初台フヅクエ
「初台フヅクエ」
結構不思議なことなのだけれど、初台という場所をあまり知らない。
僕は幡ヶ谷出身で、初台は京王新線で隣の駅で、なのに知っているのは東京オペラシティのくまざわ書店くらい。
最近、初台のフヅクエ(読書喫茶)に何回か行く機会があって、初台について思い出を掘り起こしている。
フヅクエで今読んでいるのは、北京で買った、朱鋭『哲学家的最后一課』で、中国語だから骨が折れるので、フヅクエを利用している。
フヅクエの机に本を広げて、ちまちま読んでいると外に声がする。
元気で、可憐な声だ。
それは女子高生のもののような気もするし、男子高校生の掛け合いのようなものな気もする。
うまく息継ぎができないこの国で、そういう声が聞こえると、涙を催す。
初台には塾の友達が住んでいた。
二人で小学生の塾帰りにくまざわ書店に寄って、楽しく漫画の話をした。漫画の貸し借りもした。
初台はそういう意味で思い出がある。
山手通りと甲州街道が交差するそこは、新宿から遠ざかる住宅街への入り口で、まるで塚のようにオペラシティが立っている。
僕は初台からバスに乗って代々木八幡へ帰る。渋谷区で何回か引っ越しをしていたから、その時は代々木八幡だった気がする。
小学生の頃の、なんとも言えぬ閉塞感が、僕は今でも忘れられない。
バスは吐き気を催すくらい沈鬱としていて、その時の気分にピッタリだった。か、平成の社会世相に完全に同期していたか。
将来がわからなくても楽しいのは力がある人だけだ。小学生には、未来を作る能力はない。
楽しいことというのは大人にならないとわからない。父が言っていた。三十になった今は、それがなんとなくわかる。
朱鋭が恐れについていみじくも言っていたが、社会的な人間でなく、肉体的な人間になってしまうと、恐れは顕在化する。
僕は恐れなかった。社会化されていたから。
そうでなければあんな、魑魅魍魎が跋扈する新宿の裏庭を歩けるだろうか。
無邪気であるのは友達に対してだけで、家族には距離を置いていた。
***
初台は幡ヶ谷が薄黄色で、代々木八幡が濃いオレンジなら、ちょうど薄いブルーかアイボリーに近い雰囲気を持っている。
初台は素朴な友達が多くて、イラつきもした。
温かい家庭のイメージがある。
それが羨ましかったのかもしれない。
甲州街道沿いの公園遊歩道で、噴水の道で「葉っぱレース」をしたのも懐かしい。
さっき、京王新線に潜る時、加熱式のタバコを吸っている若めの女の子とすれ違った。二人組で、片方は電話していて、冗談めかして怒っていた。
そのニュアンスを伝えるのは難しいけれど、昔から話し方は変わらない。
僕とてそうやって怒る。
「いいよいいよ。忙しんでしょ? 大丈夫、今度埋め合わせしてくれればいいから。うんうん。うんうん。じゃあ、またねー」
最後の「またねー」だけ抑揚がないのが笑える。
コミュニケーションを楽しんでいるというより、お互いの役割を確認する作業に悦びを見出しているのか。
でも言語的なやりとり、記号の交換だけに終始しているわけでもない。
強いて言うなら、自分の声を聞くのが楽しいのか。
自分を確かめるために友達に話しかけているのか。
***
フヅクエで飲み物を楽しみながら本を読んでいると、また声が聞こえた。
金曜日の楽しげな声。
それは、病気だった時本が読めずに苦しんだ僕が、今、本を読んでいることの快哉を代理で叫んでくれているような、空間との同期だった。
新宿で働くようになって、僕は、週末はフヅクエに行こうかなと思うようになった。




