混乱
驚いて目が覚めた。
部屋は薄暗く、ソファで寝ていたせいで首が痛い。
スマホを手に取る。
7時35分。
何度か瞬きをして――思い出した。
「……そうだ。ナツキと約束してたんだ」
勢いよく立ち上がり、浴室へ向かう。
冷たい水で顔を洗うと、頭は冴えた。
でも、胸の奥に残る重さは消えない。
着替えながら、ふと気づく。
――家には、まだ誰もいない。
スマホを確認する。
母からのメッセージ。
「家で待ってて。今日は夜勤なの」
それでも、鍵を手に取った。
画面には、ナツキからの通知が並んでいる。
「もう着いたよ」
「来る?」
「イツキ……」
小さく息をつく。
――外に出た。
会場に着くと、すぐに分かった。
光に照らされた場所に、ナツキが立っている。
ちゃんと、準備してきていた。
服も整っていて、髪も丁寧にセットされている。
そして――表情が、いつもと違った。
きっと普通の男子なら、
驚いて、
惹かれて、
目を奪われていたはずだ。
でも――
俺は違った。
頭の中には、まだアヤエの姿があった。
あの言葉が、離れない。
それでも、笑顔を作る。
「遅れて悪い」
「もう来ないかと思った!」
首を横に振る。
そして――夜が始まった。
会場は、光と音で満ちていた。
ナツキは子供みたいに、次々とゲームへ向かっていく。
ボールを投げて、
景品を取って、
負けては文句を言って、また挑戦して。
その笑顔を見ていると――
少しだけ、心が軽くなる。
あんな風に笑っている姿は、悪くない。
脅しも、敵意も、何もない。
ただ、楽しそうな彼女。
しばらくの間、重さを忘れていた。
でも――
沈黙が訪れるたびに、思考は元に戻る。
すべてが終わり、
通路の端のベンチに座った。
光が、目の前で瞬いている。
ナツキが、少し近い。
「イツキ……今日はすごく楽しかった」
小さな声。
「また、こういうの……一緒に行きたい」
言葉を選ぶ。
「楽しかったならよかった」
「でも……他の人とも行けばいい」
「その方が……俺といるより気楽かもしれない」
どうして、そんなことを言ったのか分からない。
――ここにいる資格がない気がしたからかもしれない。
彼女は、さらに近づく。
まっすぐ目を見てくる。
「私は――あなたと行きたいの」
迷いのない目。
普通なら、心臓が跳ねるはずだ。
でも俺は――
押しつぶされるような感覚だった。
期待されている。
でも、応えられない。
「……ありがとう、ナツキ」
優しく答える。
少し迷ってから続けた。
「また行こう。いつでも付き合う」
嘘じゃない。
でも――本心でもない。
スマホが震えた。
母からの連絡。
時間を見る。
――1時15分。
こんなに経っていたのか。
「送っていこうか?」
ナツキはすぐに頷いた。
帰り道。
言葉は少なかった。
家の前に着く。
「じゃあな」
背を向ける。
そのとき――
手を掴まれた。
強く。
振り向く間もなく、
彼女が近づく。
「帰る前に……これ、したい」
止める間もなく――
唇が触れた。
――世界が、静かになる。
想像とは違った。
嫌じゃない。
むしろ――
温かい。
一瞬、思考が止まる。
何も考えなくていい時間。
ただ、落ち着いていた。
スマホが震えていた。
でも、無視した。
そのまま、数秒。
離れる。
ナツキは、少し照れながら微笑んでいた。
俺は――少し遅れて現実に戻る。
別れを告げて、歩き出す。
数歩。
そして――
戻ってきた。
あの感覚。
さっきより、強く。
罪悪感じゃない。
恐怖でもない。
もっと深い何か。
足が止まる。
――なんでだ?
どうして、嬉しくない?
指で唇に触れる。
まだ、温もりが残っている。
それなのに――
頭に浮かんだのは、
ナツキじゃない。
――アヤエだった。
その瞬間、理解した。
アヤエに彼氏ができたことが辛いんじゃない。
――自分が、その立場にいたかったと気づいたことが、辛いんだ。
モニカのことばかり考えていたせいで、
気づかなかった。
ナツキとのキスも――
その気持ちを消してはくれなかった。
むしろ、余計に分からなくなった。
あれは安心じゃない。
――逃げだった。
本当の自分と向き合わなくていい、ほんの一瞬の。
歩き出す。
スマホがまた震える。
母からだった。
車がパンクして、帰りが遅れるらしい。
……何も感じない。
じゃあ――
俺を乱してるのは、なんなんだ?




