6 ささやかな自由
小学校を卒業し、ほぼそのままのメンバーで入った中学校でも美咲は『異端』であり続けた。美咲はますます『ベストヒットUSA』にのめり込んでいった。
土曜日の夜中に『ベストヒットUSA』をかじりつくように見て、日曜日には近所の本屋さんや図書館に行き、可能な限り洋楽に関する情報を集めた。
図書館に新設されたCD貸出コーナーで、洋楽CDの歌詞カードを手にしたときは飛び上がるほどうれしかった。
あるとき、歌詞カードの日本語訳に納得がいかず、自分で訳そうと思った。図書館で歌詞カードをコピーして、ノートに丁寧に貼り付け、調べた単語や言い回しを書きこんで訳を作った。家でも学校でも一人ぼっちなので、時間だけはなにしろたくさんあった。何度も図書館へ通い、英語の辞書を手に取って、単語の意味を一つ一つ調べた。
「いつも熱心に調べてるわね」
ある日、図書館の人が声をかけてきた。
「英語には一つの単語にいくつか意味があるものがあって、そういう単語を中心に覚えていくと便利よ。同じ意味の単語を集めて、オリジナルの単語帳を作ったりね」
美咲は貯金箱からなけなしのお金を出し、単語帳を買った。辞書で単語を調べるたびに丁寧に単語帳にまとめた。意味はもちろん、類義語や派生する言い回しなど、調べたことを加えていった。
洋楽の歌詞を訳すうちに、美咲は英語の構造をだいたい覚えた。知っている単語もたくさん増えた。今まで文字の羅列にしか見えなかった歌詞カードが意味のある文章として頭の中に再生されていくようになった。それが楽しくて美咲はますます英語にのめり込んだ。
マイケル・ジャクソンの『BAD』の翻訳が完成する頃には、美咲は洋書をスムーズに読めるくらいに英語が上達していた。
ある日学校でロッカーから荷物を取ろうとすると、上位グループ女子たちが美咲のロッカーの前で話を始めた。わざとらしい大声で会話し、美咲が困っているのをニヤニヤ見ている。とっさに『Everyone is foolish, everyone is cowardly, and everyone is strange』とつぶやいていた。
しかし、誰も美咲を咎めなかった。
『みんなバカでみんな卑怯でみんなおかしい』と言っているにも関わらず、だ。
変な目で美咲を睨み、ロッカーを邪魔するという楽しみに飽きたとばかりにその場を離れただけだ。
以来、嫌なことがあると美咲は英語でつぶやくようになった。英語を操れるようになった美咲は、学校の中でささやかな自由を手に入れた。
♢
だから、二階堂晶が同じことをしていることが信じられなかった。
自分と彼とでは住んでいる世界が違う。
二階堂晶は学校の最上位グループ、その頂点に君臨する。
そんな人間と『異端』で透明人間のような美咲とでは、同じ空間にいても宇宙的な隔絶がある。
けれど、二階堂晶が英語で毒を吐いたのを聞いてしまった今、「返事、書いたら?」と言った晶の真剣さを信じてもいいと思えた。
美咲は周囲を確認し、下駄箱から一番近いトイレへ入った。耳の奥で心臓が大きく鳴る。筆箱からシャープペンシルを出し、ノートを小さく破り、少し考えてこう書いた。
『Ⅿさんへ わたしが返事をしたら殺されないで済みますか? どうか無事でいてください。それから、わたしはあなたを知らないけれど、一緒にいられるのでしょうか。H』
もし下駄箱の前で二階堂晶に会わなかったら? 彼が英語でつぶやかなかったら?
たぶん返事は書かなかっただろう。ひとりぼっちの美咲をからかった酔狂な悪戯として、無視していただろう。
そうしたら、Mという人物は殺されたかもしれない。
Mが誰だかはわからないけれど、自分のせいで誰かが殺されるなんて嫌だった。現実ではもちろん、比喩的にも。
それに、あのとき二階堂晶とぶつからずに職員室へ手紙を届けても、教師が真面目に採り合ってくれたとは限らない。適当にあしらわれたかもしれない。その場合も、Mという人物が「殺された」かもしれない。
なにより、本当は美咲が手紙を書きたくてしょうがなかったのだと、返事を下駄箱に入れた後で気付いた。
小学校で『異端』になって以来、友だちと呼べる相手もいない、流行の交換日記もしたことがない。『異端』で、テレビ人間の檻で生きる自分には縁のないことだと諦めていたのだ。本当はそういうことがやってみたかったのだと気付いて、自分でも驚いた。
二階堂晶に感謝するべきだろう。
美咲はちぎったノートの端っこのギザギザが見えないように丁寧に小さく畳み、二センチ四方になった紙を脱いだ自分の上履きに放り込み、昇降口から小走りに外へ出た。
運動部の掛け声や計測のホイッスル、校舎のどこからか雑然と鳴る楽器の音、合唱の声、竹刀が打ち合う音、ボールの弾む音。いろいろな部活動の音が入り混じって背中から追いかけてきて、急速に身体が冷えていく。
謎の手紙のことも、二階堂晶との会話も。久しぶりに誰かとまともな交流をしたことに胸が温かくなっていたのに。
自転車置き場に着く頃には、さっきの出来事が遠い昔の記憶のように色褪せていた。
「I feel like running away」
呟くと胸の空洞に乾いた風が吹き抜ける。入ったばかりの高校。たぶん、ここにも自分の居場所は無いのだろう。
今までと同じ『異端』として、透明人間として生きる毎日がまた始まる。
それは気楽であると同時に、生きながら葬られるような苦痛でもある。
それでも、自分は毎日学校へ行かなくてはならない。
いや、学校しか行く場所がない。
テレビ人間の支配から少しでも逃れるには学校へ行くしかない。
だから、場所が変わっても同じことが繰り返されるこの日常を、一日一日何事もないように凌いでいくしかない。今までと同じように。
このときの美咲は、そう思っていた。




