エピローグ
いったん話が途切れて、けれどもわたしは先が気になり、思わず聞いてしまった。
「それで? テレビ人間はコップの中身を飲んだの?」
晶は首を振った。
「いや。飲まなかった。正確には、飲めなかったんだ。
テレビ人間はコップを持ったまま止まった。コップはこたつ机の上で、しかも手が終始震えているから、カタカタと小さい音が鳴って、その小刻みな音に俺はますます苛立って、早く飲めと促そうとしたんだ。
そうしたら突然、テレビ人間が言った。
『ごめんなぁ』って。
誰に言っているのだろうと思った。テレビ人間は俺を見ていない。何も見ていなかった。ただ虚空の一点を見つめて、ぽろぽろと言葉をこぼし続けた。
『これでもなぁ、おいはがんばったんじゃ。じゃっどん、駄目じゃったねえ。ちゃんとした人間になれんかったなぁ。どうすればちゃんと生きられるんか、けっきょくわからんかったし、おいの周りからはだんだん人が減っていったと。女房も、娘も。みーんなじゃ。みーんな、おいを見る目は冷たかった。おいはがんばっちょるのに、だーれもそれは認めてくれん。ちゃんとやれ、ちゃんとやれ、の一点張りじゃ。そげん言われても、どげんすればちゃんとできるんかわからんかったなあ』
テレビ人間は手に持ったコップを見て笑った。それは諦観というには疲れすぎた、何もかもどうでもよくなったような、空虚な笑いだった。
『美咲もおいのことはわからんかったじゃろうねえ。でも、恨んでおらんよ。美咲にもおいを恨むなち、言うてくれんじゃろうか。みーんな、仕方なかったんじゃち、美咲に言うてくれんじゃろうか』
濁った双眸がひたと俺を見据えた。
『おいはロクでもない人間じゃったが、巡り合わせも悪かったとよ。
じゃっどん、なんもかんもをがんばらんとその場所にいられんような生き方には、疲れたてしもうてな。もうどうにもならんかった。美咲には、かわいそうなことをしたち、思っちょるよ』
それを聞いた瞬間、気が付いたら俺は、テレビ人間が持ちあげたコップを取り上げていたんだ。
急いで台所の流しに二つのコップを持っていって中身を捨てて、水をジャージャー流して洗った。ひどい下水の臭いがして、それで頭が冷えていった。俺は何をしていたんだ。何をしようとしていたんだ。そう思ったとき、どっと全身から汗が噴き出した。
洗剤を塗りたくるようにして洗い終えたコップをさらに流しに置いたまま、俺は棚から別のコップを探して水を入れ、それをテレビ人間の前に置いた。
少し飲み過ぎているようだから水を飲むといいと勧めると、テレビ人間は怪訝な顔で、それでも素直に水を飲んだ。俺がこの丘の場所を聞くと、テレビ人間は怪我な顔で、それでも所在地を教えてくれた。俺は礼を言って、その場を辞したんだ」
野原を風が吹き抜けていく。しだいに色を濃くする夕暮れの陽の下、わたしたちは額に汗を流して遮るものもない野原の真ん中で話し続けている。
「だから、計画は成し遂げられなかったんだ」
「うん」
「ごめん」
晶は苦しそうに顔をしかめた。
「本当にごめん。美咲を絶対に守るって、言ったのにな」
「それでよかったよ」
わたしの言葉に、うつむきかけていた端整な横顔が上がった。
「晶がテレビ人間を消さなくてよかった。晶の手が穢れないでよかった。あんな人のために晶の人生がめちゃくちゃになるなんて馬鹿げてる」
「だけど、俺は」
「死ぬつもりだったからなんて言わないでよ。晶の家の事情はわからないけれど、御両親が晶のせいで離婚したなんて、それこそ有り得ない。それは晶も、もうわかってるんじゃない?」
沈黙が答えだ。
子どもの頃はわからなかった親の事情も、今ならわかることもある。母がなぜテレビ人間と一緒にいたのか。晶の両親がなぜ離婚を選んだのか。それはきっと、わたしや晶とは関係のない、当人同士にしかわからない事情があったのだと。
「それに、形はどうあれ、晶の御両親は晶の将来をすごく心配してたでしょう?」
「それは」
「だから晶が気に病む必要なんてない。死ぬ必要なんてないんだよ」
