26 1989年 11月 崩壊
二階堂晶がいなくなった。
そのことは、学校中を旋風のように駆けめぐった。
後日、担任教師から「二階堂君は諸事情により、アメリカの高校へ編入しました」と説明があったときは、一年A組の女子全員が大泣きし、それが学校中に伝播した。自殺する女子が出るのではないかとまことしやかに囁かれたほどだ。実際しばらくの間、屋上へ続く階段は厳重に封鎖された。
文化祭での『BAD』のパフォーマンスの評判と相まって、晶の存在は校内伝説となっていった。
美咲は文化祭の直後に退部届を出し、文芸部をやめた。
そして放課後、アルバイトに精を出すようになった。
20時までアルバイト時間を伸ばし、バックヤードで廃棄となったお弁当やおにぎりをもらい、それを食べてから帰宅するようになった。店長にはお腹が空いてしまって家までもたないから、と嘘をついた。
本当は、家で夕飯を食べられなくなっていたのだ。
生活ができない、と母が言った。いよいよ、家のすべてがテレビ人間に喰い尽くされてしまった。
水道やガスが止まるのは隣近所に顔向けができないからと、母は光熱費を優先した。また、酒がなくなるとテレビ人間が暴れるため、酒を買う代金も優先された。そのため家には食べ物がほとんどなかった。あってもテレビ人間に奪われた。
母はパート先の飲食店でまかないを食べてきた。美咲にもアルバイト先で食べ物をもらうようにと言った。母は一日おきに食パンを一斤買ってきて、鳥が卵を温めるようにそれを抱えて眠り、テレビ人間から守った。そしてそれを袋ごと美咲に渡してくれた。
その食パン一斤が美咲の食事のすべてだった。朝は水道水と食パンを食べ、昼は冷蔵庫にわずかに残っていたジャムを薄く薄く塗って学校へ持っていった。そのジャムも尽きると、パサつく食パンを水筒に入れた水道水で咀嚼し流しこんだ。
ひもじいという言葉の意味を、美咲は初めて知った。
そして、これがテレビ人間によってもたらされた厄災だということに、美咲の中で怒りと恐怖が混濁して渦巻いた。
テレビ人間の所業と自身のひもじさを思って、息も苦しくなるほどの怒りを覚える。
このまま飢え続けたら自分の身体の生命活動は終わるだろうと奈落の底に落ちるような不安に襲われる。
毎日その二つの思考をいったりきたりした。
アルバイト先で廃棄の弁当や総菜をもらうことは、テレビ人間の存在を外に向かって喧伝していることと同じ気がして、恥ずかしくもあった。
そんなある日、美咲は水道水を貪るように飲んでいる母を見た。日曜日の昼のことで、母はパートが休みだった。ぐう、と空虚な音を立てる腹部を押さえて母は水道水を飲んでいた。その姿を見たとき、母がパートのまかない以外に食べ物を口にしていないと美咲は確信した。
食パン一斤。それがこの家の食料のすべてなのだ。
そしてその食パン一斤を、母はテレビ人間から守り抜き、美咲に渡してくれているのだ。
それ以来、美咲は恐怖や羞恥心をすべて捨てた。
店長と成子さんに、家に食べ物が無くて夕飯が食べられないと正直に伝えた。二人は何も聞かずに、廃棄処分のカゴから美咲が好きな弁当やおにぎりをいつも取っておいてくれた。家に持って帰りなさいと余分に弁当や総菜を持たせてくれた。
帰宅してテレビ人間に見つからないようにこっそり渡すと、ありがたいありがたいと母はビニール袋を抱きしめた。
美咲の部屋で母がそれらを食べている間、美咲は薄っぺらい部屋のドアを見張っていた。万が一にもテレビ人間が母の食事を邪魔しないように。
リビングはテレビ人間の巣と化していた。常に薄暗く、蜘蛛の巣のような靄のような茫漠とした何かに覆われたリビングは、いつも酒の臭いが充満していた。
こうしてテレビ人間は、完全に家の中を侵蝕した。
一日中、排泄と入浴以外は席を立たず、テレビの前で背筋を伸ばして左右に揺れて時を刻んでいた。こたつ机に突っ伏して寝ている他は、ほとんど動かなかった。世界の時間の流れとはまったく無関係な時間軸をテレビ人間は生きていた。美咲がリビングをのぞくと、いつもテレビだけが煌々と明るい光を放っていた。その光景を見るたびに美咲は思った。
――負けてたまるか。ぜったいにテレビ人間に屈しない。
以前はすべてを諦めていた。テレビ人間の支配する檻から出られないと思っていた。けれど、あの頃と違う何かが美咲を突き動かしていた。
晶と過ごした夏、そして晶が渡してくれたガチャガチャのカプセル。それは理不尽なものに屈しないという力と誇りを美咲に与えてくれた。
あのガチャガチャのカプセルには、美咲の心の声が閉じこめてあった。それを晶が持っていた。そして晶は言ったのだ。
俺がテレビ人間を消す、と。
どうして晶があのカプセルを持っていたのかはわからない。しかし、晶はあのカプセルの中身を見た上で「美咲を絶対に守る」と言ってくれた。
そのことがどれほど美咲を励ましてくれたことだろう。
いつか必ず晶と再会したい。伝えたいこと、聞きたいことがたくさんあった。
そのためにも、テレビ人間に負けるわけにはいかないのだ。
♢
そんなある日、美咲はその映像を見た。
