4 1989年 4月 ものさし
美咲は下駄箱の前で立ち尽くしていた。
帰ろうとして何気なく手に取ったスニーカーの中に小さな紙が入っていた。そこには、とんでもないことが書かれていた。
『私と一緒にいてほしい。私が殺され、消えてしまうまで。Ⅿ』
イタズラだと思った。
自分にこんな手紙を書いてくる人がいるはずない。
自分は高校という場所でも『異端』なのだから。
始まったばかりの高校生活では早くもグループができている。勉強やスポーツができる、容姿が良い、などの好条件を揃えた上位グループ、上位グループに入らない勉強もスポーツも容姿も標準グループがその中でいくつかの小グループを形成する。勉強もスポーツも容姿もイマイチな者、あるいはアニメや漫画が大好きといったオタク、そしてどこにも属さない『異端』。それらは下位グループだ。
義務教育が終わっても、学校という場所では所詮同じことが繰り返されている。カテゴライズ。バカバカしい。心底バカバカしい。
けれど学校という狭い世界において、どんなにバカバカしいと思っていてもカテゴライズは執拗に学校の日常に組み込まれ染み付いていた。
それは学校の中で生きていくための「ものさし」なのだ。
学校の中では、何をするにもその「ものさし」が必要になる。
美咲は勉強もスポーツもできなくはない。肩までのストレートの黒髪にほっそりと伸びた白い手足。こじんまりとまとまった顔の中、猫のような切れ長の目が印象的な美咲を美人だという人もいる。
たぶん、条件でいえば上位グループであろう美咲はしかし、まちがいなく下位グループだ。
『異端』だから。
小学生のとき、テレビ人間の出現とある事件がきっかけで美咲は『異端』というレッテルを貼られ、それからずっと『異端』であり続けた。
高校に入学してからも美咲はやっぱり『異端』であり続けた。
話しかけられれば返事はするものの自分からクラスメイトの輪に混ざることはなかった。自分の席でずっと読書をしていた。最初の一週間で『異端』決定だということはすでに自覚していた。
だから、美咲が誰かから「一緒にいてほしい」などと言われるはずはないのだ。
放課後の昇降口は人でごった返していた。行き交う生徒たちの会話に「ゲームボーイ」という言葉が多く混ざる。新しく発売されるゲーム機のことらしいが美咲にはよくわからないし関係も無い。日々の食事にさえ事欠く美咲の家でゲーム機が購入されることはまず無いだろう。
縁の無いゲーム機の話より、手の中にある紙片の方が大事件だった。
殺される? 消える?
美咲の通う高校は一般的にレベルが高いと言われる都立高校だが、数年前に改築した校舎以外は他に特筆すべき点はない。美咲にとっては自転車で通えるので、交通費の心配がないという個人的利点はある。
そんな学校で、殺人事件が起ころうとしているのだろうか?
そう考えると急に鼓動が速くなった。自分一人で抱えていていい問題ではないと思われた。職員室に届けようと下駄箱の前から離れたとき、誰かとぶつかった。
「おっと、悪い! 大丈夫?」
160cmの美咲が見上げるほどの長身。そこに乗っかる、信じられないくらい整った顔がはにかむように笑う。
美咲はあわてて頭を下げた。
「こちらこそすいません」
ぶつかった男子は一年A組二階堂晶。
三月に滑りこみで入試を受けた帰国子女で、全教科満点で突破したという。そのため、入学式で学年代表として挨拶をしていたので顔を覚えている。
英語が堪能。190cmの長身に茶褐色の瞳が印象的な彫りの深い顔立ち。父親は大手商社に勤めるエリートサラリーマン、顔の良さは元・客室乗務員の母親譲りらしい――入学して間もないこの時期でも、校内に彼を知らない人間はいないだろう。
間違いなく上位グループの、その頂点に君臨する人間だ。
「日高さん、手に何持ってるの?」
「えっ……」
咄嗟に言葉が出なかった。二階堂晶が美咲の名を知っているとは思わなかった。
「あ! もしかして下駄箱にラブレター入ってた?」
端整な顔がからかうようにニヤリ、と笑う。その表情に微かな苛立ちを覚えて上履きを睨む。二階堂晶の上履きは美咲より二回りは大きそうだ。
「そんなんじゃ、ない」
「へえ、じゃあ何が入ってたの?」
美咲は本格的な腹立たしさを覚えた。――あんたには関係ないじゃないか。なぜ学校一の有名人がわたしにかまう? 他の上位グループの人々のように、わたしを透明人間のように扱ってくれればいいのに。早くここから立ち去ってくれればいいのに。
「返事、書いたら?」
低い声に思わず顔を上げた。
整った顔からはふざけた笑みは消え、茶褐色の双眸が美咲をじっと見ている。
ふいに誰かの大声が聞こえた。ゲームボーイが手に入ったから土曜日にやろうぜ二階堂。続いてひやかすような声。バカ今取り込み中だろうが。彼らの間で「ゲームボーイ」という単語が何度も繰り返される。再び誰かが「晶」と呼ぶ。
二階堂晶は「今行くから」と爽やかな笑顔で手を挙げた後、小さく溜息を吐いた。
『It's rubbish』
美咲は思わず息を飲み、端整な顔を見上げた。
茶褐色の双眸が美咲を見て秘密を共有する者がするように笑んだ気がした。それも束の間、「またね」と軽く手を上げ、二階堂晶は去っていった。
晶が動くと同時に、美咲に向いていた視線も動く。美咲は透明人間に戻った。周囲の風景は美咲など存在しないかのように通り過ぎていく。
どうして、と美咲は思う。上位グループの頂点にいる人間が、どうして。
そっと手を開くと握っていた紙片はしっとりと湿っている。自分がひどく緊張していたことに気付いた。
二階堂晶は美咲が気付いたことに気付いただろうか。
英語を使ったのは周囲に気付かれないように毒を吐きだしたいから――そんな密やかな願望に美咲が気付いたことを。
♢
中学生の頃、美咲は英語でつぶやくことを覚えた。
息をするのが苦しくて仕方ないとき、思いを英語で呟くことで、誰にも気付かれないように黒い澱を吐き出し、自分の中を掃除した。
それは、小学生の頃に始まったいじめがきっかけだった。




