人は、飛ばしても構いません。

これは、多少真剣で書くのが楽な話。彼の設定を長々と語る話。

彼が状況に巻き込まれて、ただプッツンしただけの簡単なお話です。

 おれは自由なのだと、今はそう思って生きている。

 昔は……そうでもなかったような気がする。

 あいつと付き合うまでは、ずいぶんと窮屈な思いをして、生きてきた。

 あいつ……深沼妙子という、奇妙な男だ。

 あの男に関わる話は、実際の所はコメディでもなんでもない。良くてドン引きの半笑いが精々だろう。

 対して、おれたちの話は笑い話だ。

 あいつ曰くの『くーちゃん』という人間は、全存在の敵だ。だから敵視するし隙あらば殺そうとする。そこには矛盾もなにもあったもんじゃない。

 敵は殺す。当然のことだ。誰もが当然のようにやっている。

 トムキャットとジェリーマウスのごとき、仲良く殺し合っている。

 故に、仲間を十人も集めた。おれごとき独りでは敵わないから、わざわざ仲間を十人も集めて敵に対抗しようとしている。

 敵とは戦わねばならない。『くーちゃん』もそう思っているだろう。

 だからこそ、おれたちの話はコメディ的な笑い話でしかないのだ。


 しかし、あいつの物語は違う。


 一から十まで笑えない。

 普通のはずなのに狂った。狂わされた。全てがエゴでおかしくなった。

 そして、あいつ自身が汚濁で混沌で苗床だ。そうなってしまった。

 たった一つのことを封じられただけで、あいつは『異常者』に成り下がった。

 もうどうしようもないモノに、なってしまった。

 それこそ、全存在の敵などという、在ってはならないモノに好かれる程度に。

 それこそ、おれのようなどうしようもない、気狂いに惚れられる程度に。

 成ってしまった。


 それでも、あいつは笑うのだ。

 なぜならば、それこそがあいつの望みであり、渇望だからだ。

 心穏やかに生きたいと、そう願い続けて泣き続けた。

 そんなことは絶対にできないと、知りながら祈り続けた。

 祈りは届かないと知りながら、叫び続けた。





 僕は不幸じゃない。家族がいて、友達がいる。

 僕は不幸じゃない。お腹一杯食べられて、寒くも温かくもない。

 僕は不幸じゃない。治安の良い国に生まれて殺される心配もない。

 僕は幸福だ。

 幸福だから、この気持ちはここに捨てて行こう。





 お腹も痛かったけど、今は頭が一番痛い。

 くーちゃんに殴られた時も相当だったけど、今回のは一番痛い。

 なんせ……死んでも構わないという強さで殴られたのだ。痛くない方がおかしい。

 寝巻のまま連れ去られたせいか、肌寒い。

 ここはどこだろう?

