8 アルバイト
ゴールデン・ウェークが終わる頃、美咲はコンビニエンスストアでアルバイトをすることになった。
学校と家の中間くらいにあるコンビニエンスストアで募集の張り紙を見て、Mが言っていたことを思い出したのだ。
『学校の帰りに、コンビニエンスストアなんていいかもしれないと思っています。M』。
確かにそうかもしれない。早くアルバイトを始めたいという思いもあって、美咲はすぐに応募を決めた。
駅の近くや商店街はクラスメイトに遭遇する可能性が高い。その点、学校と家の間なら知っている人間に会うことはまずないだろう。美咲の卒業した中学校から同じ高校に進学した同級生は男子一人だし、コンビニエンスストアの場所は家の近所からは離れているので中学校の同級生や近所の顔見知りが来るような場所でもない。学校全体の単位で見ればこのコンビニに寄る生徒もいるかもしれないが、美咲には中学校の同級生の男子と部活に所属する数人の同級生や先輩以外、高校に顔見知りと呼べる人間はいなかった。
『部活の無い日の放課後、帰り道にあるコンビニでアルバイトすることになりました。H』
いつものように丁寧に紙片を折り畳み上履きに隠しながら、Mはアルバイトをどうしただろうと思う。Mの希望通り、そして美咲のように、帰り道にあるコンビニエンスストアでアルバイトできていればいい。
アルバイトをやってみたいという、Mの純粋な興味が叶っていたらいいと思う。
美咲は違った。美咲にはアルバイトをしなくてはならない強い理由があった。
一つは、高校に入ったらアルバイトをしてほしいと母に言われていたから。
もう一つは、家にテレビ人間がいるからだった。
美咲が高校に入学する頃から、テレビ人間の出没頻度が増えた。夕方六時のニュースがテレビ人間の瘴気を浄化するその時まで、家に帰りたくなかった。
♢
Mからの返事はすぐにきた。
『アルバイトを決めたのですね。私には今は無理そうだから、うらやましい。いつかわたしも心置きなくアルバイトをやってみたい。貴女の話を楽しみにしています。M』
それからというもの、美咲はやりとりの中にアルバイトの様子をできるだけ書くようにした。
『今日は初めてレジを打ちました。普段、何気なく行っているコンビニのレジがこんなに大変なものだと知ってびっくりしました。覚えることがたくさんあります』
『今日は初めて品出しをしました。おにぎりやパンの入ったプラスチックのコンテナは思ったよりも重くて大変でした。商品を並べるのにもコツがあるようです。教えてくれたパートさんの手際の良さに驚きました』
『今日は初めてお金の補充をしました。百円玉や十円玉が棒のようになっているのをバラバラにするのは緊張しました。あんなにたくさんの五百円玉を初めて見ました。お札を数える練習をバックヤードで何度もやりました』
こんな具合だ。
Mへ手紙を書いていると、アルバイトを始めてから『初めて』と『驚き』が増えていることに気付く。
この手紙は日記ではないけれど、こうして日々あったことを記録すると自分の生活の大きな変化に気付くものだ。
Mの存在は、美咲の生活を見たことのない開けた景色へと確実に運んでくれる。
♢
『初めて』と『驚き』の中にはもちろん大変さや凹むこともあったが、アルバイトはだいたい順調だった。
誰かの何かの役に立っている、という感触がしっかりとあった。
指示通りに動き、それが店という大きな機械を動かす動力となる。
その動力の一部となって無心に身体を動かしていると、テレビ人間のことや学校のことを忘れることができた。
生きている、と思うことができた。
その日は慣れてきた品出しを任されていた。『Like a virgin』を口ずさみ、夜の来客に備えたパンを棚に並べていく。
学校でも家でも鼻歌を口ずさむことなどないのに、アルバイトをしていると自然とメロディーが溢れてきた。並べてあったパンの日付をチェックしながらパンの列を整えていると、後ろから肩を叩かれた。
「うまいね、MADONNA」
話しかけてきた人影を見上げて、身体が硬直して動かなくなった。
学校の上位グループの頂点、二階堂晶が爽やかに笑っている。
「バイトしてるの?」
「え、うん、まあ……」
なぜこの人がここにいるのか。
ここは家でも学校でもない、自分が必要とされる動力になれる場所。侵略されない聖域。そう思っていたのに。
「あれ? 美咲ちゃん、晶くんと知り合いなの?」
隣のおにぎりの棚で品出しをしていたパートの成子さんが話しかけてきた。
成子さんは美咲の母よりも一回りくらい若く、ロングソバージュの茶髪を一つにまとめ、派手なピンク色の口紅を綺麗に塗った大きな口でよくしゃべる人で、店のムードメーカー的存在だ。
シングルマザーで夜は水商売をかけ持っているからか、サバサバと明るくおまけに面倒見も良く、アルバイトの学生や美咲によく話しかけてくれた。店長の計らいで、美咲はアルバイトの仕事全般を成子さんに教えてもらっているので、こうして一緒に仕事をすることも多い。
その成子さんが「晶くん」と親し気に言っていることに動揺してうまく思考がまとまらない。
「ええと、まあ、その……」
「僕ら同じ高校の同級生なんです」
すかさず横から二階堂晶が言った。
「ほら、日高さんて美人だから。学校だと高嶺の花で近付けないんっすよ。ここでバイトしてるなんてラッキーだな」
なぜそんな嘘を、と焦るが、成子さんはすかさず「そうよねえ」と同意する。
「でも晶くんだって美少年なんだから。大和撫子の美咲ちゃんとお似合いよぉ」
なぜかうれしそうに成子さんはにこにこと美咲に向かって頷く。美咲は曖昧に笑うことしかできなかった。
二人の会話から、晶がこのコンビニエンスストアの常連らしいことがわかって絶望的な気分になった。
二階堂晶はレジに『午後の紅茶』1・5ℓペットボトルを持っていき、支払いをしながら成子さんと話している。とても楽しそうだ。
美咲はやっと見つけたオアシスを最強のライオンに荒らされたガゼルような気持ちだった。
きっとこんな惨めな気持ちは二階堂晶にはわかるまいと思うと、腹立たしさを越えて憎悪さえ沸いてきた。
しかし悪夢はこれで終わらなかった。




