過去
月曜日が来た。
実験室での授業は、数分前に終わったばかりだった。
ほとんどの生徒は、すでに次の教室へ向かっている。
でも俺は、少しだけその場に残っていた。
ゆっくりと荷物を片付けながら、頭の中を整理しようとする。
――無駄だった。
思考は、何度も同じ場所へ引き戻される。
土曜日。
モニカの涙。
あの告白。
そして――
あれが始まりだったのか、それとも別れだったのか分からない、あの抱擁。
小さくため息をついた。
そのとき、背後で足音がした。
実験室のドアが閉まる音。
少し振り向く。
――ナツキだった。
ドアの近くに立ち、じっとこちらを見ている。
いつもとは違う表情。
笑顔はない。
ただ、冷たい視線だけがあった。
「イツキ……話があるの」
声は、真剣だった。
――いや、真剣すぎる。
「どうした?」
ゆっくりと、彼女は実験台の一つへ歩み寄る。
「土曜日、モニカと一緒にレポートやったんでしょ。家で」
質問じゃなかった。
最初から答えを知っているような言い方だった。
「……ああ。課題をやっただけだ」
ナツキは、俺の目の前の机に手をついた。
「私、あの子の彼氏の従妹だって、知ってるよね」
空気が、張り詰めた。
「……ああ」
「じゃあ聞くけど」
視線が鋭くなる。
「それ以外、何もなかったって、どう証明するの?」
「なんだよ、その質問」
「答えて」
はっきりとした口調だった。
「何もしてない」
苛立ちが混じる。
「モニカは、ただの友達だ」
ナツキは、小さく笑った。
でも、それは楽しそうな笑いじゃない。
「欲情して見てるわけじゃないのかもしれないけど」
視線が突き刺さる。
「――愛してる目で見てるでしょ」
胸を殴られたみたいだった。
「それの方が、よっぽど厄介なのよ」
何も言えなかった。
静まり返った実験室の中で、言葉一つひとつが重く響く。
「私の従兄、あの子と三年付き合ってる」
「三年よ」
指先で、机を軽く叩く。
「ねえ、イツキ」
少し身を乗り出してきた。
「その間に割って入ろうとしたら、どうなると思う?」
「そんなつもりはない」
「自覚がないだけかもね」
冷たく言い放つ。
深く息を吸った。
「何もしない」
ナツキは数秒、俺を見つめる。
信じるかどうか、測るように。
そして、一歩近づいた。
「よく聞いて」
声が低くなる。
「これ以上モニカに近づいたら――」
一瞬の間。
「学校中に言いふらすから。あんたが彼氏を奪おうとしてるって」
心臓の鼓動が速くなる。
「それに――」
さらに視線が鋭くなる。
「私の従兄、彼女に手を出そうとしてるって思ったら、大人しくしてるタイプじゃないから」
空気が重く沈む。
「一番最悪なのはね」
その目は、冷酷だった。
「モニカに嫌われることよ」
その一言が、深く刺さる。
「三年の関係、壊したってことになるんだから」
腕を組む。
「勘違いしないで」
冷たい分析のような目。
「あんたは、恋愛物語の主人公じゃない」
一拍。
「ただの――障害物よ」
何も言わなかった。
――いや、言えなかった。
もう、邪魔しないって決めていたから。
「これで分かったでしょ」
最後にそう言って、彼女は背を向ける。
ドアに手をかけ――止まった。
「ああ、そうだ」
少しだけ振り返る。
「本当に“いい人”なら」
一瞬の沈黙。
「自分の立場、分かってるよね?」
ドアが開く。
そして――去っていった。
再び、静寂。
荷物を中途半端に持ったまま、立ち尽くす。
――初めてだった。
本気の恐怖を感じたのは。
自分のためじゃない。
何もしていないことで、すべてが壊れるかもしれないという恐怖。
荷物をまとめて、教室へ向かった。
美術の先生はまだ来ていなかった。
教室には、ほとんど誰もいない。
そのとき、クンゼが近づいてきた。
少し迷うように口を開く。
「なあ……ちょっと頼みがあるんだけど」
「どうした?」