「よう。目が覚めたかい? お嬢ちゃん」

「…………はい」

 髪を思い切り引っ張られて、僕は目を覚ました。

 暴力は理不尽で、理不尽こそが暴力で、それが今僕に向けられているらしい。

 心当たりは……ないこともない。

 ぎらぎらとした、飢えた獣のような目つき。髪は手入れがまったくされていないらしくぼさぼさで、頬のあたりに焼け爛れたような古傷が見える。

 よく鍛えられた野性的な体つき。恐らくは自分の意図とは違う鍛え方をしてしまった肉体。右足は義足だし、左手は手首から先がなかった。

 獣のような……獰猛な憎悪を隠そうともしない、男だった。

「あなたは、誰ですか?」

「お嬢ちゃんの友達の敵だ。で、お嬢ちゃんは人質ってわけだ」

「………………」

「けっ、さすがにあの異形の『友達』だ。胸糞悪い目だぜ……くそが」

 男は憎悪を隠そうともせずに、僕を睨みつけていた。

 と、男は胸元からなにかを取り出すと、僕に向かって放り投げた。

 咄嗟に受け取ったそれは、僕の携帯電話だった。

「電話しろ。お前らの言う『くーちゃん』に助けを求めるんだ。」

「………………」

 殺す? 殺すってことは、死ぬってことか。

 僕はココで殺されるらしい。

「さっさとしろよ、小娘。俺はそんなに気が長いほうじゃねぇんだ」

「くーちゃんがここに来たら、殺されますよ?」

「いいから四の五の言ってねぇでかけやがれ! そんなに死にてぇか!?」

 男は懐からなにやら黒いモノを取り出して、僕に向けた。

 拳銃……自動式拳銃だ。僕はモデルや型番に詳しくはないので、その拳銃がどの程度の性能があるのかは分からなかった。

 どう見てもそれは危険極まりない、殺人のための道具だった。

 緊張で喉が鳴った。

「分かりました……かけます。かけますから、銃を下ろしてください」

「命令できる立場だと思ってんのか?」

「………………」

 大人しく、僕はくーちゃんの番号をかけた……ふりをして、短縮で登録しておいた時報にかける。

 機械的な音が耳に届く。相手には多分届いていない。

 適当なセリフを頭の中で用意しながら、横目で相手の様子をうかがう。

「あ、もしもし、くーちゃん? いや、大したことはないんだけどさ……えっと、今ちょっと非常にまずい事態になってて。ああ、やっぱり分かる? 場所はどこかとか分からないんだけど、実はさらわれたみたっ!」

 話しながら重心を変えておいて正解だった。

 耳が痛くなる発砲音。男の指が引き金を引く前に、ぎりぎりで体をひねった。

 木の床を弾丸が穿つ。次の弾丸が放たれる前に立ち上がり、持っていた携帯電話を男に向かって投げつけた。

「ぬっ!?」

 予想外の反撃に、男が一瞬だけ怯む。

 その間に、横目で確認しておいた扉に向かって走る。ドアは開けっぱなし。外がどうなっているかは分からないけど、この状況よりはましなはず。

 発砲音。足に衝撃。

 外に出る。思った以上に暗い。周囲は木ばかり。山中? 確認している暇はない。

 愚行だと知りながら、僕は森の中へと飛び込んだ。



 真っ黒い森の中を歩きながら、僕は考えていた。

 あの男は僕を殺すつもりだ。

 恐らく……志郎かくーちゃんに負けるかなにかして、逃走してきたのだ。

 そして、逃げることに成功した。成功したからにはもう二度と刃向かうつもりはないのだろう。それでも、負けたくなくて、なんとか見返したくて、僕をさらった。

 僕を無残に殺すことで、溜飲を下げるつもりだったのだろう。

「っ……痛ってぇ……」

 弾丸が足を掠めていた。傷は浅いが、血が止まらない。

 慣れない夜の山中の上に、寝巻に裸足。当然のことながら歩みは緩慢だ。

 それでも、足を止めるわけにはいかない。

 殺すつもりの僕を拘束していなかったこと。

 扉が開きっぱなしだったこと。

 初撃の狙いが甘かったこと。

 これらを踏まえて考えると……相手は最初から僕を逃がすつもりだったということ。

 逃がしたうえで追い詰めて、殺すつもりだということ。

 これはあくまでハンティングで、僕は狩猟される側だということ。

 相手は夜道でも、僕の足跡や痕跡を追う程度は楽にやってのけるスキルくらいは持っている。絶対にそうだ。これに関しては確信がある。

 最初から、逃がすつもりなどない。

 全力の八つ当たりだ。僕を殺してくーちゃんを後悔させる。

 滅茶苦茶だ。

 無茶苦茶だ。

 しっちゃかめっちゃかだ。

「うあぅ!?」

 足を踏み外す。斜面を転げ落ちる。転げ落ちるだけで転落しなかったのは幸いだったけど、今の叫び声で相手に位置がばれたような気がする。いや、ばれただろう。

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 息が荒い。肺が痛い。足が痛い。体中のあちこちが全部痛いような気がする。

 死ぬのはこれより、もっともっと痛いのだろう。痛いのは嫌だ。

 心臓の音がうるさい。呼吸の音がうるさい。後ろから響いてくる足音がうるさい。

 いつの間にか足が泥に浸かっている。

 足が止まる。もう限界だった。

 膝が崩れ落ちる。パシャリと泥がはねる音が響いた。

 どうして僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだろう?

