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感情

夢を見ていた。

――いや、夢というよりは記憶だった。

母の言葉の記憶。

中学一年の初日。

制服は少し大きくて、鏡の前で強がってみても、手のひらの汗は止まらなかった。

怖かった。

でも――目標はあった。

いい成績を取ること。失敗しないこと。

玄関を出る直前、母に呼び止められた。

「イツキ、ちょっといい?」

振り返る。

あのときの表情は、今でも忘れられない。

強く抱きしめられた。

「イツキ……これからの人生、誇れる自分になりたいなら、人一倍努力しなさい」

「友達もできる。でも、あなたを傷つけたり、道を逸らそうとする人にも出会うわ」

少し離れて、肩に手を置かれる。

「でもね、これだけは覚えておいて」

声が、わずかに震えた。

「絶対に、女の子を傷つけちゃだめ」

「気持ちを弄んじゃいけない」

「もし誰かが心を預けてくれたら、受け取れなくても大切にしなさい」

喉が詰まる。

「いつも敬意を持ちなさい。正直に愛しなさい」

「愛せないなら――せめて壊さないで」

そして、続けた。

「お父さんみたいにはならないで」

「同じ過ちを繰り返さないで」

「捨てないで、無責任な約束をしないで」

「あなたに希望を向けてる人を、泣かせないで」

目を逸らした。

「母さん……そんなこと言わなくても」

「父さんが他の家庭に行ったことくらい分かってる。でも、今は考えたくない」

彼女は、悲しそうに微笑んだ。

「いつか分かるわ」

小さな間。

「約束して。誰も“愛したことを後悔しない男”になるって」

言葉は出なかった。

――でも、頷いた。

アラームが鳴る。

目を覚ました。

「……そうだ、今日は金曜か」

体を起こし、ベッドを整え、歯を磨き――いつもの朝。

家を出た瞬間、少し驚いた。

アヤエが、外で待っていた。

普段は途中で合流するのに、今日は最初から。

何も言わず、一緒に歩き出す。

いつもより、綺麗に整えている。

髪も、制服も。

――綺麗だった。

でも、その表情はどこか遠い。

ただ可愛く見せたいだけかもしれない。

もともと目を引く容姿だし、それに気づいただけかもしれない。

それでも――

頭に浮かんだ疑問が消えなかった。

――俺は、母の言葉を守れているのか?

会話もなく学校に着く。

一日中、何もかもが普通だった。

――普通すぎるくらいに。

でも。

アヤエは、一度も話しかけてこなかった。

化学の実験中ですら、視線を避けていた。

昨日のこと、知ってるのか?

集まりのことか。

それとも――アジアとのキスか。

考え込む。

でも……

なんでこんなに気になるんだ?

ただの友達だろ。

――ただの。

……なのに。

このまま一緒にいたら、いつか特別になる気がする。

それが、怖い。

混乱している。

きっと彼女も同じだ。

休み時間。

席を立とうとしたとき、声をかけられた。

「イツキ、一緒に買いに行こ? ね?」

ナツキだった。

手を掴まれ、そのまま引っ張られる。

反応する暇もなかった。

売店に着くと、彼女は少し落ち着かない様子だった。

「……お金、忘れたのか?」

しばらく沈黙。

「……うん」

ため息。

「なんで嫌な予感が当たるんだろうな……」

買って渡す。

彼女の目が輝いた。

「ありがとう、イツキ……ほんと優しいね」

その言葉に引っかかる。

つい最近、俺に近づくなって脅したばかりなのに。

……でも、長い付き合いだ。

最後の一年くらい、険悪にはなりたくないのかもしれない。

そう思うことにした。

帰り道。

彼女は嬉しそうに食べている。

それで終わると思った。

でも――

腕を掴まれた。

「イツキ……今日、一緒に過ごさない?」

沈黙。

どういう意図だ?