「アジアのこと、手伝ってほしいんだ」
恥ずかしそうに言う。
「前から好きでさ……でも、なかなか近づけなくて」
一瞬、黙って見つめる。
「お前、あいつと仲いいだろ?」
「だから……協力してほしい」
数秒考えて――答えた。
「いいよ。友達だしな」
「ありがとう、イツキ」
「ただし、ちゃんと誘えよ」
クンゼは目を逸らす。
「それは……無理だ」
「なんで?」
「絶対、振られる」
ため息をついた。
「じゃあさ、こうしよう」
「俺から“集まり”に誘う」
「ジェレミーと彼女も呼べば自然だろ」
クンゼの目が少し輝く。
「それなら……」
「任せとけ」
アジアのところへ向かう。
「よう、アジア」
「……イツキ。やっと話しかけてくれたね」
少し拗ねたような声。
「悪い」
軽く笑う。
「今度、集まりがあるんだけど来るか? クンゼと、ジェレミーたちもいる」
彼女の目が、わずかに輝いた。
「……うん、行きたい」
「九時、大丈夫か?」
「うん。行く」
放課後。
アヤエと一緒に帰る途中――
記憶がよみがえった。
去年のこと。
休み時間。
一人で席にいたとき、アジアが近づいてきた。
一歩一歩が、重そうだった。
「イツキ……」
小さな声。
「どうした?」
手が、わずかに震えている。
「言いたいことがあるの」
息を吸う。
「――好き」
時間が止まる。
「イツキが好き」
「ずっと前から」
涙が滲む。
「話し方も……優しいところも……」
「辛くても笑おうとするところも……全部」
そして――
「でも、分かってる」
静かな声。
「あなたは、モニカを忘れられない」
それは責める言葉じゃなかった。
――諦めだった。
「それが……つらい」
声が震える。
「どんなに頑張っても、勝てないから」
涙がこぼれる。
「私を見てほしい」
「私が、あなたを幸せにしたい」
「あなたが空っぽなとき、そばにいたい」
「ちゃんと、愛されてるって感じさせたい」
乱暴に涙を拭く。
「今すぐ選んでほしいわけじゃない」
深く息を吸う。
「でも……いつか」
一瞬の沈黙。
「もう彼女を愛してないときに、もう一度言わせて」
振り向かずに、去っていった。
――俺は動けなかった。
何も言えずに。
何も分からないまま。
現実に戻る。
ふと、考えたことのない疑問が浮かぶ。
――どうして、アジアは俺を好きになったんだろう。
たぶん、始まりは――
勉強を教えた日。
ノートを持って、彼女が来た。
「イツキ……これ、教えてくれる?」
声が、少し不安そうだった。
それから――
放課後、一緒にいることが増えた。
最初は簡単な問題。
でも、少しずつ時間が長くなった。
俺が説明して――
彼女は聞く。
――真剣すぎるほどに。
ふと顔を上げると、
ノートじゃなくて――俺を見ていることがあった。
やがて、彼女は成績を上げた。
数学も、化学も。
授業で手を挙げるようになった。
そのたびに、ちらっと俺を見る。
俺は、ただ頷いた。
ある日――
いつもより近づいてきた。
肩が触れる。
離れなかった。
そして――
そっと、頭を預けてきた。
思考が止まる。
「……そばにいると、安心する」
答えられなかった。
そのとき、分かった。
もうただの勉強仲間じゃない。
――それでも、何もしなかった。
たぶん……
一人じゃないって思えるのが、嫌じゃなかったから。
そのとき。
アヤエが、俺の沈黙に気づいた。
「イツキ……なんか考え込んでる?」
「大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
彼女は少し近づいてきて――
腕を掴んだ。
「大丈夫じゃないなら」
微笑む。
「私が、大丈夫にしてあげる」
その笑顔を見た瞬間――
今日初めて、違う感情が生まれた。
愛じゃない。
罪悪感でもない。
――温もり。
それが――
ナツキの脅しよりも、ずっと怖かった。