 少々どころか、かなり理不尽なんじゃないだろうか?

 いや、僕より理不尽な目に遭って不幸な人間なんてたくさんいる。たとえば、くーちゃんだ。あの子を見てると僕が少しはましな人間に思える。死んだ方がましだとは思うけど、くーちゃんほどじゃない。周囲を容赦なく巻き込むくせに、平気の平左で笑っていられる彼女よりは僕はよっぽど幸福だと思う。あるいは、仕事=生きる道になってしまっている忍者よりも僕はよっぽど幸福だと思うし、走る=生きる道になってしまっている練磨よりも、僕はよっぽど幸福だと思う。

 そして……あの人よりも、僕はよっぽど幸福だと思う。

 僕を殺すことでしかくーちゃんに仕返しできないあの男より、幸福だと思う。

 そんなこと、思ったことすらないくせに、呪いのように願い続けた。

 体が熱い。呼吸が熱い。心が熱い。

 鎖が千切れるような感覚。戒めが解かれたような充足。僕は確かにここにいる。

「…………さない」

 我知らず、その言葉を呟いている。

「……許さない」

 心の底から湧きあがる、黒くて重い本当の言葉。

「絶対に、許さない」

 それは本音だった。心の底からの言葉だった。

 目の前が真っ赤に染まる。意識が真っ黒に染まる。森の闇の深さが愛おしく思える。

 ゆっくりと息を吐く。もう苦しくはないが足が痛くて歩けない。

 ここで死ぬ。何の意味もなく殺される。殺されなくても野たれ死ぬ。

 それなら……今まで捨ててきたものを、ここで回収しよう。

 諦めよう。死ぬんなら諦めよう。今まで必死にやってきたことを、諦めてしまおう。


 心に捨ててきたものを、本当に大切なものを、拾い集めよう。


 あと何分生きていられるか分からないけれど。

 それだけはやっておこう。

 それが、僕が今本当に心からやりたいことだと、思えたから。



「くーちゃんよ。自由とはなんだろうな?」

「縛られていないってことだろう。ぼくにはよく分からない感覚だけど」

「その通りだ。そして違う。自由とは、自分が自由だと思うことだ」

「そいつは難しいな。超難しい。人はすべからく縛られている。自由であることが己の幸福に直結するとは限らない。愛情でがんじがらめの方が幸せかもしれない」

「その通りだ。では、不自由とはなんだろうな?」

「自由の逆だろう? というか、この言葉遊びはいつまで続く? ぼくがお前を壊滅させなきゃ終わらないのか? お前がラスボスだか最初の敵だか知らんが、第二第三の敵が控えちゃってるから、さっさと終わってくれないかな?」

「その通りだ。自由とは不自由の逆だ。しかし……本当の不自由は別にある」

「は?」

「おれたちの言う『不自由』とはレベルが違う、階級が違う、階梯が違う。そういう次元の違う不自由が、世界には存在している。おれはそれを知っているから、今ここでお前に消されないという確信があるんだよ……くーちゃん」

「知ったこっちゃないね」

「知っておいた方がいいぜ。なにせ、お前に関わることでもある」

「ぼくに関わることなんか一番知ったこっちゃねぇんだよ、ゴミ虫」

「知っておいた方がいいぜ。なにせ、お前の友達に関わることだからだ」

「っ!?」

「驚いたな? いいことだ。自分はともかく友達は大事にすべきだ。だから教えておいてやろう。その不自由とは……お前が絶対に無視できない存在、あの忍者が使用する恐るべき『忍法黒風』と性質を同じくするものだ。同一にして異属だ」

