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1989  作者: 桂真琴
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7 1989年 5月 Mとのやりとり



「ねえ、聞いた? 二階堂君、この前の実力テスト一番だって」

「あんなに美形なのに勉強もできるってすごくない?」

「彼女いるのかな」


 隣の福本京子の席で女子たちが歓声を上げている。どん、という衝撃と共に、座っていた美咲は椅子からよろけ、読んでいた本が床に落ちた。


「あっ、ごめんねえ日高さん、いたのぉ? 気付かなかったぁ」

 福本に群がるように集まった女子たちはごめーん、と爆笑している。曖昧に笑い返し、美咲は本を拾って席を立った。


 教室から離れた廊下の窓際に立ち、ポケットからそっと小さな紙片を取り出す。

 Mからの手紙だ。


 あの日――美咲が自分の上履きに手紙を見つけ、返事を書いて放り込んだ日――の二日後、登校して上履きを履こうとしたとき、上履きの中に小さい紙を見つけた。

 耳の奥で心臓がどくん、と音をたてた。

 トイレの個室に駆けこみ、手紙を開き、この前と同じ流麗な字が現れたときは全身が震えた。


『心配してくれてありがとう。私は大丈夫。あなたが一緒にいてくれたら、私は救われます。そして、私たちは手紙を通して一緒にいられる。それをあなたも望んでくれるなら。Ⅿ』


 それから、Mとのやりとりが始まった。


 朝、登校して下駄箱をのぞくと小さな紙片が上履きに入っている。その返事を書き、下校のときに上履きに入れておく。


 そんなやりとりが数日に一回あるだけで、美咲の生活はがらりと変わった。


手紙が入っていた日はずっと、返事に何を書こうかと迷い、世界がキラキラして見え、時間が経つのが早かった。手紙が入っていない日は、放課後に下駄箱を見るまでドキドキした。


 美咲はすぐに返事を書いたが、相手からの返事は次の日のこともあれば三日後のこともあった。話題も統一されていない。


『桜が散ってしまいましたね。桜をとても楽しみに見ていたのでがっかりしています。M』

『わたしも桜が好きです。桜の季節が終わってしまうと毎年さみしくなります。H』

『部活はどこに入りますか? 私はとても迷っています。M』

『考え中。活動が少ない部活がいいと思っているけれど。H』


 それは交換日記とは言い難く、文通とも違うものだった。どこにでもあるノートの切れ端に会話の一部を貼り付けるような、そんなやりとりだ。


 それでも楽しかった。


 こんなに学校に来るのが楽しみになったのはいつぶりだろう。もう思い出せないくらい昔だ。それだけの長い間、学校は美咲にとって居心地の良い場所ではなかった。


 家という檻から出されて、唯一行くことが許される牢獄。

 それが美咲にとっての学校だった。

 それがMとのやりとりで一変した。


 学校という場所はきっと、本来こういう楽しさに溢れた場所なのかもしれない。

『異端』の自分が学校の楽しさを知れる日がくるなんて。Mからの手紙を眺めて、美咲は小さく笑う。クラスの上位グループに追い出されるようにして教室を出てきたけれど、まったく気にならなかった。

 廊下だと誰に見られる心配もないのでむしろラッキーだ。小さな紙片を破らないように慎重に本の間に隠し、もどかしい気持ちを落ち着かせて、そっと開く。


『少し暑くなってきましたね。私も活動の少ない部活がいいので運動部はやめます。M』


 Mも自分と同じ種類の人間なのかもしれない。そう思うとますます親近感が湧いた。運動部には入らないスタンス。それは運動ができるとかできないとか好きとか嫌いとかではなく、運動部という場所の空気になじめないからだ。目的である運動の他に、礼儀やよくわからないルールを強制されるあの空気感が居たたまれない。きっと、Mもそうなのではないか。


 そこで美咲は、思いきって一歩踏み込んでみた。


『文芸部に入部届を出しました。Mさんは? H』


 部活がわかればMを特定できるかもしれない。淡い期待でいっぱいになり、次はいつ返事がくるかとワクワクしながら上履きに手紙を潜ませた。


 しかし、これに返事がくることはなかった。


 最初、美咲は苛立った。Mは美咲を知っているのに、美咲はMについてまったく何も知らない。これはフェアじゃないし、部活くらい聞いてもいいのではないか? 


 しかし、四日経ち五日経つうち焦燥に苛まれた。

 このままMが手紙を入れてこなくなったら?


 Mに部活のことを聞いたのをひどく後悔し始めた朝、小さな紙片を上履きに見つけた。


 美咲は思わずその場に座りこんでしまった。「体調悪いの? 先生呼ぼうか?」と通りすがりの生徒に声をかけられ首を振り、そのままトイレへ直行して震える手で紙を開いた。


『こんにちは。最近、アルバイトについて考えています。学校の帰りに、コンビニエンスストアなんていいかもしれないと思っています。M』


 何事もなかったかのような文面が滲んで見える。わたしもアルバイト探してる、コンビニいいよねって思ってる、と呟いたとき、自分の頬が濡れていることに気付いた。


 手紙を書いて、返事がくる。

 ただそれだけのことが、美咲にとっては何よりも尊く、どれほど心の支えになっていたことか。


 もちろんMの正体は気になる。教室で、トイレで、たまに覗く購買で、注意深く周囲を観察したがMが誰なのかまったく見当もつかなかった。


 そのうちどうでもよくなった。


 この学校のどこかに美咲のことを見つめ、気にかけてくれている存在がいる。

その事実だけで充分な気がした。


 Mからの返事がこなかったときのことを思い出すと、身体の末端から凍り付いていくような心地がする。Mの正体を暴いて、この手紙のやりとりがなくなることの方が怖かった。



 だから美咲は、Mが誰だかを気にするのはもうやめた。



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