前編
「あなたは私の運命の番だ、ああ、こんなに早く見つけ出せるなんて!」
……とても麗しい殿方で、この世で最も強いとされる、神に次ぐ力を持っているとされる種族の、龍神族のみが持ちうる、黄金の瞳を愛しいという感情で満たした方だった。
その方が、何の間違いかわたしを見て頬を紅潮させて興奮した様子で、こちらの手を取って歓喜しているのだという調子で、喋っている。
何が何だか分からない。
「初めまして、私の愛しい運命の番。あなたの名前を聞かせていただきたい!」
場面はとある社交界……ではなく、お姫様学校と言えば大体の所でああ、と納得される、貴族の地位に就いた親を持つうら若き乙女達が、一堂に会して学ぶ女学校の、もっとも格式高い春の祝祭日の舞踏会の会場。
数多の乙女達が、己の持ちうる武器を最大限に活用し、己にふさわしいか、それ以上を勝ち取りに行く、乙女達の運命を決める舞踏会のまっただ中で。
誰の邪魔もしてはいけない、と友達の動向を観察して、柱にもたれていたわたしは、数多の乙女達が取り囲み、何としてでもその寵を、興味を、と火花を散らしていた男性から、こうして言い寄られていた。
何が何だか分からない。この人は一体何が目的なのだろうか。
わたしの家は、歴史だけが長いとされる小規模な領地を持つ男爵家。領地の人達からは、貴族の女性が一般的に呼びかけられる称号、姫様、と呼ばれて育った私は、家の統治する場所は小さいながらもお姫様というものである。
経済状況は火の車ではないから問題ない程度で、でも背伸びした贅沢はとてもじゃないけれど不可能な収入しかない領地は、平穏で刺激がほとんど無い様な場所だった。
そこで生活していたわたしだったけれども、王国の慣例として、貴族のお嬢様……お姫様……達は少なくとも一年は、この女学校に通って世界的な常識を身につけなければならない、と言う事があったから、トランク一つの荷物を持って女学校に入学した。
女学校はなかなか異文化と言っても過言ではない世界で、わたしは常に
「田舎者の泥臭いひと」
と呼ばれていた。もう陰で言われているなんて次元ではない。面と向かって、より上等な衣類を纏い、より上等な学用品を所持する格上の人達から、笑い混じりに言われ続けて丸一年、という身の上だった。
それを別に恥ずかしいと思う事は出来なかった。領地も小さく、流行からも疎い。得意分野は羊の毛刈り、と言う事は、この女学校でのヒエラルキーとしては相当に下の方だと、早々に理解したからだ。
特待生と呼ばれるような、商家の才媛の方が、持ち物も身なりも洗練されていて、どっちがお姫様と呼ばれていたかと第三者に聞いたら、才媛の方であろうと言われるに違いない。そんな、育ちのわたしは、しかし似たような経済力の家の友達と、細々と交流し、上の人達に目をつけられないように注意しながら生活していたのだ。
友達は良い結婚相手を見つけなくちゃいけないと燃えていた。だから春の舞踏会だけは、とびきりの衣装を一年かけて仕立てて、この場に臨んでいた。
そんな大事な事を教えて貰っていたから、彼女達の迷惑にだけはなるまいと、物陰で友達の動向を観察していたのに。
わたしは今、相当な人数のお姫様から注目を浴びている。
それも、わたしの手を取り微笑む、この舞踏会で最上級の相手に見初められているという状態で。
「あの……何かの間違いでは……」
間違いであって欲しい。こんなに目立ちたくない。たくさんの人の視線がとげのように突き刺さる。
「龍神族は、番の匂いを間違える事なんてありません。ああ……こんなにも心が浮き足立つのが、番の香りなんですね。番を得た友人達が、番の素晴らしさを語るのも道理です」
天にも昇る心地、と言い足そうな彼は、わたしの手を取ったままこう言った。
「夢にまで見た愛しい番、わたしと三度踊っていただけますね?」
「そんな事は……」
「あなたを他の誰にも渡したくないのです。どうか、この一世一代の言葉をむげになさらないでください」
わたしは手を振り払って逃げ出したかった。だが、噂でも龍神族の機嫌を損ねた人間が、幸せな結末になった事など無いと聞いていたから、この龍神族の若君の怒りを買ったら、ただ事じゃ済まないと理解していた。
断れなかったのはそのせいだった。わたしは周りの視線が心底怖かったけれども、逃げ道がなかったから、こくりと頷く事しか出来なかったのだった。
三度立て続けに同じ殿方と踊ったらもう、婚約したような物、と言う暗黙の了解を、知らないわけでもなかったのに。
その舞踏会から、わたしの生活は一変した。龍神族との結婚式は、誓いの言葉を唱える神官の前に花婿が立って、親しい女性に連れられた花嫁が現れ、その女性を証人として誓いの言葉を唱え、夫婦になると言う物だった。
その結婚式までの準備は、一般的に丸一年を費やすと言われていた。その間に、式にふさわしい衣装や装身具や、己磨きを行うのである。
結婚式当日が、最も花嫁の美しい時であれば、その夫婦は幸福な夫婦になれる。
そんなジンクスが有る事も、己磨きを一年も行う理由であろう。
わたしは彼から繰り返し繰り返し贈り物を届けられ、彼の知り合いという女性達おすすめの美容方法を行わなければならず、地味であり平凡であり……それと比べれば自由であった学校生活を失った。
友達は皆、龍神族の花嫁の機嫌を損ねたら、後が怖いと距離を置いてしまった。わたしはたった一人一緒にいてくれた、同じ年齢の侍女のマルグレーテしか、心を許せる友達が居なくなってしまった。
