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1989  作者: 桂真琴
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2 1989年 3月 大きなケヤキの木の下で



 子どもの頃おままごとに使っていたシャベルは陽に焼けて、美咲の記憶の中のそれとは違う物体になっていた。

 とても大事でとても気に入っていたピンク色のシャベル。幼い頃の楽しさの象徴。それは今や、死んだ熱帯魚を思わせた。けれどプラスチック特有の白けたしぶとさは、湿った土を掘るには充分だった。


 団地の敷地の片隅に作られた小さな公園。錆びた滑り台と砂場といくつかの塗装の剥げたベンチ。それだけでいっぱいになってしまう広さの公園の隅に、大きなケヤキの木が立っていた。すべてが小さく古ぼけた風景の中、そびえたつ大木は奇異にすら見えた。


 団地が建つ前からあった木だそうで、伐るのも難儀なのでそのまま残したという。子供が三、四人で手を繋いでやっと囲めるほど太く、下から見上げてもてっぺんの梢が見えないほど大きい。三月の冷たい雨の中、冬を越した裸の太い幹は濡れそぼっているが、ケヤキはいつもと変わらず泰然自若とそこにあった。


 美咲はピンク色のシャベルを置いて、掘った穴の中にそっとカプセルを入れた。

 めったにやらせてもらえなかったガチャガチャのカプセルは美咲の秘かな宝物の一つで、そのガチャガチャのカプセルの中には今、カプセルトイではなくノートの切れ端が入っている。


 それは美咲の心の声だった。


 卒業式を前にして、国語の先生が言った。『心の声を言葉にすると気持ちがすっきりします。書いたことが実現することもあります。それは言霊の力です。皆さんも言霊の力を信じて生きていってください』。


 だから美咲は心の声を文字に書いてみた。

 そして、中学校を卒業したことを記念し、このケヤキの木の下に埋めることにした。


 同級生たちはこの春休み、卒業を記念した旅行や遠出で思い出作りをしているらしい。卒業式の日にクラスメイトたちがその計画ではしゃいでいるのを見て、美咲も思い出作りをしてみようと思った。

 美咲には旅行や遠出の話をする友人がいない。そんな美咲にとって、小さいときからずっと傍にあるケヤキの木は特別な存在だった。このケヤキの下にカプセルを埋めることは卒業の記念にふさわしいことだと思われた。


 公園の古い外灯は頼りなく、ケヤキの下は暗い。

 最近、小さい女の子が誘拐される事件が世間を騒がせていて、模倣犯なのか、この団地の周辺にも不審者が現れるらしい。


 でも、怖くなかった。


 そもそも美咲には怖いと思うことが少なかった。同じ年頃の女の子が悲鳴を上げるようなこと――幽霊の話や昆虫を触ることなど――も平気だ。

 そんなものよりもっとずっと怖いものがある。



 美咲にとって何より怖いのは、テレビ人間だ。



 カプセルに土をかぶせている間、王様の耳はロバの耳という昔話が頭に浮かんでいた。あんなふうに穴に向かって思いきり叫ぶことができたらいいのに、と美咲は思う。叫ぶ代わりに、丁寧にガチャガチャのカプセルに土をかける。中に封じられている美咲の心の声を守るように、丁寧に、丁寧に。






 今朝、テレビ人間が冷蔵庫に隠してあった十万円を喰った。



 それは美咲の高校進学に必要な学用品を買うため、母がずっと前から準備して、やっと工面したものだった。


 テレビ人間がそれを喰ったとわかったとき、母は台所に掛かっているボロタオルを握りしめて泣いた。布に響きを濾された泣き声は嘔吐のようなだった。


 その様子を見てテレビ人間は嗤った。真っ暗なブラウン管から耳障りな砂嵐の音をたてる。テレビ人間は知っているのだ。母が大声を出さないことを。隣近所に泣き声を聞かれることを何より怖れていることを。自分の優勢を。


 見慣れた光景だった。いつものことだった。テレビ人間は時々暴れて母を殴る。そういうときも母はタオルに嗚咽するからだ。

 理不尽だと思う。しかし、美咲も母もただ耐えるしかなかった。ずっとそうやって生きてきた。テレビ人間には抗わない。無駄なエネルギーを使わない。すべてを諦めて生き延びることを考えなくては、日々の生活に呑みこまれてしまう。


 美咲は大学へ行きたかった。貧困から抜け出すには学問を修めることだと何かの本で読んでから、懸命に勉強した。


 そして通える範囲では最も進学率の高い都立高校へ進学できた。


 しかし少し未来が開けたと思うと、こうしてテレビ人間の影が立ちふさがる。それもいつものことだった。



 ある時からテレビ人間は美咲の人生に影を落とし続けている。



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