夜の境
『坂将軍』と云えば、大和の民からは畏敬を、蝦夷からは軽蔑を持って呼ばれる、坂上御大将の事に他なら無い
多賀城の城塞は海辺に位置して居り、冬には生命を拒む、切り裂くような風で住まう者達へと接する事が多い
戦争は眼に視えて膠着を───武者達にとって苦しい形の膠着を迎え、軍議は夜を徹する事も少なく無かった
都を離れて、既に相当な月日が経過して居る
武者の戦い方は夜戦には適さないが、蝦夷は存亡を賭けて凡ゆる手立てで戦争を行う
軍議の度に『途方も無い』『これでは、この世そのものと戦うようなものだ』と言う者が居たが、誰も彼を臆病者と言う事はしなかった
今宵も坂将軍は騎馬した姿で、月も無き夜の中、家路を歩いて居る
伴を連れる事はしない
坂将軍は疲弊して居たが、それでもなお勇敢なる将であり、蝦夷もまた、大和族との本格的衝突を恐れ、暗殺という手段を用いる事が無かったからだ
そして御大将が伴を連れぬ理由は、もう一つだけ有った
主を待ちて篝火と門衛の残された、多重の城門を抜けて
下馬し、坂将軍は自らの居室へと辿り着く
その頃にはもう、屋敷の多くの灯りが消され始めて居た
彼は生粋の武人であり、従者を伴わずとも鎧を脱ぐ事が出来る
或いはこれは『事情が有り苦心する中で、どうにかして備わった技術』なのかも知れなかった
「油断しましたね、叔父上」
聞こえる頃には、視界は既に傾き
武勇の傑物たる坂将軍は、容易く床に転がされて居る
『足を掛けられて転ばされたのだ』とは解るが、これが初めてと云う訳でも無い
幾度も幼子に良いようにされると云うのは、尋常では無かった
とはいえ、近頃は音を立てて転倒しない事までは出来るようになってきた為、屋敷を挙げて大騒ぎする事までは減り始めて居たが
「もう少し、手加減は出来ぬのか」
将軍は強く叱責する事も出来ず、困った様に、声変わりさえして居ない童子へと言う
戦場で在れば、矢のように速く槍のように鋭く生命を奪う事で知られるこの男は、それでも甥にだけは、どうしても頭が上がらないのだった
それにしても、奇怪な子供では在った
甥子は『服を纏う』と云う事をせず、雪のように白い肌に黄金で出来た腕輪と脚輪だけを付け、それでいて寒さに震えると云う事が無かった
瞳は白金の色に輝き、考えの伺い知れない光を灯して居る
この世のものとは思えなかったが、数名の陰陽師に診せてもなお、彼らは口々に『甥子殿は』『人に御座います』と答えるだけだった
凡そ魔の物に在るとされる邪の気配が、甥には無いのだと言う
「では、何なのだ」と思わずには居られなかったが、その答えを出せないからこそ、皆が『人に御座います』と告げるのだろう
そして今となっては、もう細かな事は気にならなくなり始めて居た
将軍は疲れ過ぎて居たし、甥は蠱惑的で在り過ぎたのだ
「叔父上さま」
「これが欲しいのでしょう?」
倒れ伏して横になった視界
将軍が倒れる時に甥子が灯りを消して、暗くなった視界
外だけが静かに、幽玄な雪明かりに包まれて居る
顔に向けてゆっくりと近付いて来る、甥子の足底は、雪よりもなお白く透き通って視えるのだった