「………っな……」

「そもそも、おかしいとは思わなかったか? 能力、異能、才能、性格、性癖、嗜好、思考、どれも全て例外なく、その人間の根幹に関わるものだ。根幹の発露こそが個性であり個人なのだ。ならばお前の友達が抱える『到達を妨害する』という充絶陣はどういうものだ? なぜ到達を妨害する? どうして至ることを禁止する? なにがどういう風に到達を妨害しているのかお前は思考しているのか?」

「………………っ」

「思考して、結論に達していて、あえて言わないか。友情だな。愛情と言い換えてもいい。そう、お前の思う通りだよ。『あいつが望んでいるから』こそ、充絶陣なのさ。邪魔も阻害もあいつの意志で願望だ。願望を体に閉じ込めておけないからこそ、充絶陣。きっかけは色々あるが、あいつが望むから到達は阻害されるんだ」

「あいつはそんな奴じゃない!」

「知っている。だが、お前にも欲望はあるだろう? 人に言えない真っ黒い部分を多少表に出すことはできたとしても、絶対に言えないことの一つや二つはあるだろう? あいつはそれがでかすぎるだけだ。誰だって自分にルールを設ける。してはいいことといけないことを区別する。あいつはそれを十重二十重のように己に課した。まるで鎖のように。我慢に我慢を重ねた。忍者のように至り忍者のようになった。忍び耐える者と言ったな。まさにその通りになったわけだ」

「そうだったとして……それでも、あいつはぼくには優しいんだ」

「知っている。だから知っておけとおれは言う。あいつはお前には優しい。それが全てでいいのだと、おれも心の底から思う。だから知っておくべきだ。『たかが他人事』と思ってもいい。それでも知っておくべきだ」

「ぼくに、なにを知れと言うんだ?」

「自分が自由だということ」

「………………」

「おれたちは、笑い、怒り、悲しみ、楽しむ。それが許されているのだ。屈折させてはいけない。諦めても妥協してもいけない。自分の心を自分で認めなくてはいけない。感情の自由の一切は許されている。表に出せなくとも『自分は今こう思っている』と、自分の感情を大切にしなくてはいけない。……なぜなら、自分の感情を摩耗させること以上の苦痛はない。認められもせず、否定された感情は溜まる。心の奥底に」



「憎悪として、巡り続けるのだから」



 血の匂いを辿って、男は少女を探していた。

 この森の中は男が住み慣れた場所だ。さすがに、普段は夜に出歩いたりはしないので目印を置きながらの追跡になるが、それでも少女を見つけるのは容易い。

 夜目も利かず、傷を追った足を引きずって、素足で森の中を歩くのだ。

 すぐに力尽き歩けなくなるだろう。

 男が探すのをやめれば、遭難して三日と経たずに死に至る。

 少女の命はもう完全に『詰み』だったが、男は少女を探すことは諦めない。

 ズキリ、と今はもうない左手が痛んだ。

「くそっ……あの女っ!!」

 くーちゃんと呼ばれる誰かに手玉に取られ、忍者に左手を斬られた。

 元々、男は仲間内では『最低』と呼ばれていた。綺麗に生きてきたつもりもないし、汚く立ち回って生きてきた。それでも成果を上げ続けてきた。死ぬ奴が悪い。負ける奴が悪いと自負を抱きながら、生きてきた。

『でも、君には心から欲しいモノがある。もう分かってるんだろ? 君が欲しいモノは人からの承認。表面上でもなんでもいいから《理解》が欲しいんだ』

 理解。

 周囲からの理解。

 この上なく人の心の隙間や傷を突くのが上手い女だった。

 目が死んでいるくせに、人間のように生きている女だった。

 女が関わっただけで、作戦はあってないようなものだった。最低は敗走し、代替は逃走し、勤勉は出番すら封じられ、首領が結局足止めを担当する羽目になった。

 十人の仲間のうち、三人が手も足も出ず、ボスに頼ることになった。

 滅茶苦茶で、無茶苦茶だった。洒落にならないほどグチャグチャだった。

 一矢報いなければ気が済まない。

 あの澄ました顔を、後悔に歪ませてやらなければ許せない。

 そう思わせるなにかを……『くーちゃん』という存在は持っていた。


 あああああああああああああアァァァッ!!


