3 テレビ人間と『ベストヒットUSA』
テレビ人間はいつから美咲の家に現れるようになったのか。
それは美咲にとってまったく予期しない、突然の出来事だった。
ある日、学校から帰るとテレビ人間がテレビの前に座っていたのだ。
薄暗い昼下がりのリビングにテレビが煌々と点いていて、その前に四角い物体が座っている。正確には頭部が四角いテレビ画面、首から下は人間だった。その謎の生き物は胡坐をかき、四角い頭部を左右に揺すってテレビに向かい合っていた。
その姿を見たとき、美咲は震えが止まらなくなった。
肝試しやお化け屋敷もへっちゃらで、昆虫をも素手で触れる美咲が、怖くて怖くて玄関にしゃがみこんだまましばらく動けなくなった。それは正体不明のものに対する本能的な恐怖だった。
あれはなんだ?
ヒトか? 化け物か?
♢
美咲の家は都心郊外のベッドタウンに建てられた団地だ。
2LDKの間取りで、玄関とリビングをつなぐ狭く短い廊下を通るまでもなく、玄関からリビングのテレビが見えるという作りだ。
そうっと帰宅してランドセルの肩ひもを握りしめ、首を伸ばしてリビングをのぞく。
リビングが暗く静かなら心底ホッとした。
テレビが煌々と点いていれば絶望で身がすくんだ。それはテレビ人間が潜んでいる証拠だから。
テレビ人間の顔はどこの家にもあるような黒い二十型の四角いテレビで、ブラウン管の中は何も映らない真っ暗な闇だ。美咲はそれを見るのが何よりも怖かった。
それなのに、美咲がどんなに音をたてないようにしても、テレビ人間は美咲の帰宅に気が付く。
そして、その真っ暗な顔をこちらに向け、猫なで声で言うのだ。
《こっちにおいで。おかしがあるぞ》
テレビの前のこたつ机には所せましとお菓子が並べられ、山盛りの氷を入れたガラスのコップになみなみと透明な液体が入っている。
テレビ人間の猫撫で声は砂嵐の音が混じって、それがまた怖ろしかった。地の底から呼ばれているような感覚。ブラウン管の向こう側にある正体のわからない何かに引き寄せられそうになるのが怖かった。
だから美咲は必死に首を振った。テレビ人間の傍に近寄っては駄目だ。頭の中で必死に自分に言い聞かせた。
ぜったいに、テレビ人間と話をしてはいけない、と。
美咲は玄関脇の小さな部屋へ入って扉を固く閉めた。
こっちにおいでー。おかしがあるぞー。
ねっとりとした声が家じゅうにこだまする。こっちにおいでー、おかしがあるぞー。テレビの砂嵐の音が渦を巻いて耳に身体に絡みつく。怖くて怖くて、美咲は潰れるくらい耳を強く塞いだ。
♢
こうして、美咲の家はテレビ人間に汚染されてしまった。
それは覆しようのない事実として美咲の生活を侵食した。まるで突然始まった理不尽な戦争のように。そして美咲は、とある困惑と焦燥を抱えることになった。
テレビが見たい。でも見れない。
学校に行けば前の日に放送されたアニメやドラマの話でもちきりだった。美咲はその輪に入っていけなかった。見たい。アニメもドラマも毎週決まった時間に見たい。けれどテレビ人間の出没は予測できない。だから美咲は周囲の同級生のように自由にテレビを見ることができなかった。
美咲はなんとか時間を見つけて、テレビをこっそり見るようになった。
下校したときにテレビ人間がリビングにいれば、その日はテレビに近付くことはできない。
テレビ人間が現れない日、それがチャンスだった。
その日だけは夕方も夜も、母がテレビを消してしまうまでアニメやドラマを見ることができた。
テレビ人間の行動は不規則で、だから同じ番組を毎週連続して見ることはできなかった。それでも、流行のアニメやドラマをこっそり見ることができた次の日、クラスメイトの話の輪に入れるとき、美咲は束の間の喜びを味わうことができるのだった。
♢
そんな美咲にもたった一つだけ、毎週欠かさず見られる番組があった。
『ベストヒットUSA』という番組だ。
アメリカのダイナーを想起させるネオンサインの番組タイトル。最初にそれを見た時の衝撃を美咲は忘れられない。
夜中、暗いリビングでこっそり点けたテレビから現れたそれは、まるで異世界の風景のようだった。
寝静まった家の中で、美咲はその異世界から溢れてくる光と音に魅了された。
Culture・Clubが、マイケル・ジャクソンが、MADONNAが、澱のように沈んだこの家の穢れを浄化してくれた。彼らが放つ光のおかげで美咲は思いきり息をすることができた。
『ベストヒットUSA』は美咲にとって唯一の救いだった。
♢
テレビ人間が何なのかは、ずっとわからないままだ。
確かなことは、テレビ人間は確実に美咲の家を侵食し、蝕み続けているということ。
美咲が何を願っても、この家の中ではテレビ人間に支配され、なにもかもを邪魔され続ける。高校へ入るための学用品でさえ買うことができなくなったように。
だから大学へ行きたいという願いも、きっと叶わない。