でも、知るには受けるしかない。

「いいよ。どこ行く?」

少し恥ずかしそうに言う。

「金曜だけ開くゲームの屋台……ずっと行きたくて。でも、一人じゃ行けなくて」

「なんで俺?」

視線を落とす。

「従兄はモニカといるし……友達でもいいけど、あなたの方が安心する」

言葉が出ない。

「じゃあ……八時でいい?」

「……ああ」

彼女は、素直に笑った。

その笑顔は――本物だった。

教室に戻る。

授業は普通に進む。

残り五分。

遠くのアヤエを見る。

どこか沈んでいる。

何かを抱えている顔。

チャイム。

振り向くと――

もういなかった。

一人で帰る。

どうしてだ?

何かしたか?

ゲームが好きだったよな。

よく家に来て、一緒に遊んだ。

……そのとき、無意識に触れてしまっていたのかもしれない。

彼女が嫌がることを。

女性なんだから、当然だ。

そして思い出す。

ナツキと組んだこと。

あのときの視線。

そして今夜――そのナツキと出かける。

最悪なのは、そこじゃない。

――母との約束を、少しずつ破っている気がすることだ。

家に着く。

静けさが、いつもより重い。

部屋に入り、レポートを見る。

印刷していない。

壊れたプリンター。

ただの置物。

クンゼに電話する。

「うちで印刷していい?」

「来いよ」と即答。

外に出る。

少し冷たい空気。

家に着くと、クンゼは妙に元気だった。

いいことがあった顔だ。

印刷をしながら、話す。

――アジアの話になった。

表情が変わる。

「アジアってさ、すごくいい子なんだ」

「花束とぬいぐるみ渡したんだ。頑張るって言った」

「毎週土曜、一緒に出かける予定でさ」

嬉しそうに続ける。

「今日も、寝てた俺のこと心配してくれて……」

「めちゃくちゃ可愛かった」

軽く笑う。

「大事にされてるな」

「きっと、お前だけを見るようになる」

クンゼは嬉しそうに笑った。

「ありがとう、イツキ」

少しだけ、胸が詰まる。

「友達だからな」

印刷が終わる。

お金を渡そうとするが、断られる。

帰り道。

――アヤエがいた。

すれ違う。

まるで、存在しないみたいに。

「アヤエ」

反応なし。

「アヤエ」

止まらない。

三度目で、ようやく止まった。

振り返る。

その表情を見て――

言葉を失った。

ここじゃ聞けない。

無理に迫れない。

だから――

「最近あんまり話してないしさ」

「帰ったらゲームしないか?」

少しの間。

「……うん!」

即答だった。

それが――少し嬉しかった。

家でゲームをする。

笑っている。

いつも通り。

でも、分かる。

触れた瞬間、視線を逸らす。

何かがある。

ゲームが終わる。

電源を切る。

沈黙。

「アヤエ……なんで避けるんだ?」

視線を落とす。

「……私、彼氏できたの」

言葉が止まる。

「誤解されたくなくて……あなたが困るのも嫌だから」

何かが、壊れた。

理由は分からない。

でも――痛い。

無理やり笑う。

「そっか。おめでとう」

完璧な言葉。

でも、空っぽだった。

「……イツキ」

小さな声。

「誰なんだ?」

「まだ内緒」

「……そっか」

理解なんて、してないのに。

「顔、変だよ」

「気のせいだ」

でも、もう戻れない。

彼女は立ち上がる。

「帰るね」

止めない。

その権利はない。

ドアへ向かう。

――振り返らなかった。

ドアが閉まる。

やけに大きな音。

一人。

コントローラーを握ったまま。

画面は真っ暗。

……なんでだ?

ただの友達だろ。

それなのに――

「彼氏」という言葉が、何かを奪った気がする。

もともと、自分のものじゃないのに。

勘違いしてたのかもしれない。

慣れすぎていたのかもしれない。

――それとも、ただの自己中心的な感情か。

ソファに倒れる。

天井が遠い。

静けさが冷たい。

分からない。

ただ――

痛い。

目を閉じる。

そのまま、眠りに落ちた。

胸の奥に、苦い感情を残したまま。

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