 最低の耳に、絶叫が届いたのはその時だった。

 まるで猿のような叫び。理性をかなぐり捨てたかのようの絶叫。

 断末魔とは程遠い。なにかが解放されたような、怖気が走る叫び声。

「っ……なんだ?」

 嫌な予感が背筋を走る。これ以上先に行ってはいけないと本能が警鐘を鳴らす。

 それを、理性で振り払って声の下に向かった。

 うっそうと生い茂る森の中。彼女を見つけ出したのはそれから十分後のことだ。

 少しだけ拓けた場所。逃げても無駄だと悟ったのか、彼女は背を向けて座っていた。

「おい、お前……」

 一歩踏み出して、違和感を覚える。

 ばしゃりと音が響いて、足首までが地面に埋まった。

「あ?」

 足を引っ張るが、まるでびくともしない。

 ずぶずぶと、少しずつ足が沈んでいく。少しずつ……まるで、捕獲されているかのように、足首から膝まで埋まった。

 最低はそこで気づいた。

 なまじ夜目が利くばかりに、気づいてはいけないことに、気づいてしまった。

「な……なんだよ、こりゃ……」

 背筋が凍る。戦慄する。あまりのことに、咄嗟に声が出なかった。


 無数の小さな黒い手が、彼の足を泥の中へと引き込んでいた。


 考えるまでもない。これは自分が追い詰めていた少女の仕業だ。

 総毛立ちながらもそう判断して、最低は少女に銃口を向けた。

「テメェ……っ! この妙な泥を今すぐ解け! やめねぇと殺すぞ!」

「……さない」

「あ?」

「許さない」

 少女は、ゆっくりと顔を上げた。

 弱者の憎悪など慣れ親しんだものだと、最低は思った。

 しかし、違った。喉から出かけ、押し殺したものは間違いなく悲鳴だった。

 根源の恐怖。触れてはいけないものに触れたのだと、直観的に感じた。

「許さない許可しない許容しない堪忍しない赦免しない承諾しない容認しない受け入れない聞き入れない了承しない黙認しない見逃さない勘弁しない黙認しない容赦しない黙許しない免罪しない……お前を、絶対に赦さない」

 さっき山小屋で見た少女は、どこにもいなかった。

 目から流しているモノは涙ではなく、最低の体に絡み付いている黒い泥だ。

 全身の罅から流れ出ているものは、最低の体に染みつこうとしている黒い泥だ。

 最低を罵倒する口の奥に見える舌に『赦不』の二文字が、赤く浮かび上がっていた。

「赦さない。お前はここで挫折しろ。僕みたいな路傍の石に躓いて、折れるんだ」

「っ……なっ……」

「赦さない。お前のように憎悪を簡単に吐きだす人間が、僕は一番嫌いだ。妬ましい羨ましい狂おしい恨めしい。それは僕が絶対にできなかったことだ。だから挫折しろ」

「……くっ……こ、この、化物がァ!」

「化物じゃない。異常者だ」

 ばけものに失礼だろうがと、少女は嘲笑いながら言った。

 最低はここでようやくこの少女の本質に気付いた。嬲り殺そうなんて余裕はとっくになくなっていた。そもそも、前提が違っていたのだ。

 相手は無抵抗のか弱い少女などではなく。

 牙を持ち、憎悪を持って人を圧殺する、現象そのものだった。

 躊躇なく引き金を引く。この距離ならば外したことなど一度もない。

「………………な」

 引き金を引いたつもりだった。が、指は微動だにしない。

「泥を毛穴から浸透させて、体のコントロールを奪った。もうアンタに自由はない」

「ぐっ……ぐぅぅぅぅぅっ!」

「僕はこれを『身絶陣・贄』と呼んでいる。中二っぽいけど、怖い名前にしとかないと簡単に使っちゃいそうで怖くてさ。……僕が誰も憎んじゃいけないことを忘れそうだから仕方ない……でも、後遺症もないし、自殺もさせないから安心しなよ」