テレビ人間がいつものように砂嵐のような音をたてて寝ていたが、それすらも忘れて美咲は本物のテレビ画面に釘付けになった。
ブラウン管には鉄条鋼の張られたレンガ塀が映っていた。ドイツのベルリンの壁だとすぐにわかった。それは教科書で見たことのある冷戦の象徴だ。
殺伐とした不吉な壁には夜だというのにたくさんの人が集まっていた。金髪の青年が数人、高いレンガ塀の上に上った。青年たちは大きな木槌でレンガ塀を叩き始めた。大きく振りかぶって、何度も何度も木槌を叩きつけた。レンガ塀の小さな崩れはやがて大きな壁の倒壊へ変化していく。そのたびに、集まった群衆から歓声が上がった。青年たちも手を挙げ喝采を上げていた。テレビ画面いっぱいに人々の歓喜が溢れていた。ずっと見ていると目の奥が熱くなった。
これはなんだろう。
人々の放つ強い躍動は、衝動は、いったいどこからくるのだろう。
美咲は遠い外国から送られてくるその映像から目を離すことができなかった。そして思った。
――これはわたしだ。
壁の壊れた箇所から、誰かが開けたゲートから、人々が溢れてどんどん歩いていく。夜なのに、そこは一触即発の危険地帯なはずなのに、まるでピクニックに行くような長閑さで人々は歩いていた。皆ほとんど荷物もなく、着の身着のままのようなのに、とても晴れやかな表情をしていた。
目が覚める思いだった。
――そうだ。こうすればいいんだ。
誰でも好きなことをする権利がある。好きなように生きる権利がある。それを邪魔するものを排除する権利だって、きっとある。
――玄関横のクローゼットに、金属バットがあったはずだ。
母は台所で片付けをしていた。テレビ人間はこたつ机に突っ伏したままだ。
美咲は薄暗い玄関でクローゼットを覗いた。微かに黴の臭いがするクローゼットの奥に、何かの暗示のようにひっそりと金属バットが立てかけてあった。持ち手を握ると、ひんやりとした感触が手に吸い付いた。
美咲はテレビの前に立った。
しっかりと金属バットを握り、足を肩幅に開き、テレビ人間に殴られたときのようにしっかりとふんばった。
そして、あの異国の青年たちのように、手に持った金属バットを大きく振りかぶった。
凄まじい音がした。母が飛び上がって振り返るのがわかった。でも美咲は止めなかった。もう一度思いきりバットを振りかぶった。テレビの上が凹んだ。美咲は何度も何度も金属バットをテレビに叩きつけた。
ブラウン管が割れ、プラスチックの枠が粉砕されていった。あっという間にテレビは原型を留めないほど無惨な姿になった。それでも美咲はテレビを叩き続けた。バットを叩きつける度に腹の底から声が出た。母は台所から黙ってこちらを見ていた。隣近所に響き渡るような破壊音だったが、母は美咲を止めなかった。美咲がテレビを滅多打ちにする様子をただじっと見ていた。
ふいに獣の咆哮で美咲はやっと手を止めた。
吼えていたのは獣ではなく、テレビ人間だ。
目を剥いて口から涎を垂らし、テレビ人間は意味不明な言葉、いや言葉にもなっていない音を発していた。その澱んで赤らんだ怪物のような形相を見た時、ああわたしは殺されると美咲は思った。
それでもいいと思った。
こんな毎日が、生活が、ここで終わるならそれもいい。
渾身の力を込めて金属バットを振り下ろす。プラスチックが割れる鈍い音とブラウン管が砕ける音。それらがテレビ人間の悲鳴と絡み合った。
テレビ人間は意味不明な音をまき散らし、玄関扉を壊して飛び出していった。玄関の周辺に集まっていた近所の人たちが仰天して道を開けた。誰かが警察を、と言っているのが聞こえた。
やがてサイレンの音が近付いてきて、数人の警察官が壊れた扉から美咲の家に駆けこんできた。
「大丈夫ですか!」
叫んだ警察官は状況を見て明らかに困惑していた。誰かが血まみれになっているわけでも、パニックになっているわけでも、部屋が荒らされているわけでもない。そこにはただ、金属バットを持った女子高校生と、めちゃくちゃになったテレビと、それを穏やかな表情で見ている中年女性がいるだけ。犯罪の痕跡はない。しかし明らかな狂気の臭いが充満している。
「なんなんだ、これは」
警察官たちは眉をひそめた。一人の女性警察官が美咲を毛布でくるみ、金属バットを回収し、美咲を座らせて、何があったのかと優しく聞いた。美咲は答えた。
「人は戦車の前にたった一人で立つこともできるし、永久凍土のような国境の壁を壊すこともできるんです」
警察官たちは目配せした。青少年課に連絡するか否かを判断しかねていたそのとき、別の警察官が飛びこんできて叫んだ。
「団地の敷地内の公園で、この家の住人だという不審者を取り押さえました! おそらくアルコール中毒の幻覚症状で暴れています! 至急応援を!」
部屋に警察官たちが飛び出していった。後には、美咲を抱きかかえている女性警察官と、母に事情を聴いていた警察官だけが残った。
母は台所にしゃがみこみ、ずっと押し殺した声を発していた。泣いているような笑っているようなその声を聞きながら、美咲はただぼんやりと座っていた。