晶は黙って遠くの山なみを見ていた。その横顔と同じ場所を向いてわたしは続ける。
「晶の手紙のおかげで、わたしはまたここに来ることができた。この場所に来て、テレビ人間の正体を認めることができた。ずっと化け物だと思っていたテレビ人間は、わたしの父だった。そう、わたしの父だったんだよ」
「美咲……」
「それをずっと、認めることができなかったから、わたしは前に進めなかったんだと思う」
わたしは真っすぐ晶を見た。晶も、わたしから目を逸らさずにいてくれる。
「でも、ベルリンの壁が壊れたとき、晶から手紙をもらったとき、わたしは自分の意思を越えることができたんだ。ここに来て、ほんとうのことを見ることができた。それができたのは、きっと、晶がわたしをずっと見守ってくれたからだよ」
わたしはボディバックから一枚の古びた紙を出す。それは1989年に冷たい土の中に埋めた、昏く怖ろしいわたしの心だ。
「晶がカプセルに閉じこめたわたしの悲鳴に気付いてくれたから。Mと名乗ってわたしを誘導してくれたから。あのコンビニでバイトしていなかったら成子さんにも出会えなかったし、高校三年間、あのコンビニでバイトできたからこそ、わたし、大学に進学もできた。そしてこの場所で、父の存在を認めることもできた」
「……でも、美咲はそれでいいのか? テレビ人間を許せるのか?」
「許せないよ。でも、父だから」
言ってから鼻から笑いがもれた。あんな人が父だなんて。一般的な父親像からあれほどかけ離れている人もいないのに。
けれど間違いなく、あの人はわたしの父だ。
「うまく言えない。あの人のこと、絶対に許せないと思ってる。でも、忘れることなんてできないし、時間も血もわたしの一部なことは変わらない。だから忘れないでいいと思うの。もう同じ道を行くことはなくても、その記憶を持っていればいいと思う。それがたぶん、家族ってことなのかなって……」
うまく思考がまとまらない。でも晶は、わたしの言葉をひとつひとつに耳を傾けてくれている。わたしは心に浮かぶ思いをそのまま、一つ一つほどいて言葉にしていく。
「わたしね、今、とてもいい感じなんだ。きっと母も同じように感じている。そりゃあ毎日たいへんだけど、でもなんていうか、ちゃんと生きてるって思えるの。何者にも脅かされず、自分の足でちゃんと立ってるっていう実感がある。こういうのを、たぶん幸せっていうのかもしれないって思ってる」
わたしは隣に立つ晶を見上げる。
きっと自分はさっきまで涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、ずっと炎天下に立ち続けて日に焼けて、ひどい顔をしているだろう。それでも今のわたしの顔を晶に見られたかった。
溢れてくる思いに満ちた、このありのままのわたしを。わたしが伝えたい言葉を。
「だから、ありがとう晶。わたし、晶にも生きていてほしいよ」
晶が目を細めた。そして、わたしの汗まみれの頭をくしゃ、と撫でて、ふ、と表情を緩めた。
「美咲には救われてばかりだな。昔も、今も」
わたしも笑った。
わたしたちは、傾いていく夏の太陽を見ていた。1989年の夏に、あの河川敷でそうしていたように、いつまでも。
♢
坂道を下りながら、わたしたちはどちらともなく手をつないだ。
「ベストヒットUSA、終わっちゃったな」
「うん」
「代わりに始まった番組、見てる?」
美咲は笑って首を振った。だよな、と晶も笑う。
「ベストヒットUSAの最終回を見た?」
「見れなかったの。見たかったなあ」
あの頃はそれどころじゃなくて、忙しすぎて疲れていて、土曜日の夜もすぐに寝てしまうことが多かったから。今思うと、最終回を見逃したのは悔やまれる。
「かなりイケてたよ」
「見たの?!」
「うん。80年代の洋楽のダイジェストを流したんだけど、最高にcoolだった。ラストに流れた曲、なんだかわかる?」
なんだろう、と思う。美咲にとっては救世主だった番組の最終回のラスト。そのときに流れた曲を想像するだけでどこか厳かな気持ちになる。