 誰も憎んじゃいけないと言いながらも、憎悪を撒き散らす少女は矛盾そのものだ。

 しかし、それはもうどうしようもないものだと、最低は悟った。

 自分の死も不可避なものだと、悟った。

「僕はこれを親切陣と呼ぼうと思った。でも、元カノには『親切じゃなくて心折だな』って言われたよ。だからちゃんと……それらしく、おっかない名前にした」

 黒い泥が、最低の全身を包み込む。

 薄く笑いながら、少女は『それ』の名前を口にした。



 心絶陣・惨。



「憎むなと、誰より自分自身がそう語る。人を憎んで罪を憎めと、自身が叫び続けた結果がアレだ。憎しみを抑圧してきた結果、あいつの憎悪は内に留まらずに外に溢れて人を食う。……もっとも、それは誰もが同じだ。抑圧した結果はどこかに出る。自己に向かえば暴食やアルコール依存。他者に向かえば暴力、依存、寄生。どちらも結果は同じだ。最終的には己や他人や環境を崩壊させることになる。あいつの場合はそれが少々歪なだけだ。なにもおかしいところは、ない。抑圧してきたから崩壊するのだ」

「知っているよ……そんなことは」

「ならば、なぜ自分の友人が例外だと思い込んだ?」

「………………」

「あいつは強い女だ。少々強過ぎた。心から溢れる憎悪を抱えながら、普通に振舞うことを普通にやっていた。自分がストレスに弱過ぎることを……人間社会には当然適応できないことを熟知していた。いつか誰かを巻き込んで破滅することを、自分が一番よく知っていた。人に背を向けるしかないと確信していた。お前にそれが分からなかったわけじゃなかろう? 好んで人に害意を向けるお前は、なにより好意が怖いのだから」

「そうだ。ぼくは好意が怖い。ぼくみたいなのを好んでくれる『誰か』がいないと信じて生きてきた。けれどそんなでもなかった。嫌う人の方が圧倒的に多いけど、好んでくれる人も確かにいた。……だから怖い。人間関係は何より怖い。嫌われたくない」

「相変わらず可愛げのない女だ。怖いことを怖いと認められる人間が、この世に何人いると思っているんだか……まぁいい。それなら、もう一つ教えよう」

「それも悪い話だろう?」

「いや、良い方の話だ。少なくともお前と関わってあいつが死ぬことはない。嫌われたりは絶対にないだろう。巻き込まれたという意識すらないかもしれん」

「…………え?」

「あいつの充絶陣と『敵対』できるのは、それこそ好意から余計なお節介を焼こうとする幾島くらいなものだ。人間である限りあいつを殺すことはできん。殺す前に……間違いなく、心の方を折られるだろう」

「どういうことだよ? 充絶陣は到達を妨害するだけの能力じゃないのか?」

「能力の細分化と極端化だよ。あいつは自己に関してだけは本当に徹底的なのさ。そして、忍法黒風と同様に、応用範囲が劇的に広い。おれが知っている二つですら、敵を壊滅させるには充分過ぎる」

「いや、それはおかしいだろ。あの子がそんな攻撃能力を持っていたら、いくらぼくでも気づくはずだ」

「そりゃそうだ。そもそもそれは攻撃じゃない。あえて言うなら補完だよ」

「………………は?」

「良い夢を見せるだけの能力なんだよ。憎悪を媒介に対象の心に干渉し『心に必要な栄養』を、夢の中で補完する能力。寂しいなら自分の側に誰かがいる夢を見せてくれる。愛情が足りないなら愛を囁いてくれる。ダイエットでお腹が減っていたら上手いものがたらふく食える。もてたいんだったらハーレム状態だ。元々は、ストレス軽減のために編み出したそうだ。睡眠がなにより大事だからって理由でな」

