27 それからと届いた手紙
金属バットでテレビを叩き壊した夜以来、美咲の生活は一変した。
厚い黒雲の隙間から急に一筋の明るい陽射しが差すような、急激な変化だった。
警察に保護された美咲と母は、いくつかの行政手続きの後、すぐに古い団地を出て斡旋された小さなアパートに引っ越した。
生活を立て直すため母はフルタイムで働くようになった。美咲もアルバイトの時間や日数を大幅に増やした。
母と分担している家事を終えると学校の勉強を手早く済ませ、布団に入ったら一瞬で眠りに堕ちるほどの多忙な日々が始まった。
けれど美咲は、これまでにない幸せをかみしめていた。
口には出さないが母もそう感じているのが伝わってきた。
互いに、どんなに疲れていても一緒に食卓を囲み、笑顔で一日のことを話せる。それだけで、今の生活がこれまでとは比べものにならないほど幸せだと、互いにわかり合うことができた。
しばらくして、美咲は日高美咲から中村美咲になった。
その響きを聞いた瞬間、体内に長年蓄積されていた黒い汚れがすべてきれいに洗い流されたような、生まれ直したような清々しい気持ちになった。母は一言「ごめんね」と言い、美咲は「ありがとう」と言った。
コンビニエンスストアでのアルバイトは高校を卒業するまで続けた。
母と二人の生活を支えていくための一助だったこともあるが、成子さんや店長やアルバイト仲間、高校時代の大切なもののいくつかがここにあったからだった。
二階堂晶という人物が確かに存在したことも、大切なものの一つだ。
成子さんと晶の話をするたびに、あの夢のような晶との夏が確かに現実のものであったと確認することができた。
「晶くん、アメリカに行っちゃったんだ」
晶がいなくなったとき、成子さんはとても残念がった。
「高校生で一人暮らしなんて、いろいろと事情のありそうな子ではあったけど、ほんとモデルみたいに綺麗な子だったよね。美咲ちゃんに気がありそうだったから、ぜったいに二人をくっつけたかったのにな」
成子さんとはすっかり打ち解けて仲良くなっていた。美咲は母に相談しにくい学校でのことや進路のことも成子さんに話すようになっていた。兄弟姉妹のいない美咲にとって、成子さんは年の離れた姉のような存在だった。
「美咲ちゃん、本当によくがんばったね! 合格おめでとう!」
美咲が大学に合格したときも成子さんは手を叩いて喜び、コンビニエンスストアの店先で美咲を抱きしめて一緒に泣いてくれた。
ベルリンの壁が崩壊した日、金属バットでテレビを壊してから実に二年以上の月日が経っていた。
その月日の中で、美咲は無名の反逆者のように、異国の見知らぬ若者たちのように、絶対にできないと思っていたことを実現することができた。
――それを報告したいMも、晶も、いなくなってしまったけれど。
卒業アルバムの頁をめくると真新しい紙の匂いがした。この中のどこかにMがいる。そして、あのはにかむような笑顔も別枠で映っていた。二階堂晶、という文字を指でなぞる。その文字は美咲に、鮮やかで楽しくて切なかったあの夏と、文化祭の夜に言われた言葉を思い出させた。
――俺がテレビ人間を消すから。
美咲の生活からテレビ人間は消えた。しかし、テレビ人間がこの世に存在している限り、自分の奥底に抱える暗い重石のようなものはきっと消えない。
晶はどうしてあんなことを言ったのか。
テレビ人間は、どうなってしまったのか。
けれど、テレビ人間の檻からやっとのことで抜け出した美咲にとって、今それを確かめることはとてつもない恐怖だった。またあの生活に戻ってしまうことを想像しただけで夜も眠れないほど不安になった。
晶にまた会いたい。その気持ちと恐怖と不安に引っ張られたまま、美咲は日常生活に忙殺されるままテレビ人間の所在に触れることができずにいた。
♢
引っ越したアパートにはテレビがなかった。
世の中はますます情報に溢れ、テレビは情報の宝庫であり、その情報が日進月歩で世界を動かしている。
けれど美咲は、テレビを必要だと思わなかった。
それは母も同じだった。テレビはいらない。母も美咲もテレビはもうたくさんだった。
ベルリンの壁が壊れた夜、美咲はテレビを破壊し、同時に別の何かを壊した。その感触は鮮やかに、確かに、美咲の手に残っている。
♢
そして大学二年の八月――つまり二週間ほど前――美咲は手紙を受け取った。
シンプルな真っ白い封筒は封書にしては厚みがあり、切手と消印が二か所あった。再送されたようだった。
最初の消印の日付は去年の十二月。
もう一つの消印は七月三十一日、つい最近だ。
力強く美しく書かれた宛名の文字を美咲は食い入るように見つめた。その筆跡は美咲の記憶のどこかに強く引っかかった。それはどこだったか。
裏に返し、差出人の名前を見て、美咲はしばらく郵便受けの前から動けなかった。
差出人は二階堂晶。住所は広尾の住所だ。
もう一度その流麗な筆跡を食い入るように見つめ、引っかかっていた記憶の欠片の正体に思い当たり、更に驚愕する。
その筆跡は、Mと同じものだった。