「なんだろう……ふさわしい曲がありすぎて、わからないよ」
本当にわからずに思わず眉が寄ってしまう。そんなわたしに、晶は得意顔で言った。
「ジョン・レノンの『Woman』」
「へえ!」
新緑の中を走りぬけていくような、爽やかなメロディーとイントロが頭の中に流れ出す。
「昔、あの曲がリリースされたとき、俺はずっと歌詞の意味を考えていたんだけど、中学生の俺にはさっぱりわからなかった」
「それはそうだよ」
わたしは笑う。「だよな」と笑った晶は、けれどもすぐに真面目な表情になった。
「でも『ベストヒットUSA』の最終回のエンディングで『Woman』が流れたとき、ハッとしたんだよ」
つなぐ手に力がこもる。晶の大きな手がわたしの手を包みなおした。
「大切な人に感謝したい、離れていても想っているし、絶対に悲しませたり苦しませたりしないと誓うって――昔は意味がわからなかったその歌詞が、すとんと胸に落ちた。美咲と過ごした夏休みの時間がすぐに思い浮かんだ」
わたしは弾かれたように晶を見た。その高い鼻や真っすぐな眼差しはこちらを向かず進行方向を向いたまま、晶はちょっとためらいがちに言った。
「だから文化祭の前に河川敷で会ったとき、ああ言ったんだけど……覚えてる?」
もちろん覚えている。忘れるはずがない。
「返事を聞いてもいい?」
「えっ――」
わたしが何か言う前に晶の大きな声がさえぎった。
「いやいいんだほんとに! 今の美咲には彼氏がいるかもしれないし! 好きな男がいるかもしれないし!」
「え? いや、あの――」
「でもなんていうか! 俺自身が納得するためにっていうか! さっき美咲が……生きてほしいって言ってくれたから俺、生きてていいんだって、親の呪いとかもう関係ないって、本当にそう思えた」
晶はちら、とわたしを見て、すぐに視線を落としてまた大きな声を上げた。
「だから! これから新しく生き直すために、あの当時の気持ちでいいから聞かせてほしくて」
晶の顔が赤いのは夕陽のせいかもしれないしそうじゃないかもしれない。
でもそんな晶の顔を見てしまったら、わたしが抱えている想いを今ここで言葉にするなんてもっと無理だから、代わりにわたしは繋いだ手を大きく一度振った。
「美咲?」
「わたし、彼氏もいないし好きな人もいない。えっと、違うな。好きな人……なのかな、忘れられない人がいるの。ずっと。1989年からずっと」
晶が息を呑むのがわかった。
「その人のおかげでわたし、テレビ人間に立ち向かえたの。テレビ人間っていうわたしを苦しめてきた化け物をその人がきれいに消し去ってくれたの。辛いことがあっても、その人がいたから頑張れた。ずっとわたしの中にはその人がいて、だからきっとそれって……ああもう、うまく言えないけど、つまり……」
もうこれが限界。これ以上は言葉にできない。
恥ずかしさだけじゃなくて、身体中が温かい想いでいっぱいに満たされてしまって言葉が喉につかえている。
晶は一つ深呼吸をして、とても神妙な顔で言った。
「ジョン・レノンもこう言ってる。これからのことや過ぎ去ったことを思いわずらう必要はないって。大切なのは今この瞬間を楽しむことだって」
神妙な顔にいつものあのはにかむような笑顔が――いや、はにかむというよりちょっぴり意地悪な笑顔が浮かび、わたしを覗きこんできた。
「で? 返事は?」
「……You are so mean」
わたしは晶を軽く睨んだ。晶は可笑しそうに笑う。つられてわたしも笑った。
そしてわたしたちは繋いだ手を大きく振ってどんどん歩いていく。
アスファルトにスニーカーがリズムを刻む。そのリズムが叫びたくなるようなうれしさを身体中に満たしていく。唐突に、急激に、空腹を感じた。そういえば、空港に郷土料理を食べさせるお店があったな。ご当地ラーメンの店もあったはずだ。晶はどちらが好きだろう。
アスファルトを下るわたしたちの足音が、蜩の鳴き声に混ざって軽快に響いていく。
【了】