「それがどう『敵を壊滅させるのに充分』なんだよ?」

「栄養は行き過ぎれば毒だ。リアル過ぎる虚構はただの現実だ。演出は自分自身なのだから、都合のよいことは起きない。しかし……人は自分が見たいものだけを見る。大抵のエンターテイメントは、本当に都合の悪いことは起きない。ご都合主義がまかり通る」

「………………あ」

「その通りだ。現実に戻った時が問題だ。人はそのギャップには耐えられない。積み上げてきたことが、今までの人生が、全てが『良い夢でした』で終わることに、耐えられる人間なんてそうそういない。良い夢にしろ悪しき夢にしろ例外なく茫洋と忘却してしまうのは『はっきり覚えていたら色々と面倒だから』に他ならない。ましてや現実と同じリアリティの良い夢など現実で生きるのに邪魔でしかない。……そんなモノに耐えられるのは、絶望している人間か、諦めた人間か、毎日が楽しい奴。もしくは、人と関わって誤魔化すしかない。人と語り合ってもみ消すしかない。記憶が薄れるのを願ってな」

「………………」

「だから、お前には効かない。おれにも自殺したくなる程度にしか効かない」

「……それは効いてるって言うんじゃないか?」

「そうとも言う。まぁ、それはどうでもいい。重要なのはこんな滅茶苦茶で電波な設定のあいつを黙って放っておいていいのかという一つの疑問だけだ。あいつは既にドロップアウトを決め込んでいる。リタイアを決め込んでいる。逃げ切れないなら死ぬとまで断言された。自分はもう人間の構築した社会の中では生き続けることはできないと、あいつは決めてかかっている」

「………………」

「おれも考えた。お前も考えろ。おれの結論は『気に食わん』だったがな」

「ぼくだって……気に食わないのは、同じだよ」

「そうか。気が合うな。あるいは気が合わんのか。まぁ、関わるつもりなら覚悟を決めておくんだな。滅茶苦茶で電波で覚悟も決めている、そんな人間を相手にするには真剣さ以上の覚悟が要る」

「安心しとけよ、クズ虫。僕はいつでも相手を殺すつもりで付き合っている」

「なら、いいがな」



 目が覚めた時には、なにもかもが終わっていた。

 頭がすっきりしていた。倦怠感がなくなっていた。胃痛や胸のむかつきもなくなっていたし、悪夢で目が覚めることもなかった。

 熟睡以上に熟睡していて、晴れやかな気持ちで目を覚ました。

「………………」

 このまま死んでしまってもいいと、最低は思った。

 幸せだった。夢の中は幸せに包まれていた。そこには全てがあった。

 都合がいいと分かっていたのに没頭した。

 現実の全てを忘れて、夢の中で一つの人生を終わらせた。

 生まれて、生きて、殺さず、愛し、今の自分とは違う誰かの人生を歩んだ。

 満足して生きて、満足して死んだ。できないことはたくさんあったけど、できたこともたくさんあった。親がいて、友達がいて、恋人がいて、嫁がいて、子供がいて、孫がいて、苦しかったけど愛と希望に溢れていた人生だった。

