29 丘の上で
雨が止むと思い出したように蝉が鳴きだした。けれど、さっきまでの暑さは少し和らいでいる。
雨宿りしたのは道の途中、屋根のついた小さな囲いで、ここには墓参りに使う桶や柄杓が置かれている。トタンの屋根にところどころ破れが見えるけれど、きちんと修復してあったので、わたし一人が夕立をしのぐには充分だった。
ここまでくれば、頂上はすぐだったはず。
アスファルトの道が途切れるところに水たまりができていた。夕立があると水たまりができるのは昔と変わらなかった。
あの頃一回りして避けた水たまりを二足で飛び越え、降り立った下草の中で思わず立ち尽くした。
変わったな。いや、変わってないか。
道と同じく、丘の上も整備されていた。墓と墓を区画する道には石畳が敷かれ、井戸には屋根がついていた。けれど、井戸の向こうに広がる野原は変わらなかった。
その景色を一望して、わたしは大きく息を吸いこむ。そして、目当ての墓を目指して、石畳を一歩踏み出した。
――ふいに、風景が重なった。
夕立に濡れ、夏の西日を金色に反射する丘の上に、わたしは幼い頃の風景を見ていた。
『提灯を振り回したらいかん。御先祖様が目印にする大事な火じゃ』
前を歩く背中が後ろを振り返って言う。わたしは上気した顔で大きく頷く。提灯の中には本物のロウソク、本物の火が入っている。本物を手にしているという感覚、そして黄昏時にたくさんの人々と同じ方向へ向かうという非日常。それらがわたしを不思議な感覚へ誘った。まるで夢の中を本当に歩いているような感覚。黄昏時に揺れる提灯の灯りが照らす風景。東京にいるときとは違う言葉を話す背中を見ながら、わたしはワクワクと厳粛さが入り混じった気持ちで提灯を捧げ待って歩いた。
やがて墓に着くと、そっと提灯が下ろされる。
井戸から汲んだ水で墓石を清め、それが終わると提灯の火が取り出されて墓に入り、墓石の両脇のロウソクに火が点される。
夏の宵の口、周囲を見れば小さな光が星のように散らばっている。薄闇の中に点されていく墓の火と提灯の火は、続々と墓に入ってくる人々によって増やされていった。
『まこちここは変わらんねえ』
線香の束に火を点ける横顔はのんびりと笑んでいるのに、なぜか泣きそうだった。何が変わらないの? と聞きたかったけれど、ロウソクの火が橙色に映ったその横顔が言葉をすべて吸い込んでいくようで聞けなかった。
『全部がこげん変わらんでおったら、よかとにねえ』
――そう言って、ここで手を合わせていたあの横顔は。
「……お父さん」
墓石の両脇に、いつ手向けられたのかわからない花束が、真夏の陽射しの中で枯れきって頭を垂れていた。
耳の奥で心臓が大きな音を立てている。墓石の脇、霊標には先祖の名や戒名、命日が刻まれている。その一番新しく刻まれた名前に、日付に、わたしは近付く。
何度も、何度も確認した。一字一字、食い入るように見た。そこに刻まれていた名前は。
それは父の母、つまり祖母のものだった。
――父は、生きている。
安堵と共に、忘れていた記憶の欠片が次々との奥底に湧き上がった。
この丘で見た横顔。一緒に虫捕りや川遊びをした広い背中。自転車の後ろに美咲を乗せて遠くまで出かけてくれた日曜日。お風呂でタオルの風船を美咲が飽きるまで作ってくれてのぼせた夜。お母さんには内緒だとこっそり渡してくれたパチンコの景品のチョコレートの箱。一人っ子だからと、一緒になって参加してくれた町内会の行事。
初めてテレビ人間が家に現れた日。テレビ人間に蝕まれていった日々。
気が付けば突き上げてきたものは奔流となり、声になっていた。わたしは獣のように唸りながら、一歩、また一歩と後じさり、ついに駆け出していた。
強い風のような、岩をえぐるような音が丘の上に響く。それが自分の慟哭だと気付いたときには、わたしは原っぱの真ん中に立っていた。
子どもの頃、花火に興じた原っぱの真ん中で、空に向かって叫び、涙なのか汗なのか分からないもので顔も手もぐちゃぐちゃで。
「馬鹿だ」
誰に向かって言っているのかわからなかった。父か? 自分か? 両方かもしれない。何度も、何度も叫ぶ。涙と汗と鼻水が口に入ってくる。それでも叫ばずにはいられない。
「馬鹿だ」
わたしには、確かに父がいるのだ。
テレビ人間が現れたときに、父はいなくなったのだと――そう思った。思い込もうとした。ずっとそう思い続けた。
でも本当は、気付いていた。テレビ人間の正体に。
「馬鹿だよ、お父さん」
どうして一緒に生きてくれなかったの?
本当は、生きたかった。一緒に生きたかったのに。
わたしが許せばよかったの? 受け入れればよかったの?
でもごめんなさい。それは、どうしてもできなかったよ。
怠惰を、暴力を、狡猾さを、どうしても許せなかった。
許してしまったら、受け入れてしまったら、自分が踏んばって維持している現実世界のすべてを投げ出すことになる、そんな予感があったから。
テレビ人間を選ぶか、自分の生きる世界を選ぶか。
二つの選択肢は両方取ることはできないし、双方が調和することもない。だからわたしは(きっと母も)、選ばなくてはならなかったし、決めた選択肢を懸命に生きるしかなかった。
そしてわたしは、ベルリンの壁が壊れた日、テレビを破壊し、テレビ人間のいない世界で生きることを選んだのだ。
でも。
わたしは空を仰ぐ。
かつてこの場所で、父と一緒に眺めたのと同じ空。広い夏の空を。
わたしが選んだ世界で生きることは、父の存在を認めない理由になるだろうか?
一緒に過ごした時があった。慈しまれたことも、愛しい記憶も、わたしを形作るもののどこかにそれはひっそりと生きている。今はもう色褪せてしまって思い出すのも辛い記憶になってしまったとしても、それは確実にわたしの一部だ。
「馬鹿だよ、わたしも」
忘れることなんて、できるはずがないのに。
もう戻れない月日、戻れない地点。それを忘れたかったのは、テレビ人間を憎むのに邪魔だったからだ。
でも、父がいた日々は確かにあった時間。わたしという人間の一部。
忘れなくてもいい。きっと。
わたしは踵を返し、墓に戻った。
使いやすい手押しポンプも真新しい井戸でペットボトルに何度も水を汲み、霊標にかける。幼い頃そうしていたように、手を合わせ、目を閉じる。
再び蝉の声が聞こえる。丘に吹く風が下草をなでていく音がする。それに混じって、微かな音が耳朶を打った。
セロファンが風にたなびく音。
わたしは立ち上がった。
見れば、丘の入り口に人影がある。デニムに白いTシャツ、遠くからでも背が高いとわかるその青年は、記憶の中の彼よりも少し髪が伸びていた。
彼はセロファンに包まれた仏花を提げて真っすぐこちらに歩いてきた。
「久しぶり」
あの頃と同じように、端整な顔ではにかむように笑んだ彼に、わたしは何も言葉が返せない。いや、伝えたいことが多すぎて、でも何から話していいのか混乱していて、言葉がうまく出てこない。
そんなわたしに、彼は両手で仏花を差し出した。
「ごめん。結局、俺はテレビ人間を消せなかった」
墓の前まで来た晶が、深く頭を下げた。