マルグレーテはとびきり美しい少女で、こんな綺麗な女の子がどうして、たかだか小規模な領地の男爵家の、ぱっとしない娘の侍女になったのか、誰もが首をかしげる、そんな美しさの子だった。
「また美容方法が送られてきましたよ! まあ、この泥を塗るとお肌のきめが整いすべすべになるという事です!」
「一昨日は果物の輪切りを乗せると書かれていたわ」
「美容方法って、際限ないのですね」
マルグレーテは鈴のような声で笑った。わたしの結婚がうれしくてたまらないのだという調子だった。
わたしは吹き出物の増えた顔をちょっと難しくしてこう言った。
「ありすぎて、毎日のように違う方法をしているから目が回りそうだわ」
「大丈夫ですよ! 姫様は世界一美しい花嫁になれますって」
美容にはこの食べ物が。体型維持にはこの食べ物が。脱毛方法はこれ。たくさんのたくさんの手紙と道具が送られてきて、わたしの部屋を圧迫した。
……その頃にようやく、幸せな花嫁になれるのだと自分の中で折り合いがついて、わたしは結婚が楽しみになってきていた。
「お前が喜ばしい結婚相手と出会えて何よりだ」
父は目を細めてそう言ってくれた。長男次男と、流行病で小さな頃に先に天国に旅立たれていた父は、三男である兄の事を見守るのだけで手一杯な部分があって、わたしは置き去りにされたような気分でいたけれども、結婚を喜んでくれる程度には、情があったのだと思うと、安心した。
そういえば、父から冷遇されたわけでもないのだ。食事は父や兄と同じ物であったし、凍えるような部屋を与えられた事もないし、学用品がみすぼらしい物だった経験もない。
わたしは父の出来る精一杯の上等な物を、与えられて大事にされて育ってきたのだ。
「しかし、お前。ちょっと見ないうちに……ふっくらしたな」
「そうでしょうか」
わたしは最後に父に会った時よりも、柔らかくなった腹部だとは思っていたけれども、そこまででもないと感じていた。
たくさんの美容方法は、ここのところ食事管理が大きくなっていて、あれを食べると良い、これを取り寄せるとよい、と言う話ばかりになっていたのだ。
龍神族の機嫌を損ねたら大変だから、誰も偽りなんて書かないだろう。
だからわたしは、美容方法の手紙を疑った事が一度も無かった。
鏡を見ると結婚前は落ち込みやすいから、鏡を隠すという美容方法も行っていた事もあって、自分の体や顔を、鏡でじっくり見る事もしばらくしていなかった。
「……お前が幸せで健康ならそれでいいんだが」
父は女性の容姿をあれこれ言う人ではなかったから、そうなんとも言えない声で言うばかりだった。
結婚衣装は、胴回りやその他を、四回作り直す事になった。毎回布地を足す作り直しで、仕立屋の人達は
「美しい花嫁衣装を絶対に仕上げて見せますとも!」
そう鼻息荒く宣言していた。実際に、見せて貰う段階の花嫁衣装はとても綺麗なデザインで、これを着られる幸運が、胸いっぱいに満ちる程だった。
装身具も、何回か作り直しになった。首に食いこむ細い黄金の飾りは、痛かったから。
「お姫様がいよいよ結婚だと思うと、私も浮かれてしまいます!」
マルグレーテはそう言った。
そしていよいよ結婚当日のその日。神殿には龍神族の若君の結婚を見守りたいという参列者がひしめき、わたしは段取り通り、最後までそばにいてくれた親友の、マルグレーテに手を取られて、若君のところにしずしずと歩いて行った。
わたしの姿が見えてくるにつれて、参列者は戸惑いがちになっている様子だった。
「皆お姫様の美しさに驚いているんですってば」
何かがおかしい、と思って立ち止まろうとしても、力強い断言をするマルグレーテの方が信じたい言葉を言うから、わたしは祭壇の前に行き……目を見開く若君の視線が、わたしではなくて、美しいマルグレーテの方を見ているから、ああ、マルグレーテの美貌はどんな殿方にも伝わるのだろうと、思っていた。
そしていよいよ結婚式が始まったら、わたしも幸せになれるだ、と思ったその矢先。
「ちがう……君じゃない!! 本当の番はあなただったのですね! ああ、本当の番の香りはこんなにも愛しく思えるのか!!」
若君はそう大声で言い、花嫁衣装のわたしではなくて……手を引くマルグレーテの片手をとって跪いたのだ。
「え」
何が起きているのか分からなかった。でも、選ばれていたのはわたしじゃないという事だけはこんな状況だから伝わってきた。
信じたくなかった。あり得ないと言いたかった。
でも。
「こんなに泣きはらした目をして……さぞこの偽物につらい思いをさせられてきたのですね。もう大丈夫です。愛しい番、あなたをこれ以上何者にも傷つけさせません!」
若君は力強くマルグレーテにそう言い、わたしを冷たい視線で見やってこう言った。
「番の香りを纏って近付くなんて。お前のような汚らわしいぶくぶくに太った偽物に、騙された私も愚かだったが! 衛兵、この偽物を牢屋に連れて行け! 龍神族の番を偽るなど、万死に値する!」
「……ごめんなさい、お姫様……どうしてこんな事に……」
大声で宣言する若君。……見た事のない勝ち誇った顔ながらも、悲しげな顔で言うマルグレーテ。
めまぐるしく変わる現状に、ついて行けなかったわたしはそのまま、兵士に三人がかりで引きずられて、幸せの絶頂から転落したのだった。