 こことは違う。ここは違う。違和感しかない世界。

 不意に右手に握られているモノを見た。使い慣れた殺人道具。

 死んだらあの場所にもう一度行けるだろうか? そんな風に思った。


「介錯、してあげよっか?」


 不意に響いた声に、顔を上げる。

 白い髪に赤い瞳と白い着物。左腕はその半ばからなく、腰には大小二振り。

 忍者と拮抗し得る誰か。一緒に仕事をしたこともある。

 阿修羅、と呼ばれる少年がそこに立っていた。

「同輩のよしみで介錯くらいなら無料でやってあげますよ、最低」

「………………」

「断っておきますが、これは善意です」

「悪意しか見えねーよ、馬鹿野郎」

 のろのろと立ち上がって、最低は深く深く溜息を吐いた。

「……なぁ、阿修羅。お前は人斬りだが……人を殺すのは疲れないのか?」

「毎日面倒事で疲れてばっかりですが、人殺しは楽しいです」

「俺はもう疲れた。いや……いい気分過ぎて、なんにも考えたくねぇ。昨日まで抱いていた憎悪が、なんにもなくなっちまった。いい気分過ぎて、胸に穴が開いたみてぇだ」

「………………」

 最低の表情は茫洋としていた。

 笑っているような、泣いているような、どちらともつかない表情。

 嬉しいわけでもない、悲しいわけでもない。

 今まで自分が大切に抱えて込んでたものを、そっくりそのままどこかに置き忘れてしまった子供のような顔をしていた。

「悪いが、俺はもうリタイアだとボスに伝えておいてくれ。俺の後釜はこの前渡したリストの中からテキトーに見繕ってくれや。斬るんなら自由にしてくれ」

「では」

 阿修羅は笑いながら、腕を少しだけ振った。

 鈴が鳴ったようなチリンという音が響き、最低が握っていた拳銃が両断されて地面に落ちた。

「ボスには殺せと言われていますが……まぁ、これで殺したことにしましょう。最低という男は、この拳銃の切断を持って死んだのです」

「命令違反か? お前らしくもねぇな」

「そこに転がってぐーすか眠っている女は、私にとっては天敵で、ボスにとっては想い人なのです。あなたが殺してくれないかなぁと期待していたんですが、残念無念ですよ」

「悪かったな」

「いえいえ、悪くなどありません。で……あなたはこれからどうするつもりですか?」

「知らん」

「では、これを進呈しましょう」

 阿修羅が懐から取り出したのは、タブレット携帯電話だった。

 清々しい青空のような心境に、暗雲が立ち込めたような気がした。

「メールで次々と指令が送られてくるので、その通りにお願いします」

「テレビの企画かよ!」

「今回は温泉街に行って、お土産を試食してレポートをお願いします」

「テレビの企画か! っつーか、アホか! 絶対にやらねぇぞ! お前らのことだから一回引き受けるとズルズルで色々やらせるじゃねーか!」

「今回の報酬は超高性能の義手です。傷を開いて神経と筋肉を接続するタイプですが」

「超痛そうじゃねーか! 手のことはチェルシーに頼むわ!」

「義手の方が格好いいので、義手でお願いします」

「義手ならお前が一番つけるべきだろーが!」

「隻腕の方が格好いいんで嫌です。じゃあ、行ってきてください、最低改めみんなの慰労会プロデューサー。略してみんなのP」

「やめろおおおおおおおおぉぉぉぉぉォォォォォ!!」

 最低じゃなくなったみんなのPは叫んだ。心の底から叫び続けた。

 もちろん、お約束というかなんというか、彼はこの時を境に死んだ方がまし級の酷い目に遭い続けその全てに生還することになるのだが、それはまた別の話である。



 夢は終わる。

 現実が始まる。

 状況は終わる。

 意地が始まる。





 登場人物紹介


 ■■■■■:通称くーちゃん。恋する乙女。目と魂は死んでる。

 ???? :元カノ。

 最低   :リタイア。

 阿修羅  :人斬り。



 深沼妙子 :異常者。毎日一人大戦争。

言い忘れましたが、異常者の横の★マークはストレスゲージです。

★マークが多くなると、なにか起こりますw


次回はコメディに戻ります。特に考えてはいませんが、恐らく彼の意地の話。

どんなにつまらないことでも、どんなに他人から蔑まれることでも、どんなに

低評価であっても、頑張っている事実は曲げられないというお話。

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